4. TDM850

2021年3月3日

1995年、オートバイから5年ほど離れていましたが、その間も「西独 MOTORRAD Katalog」の日本版「日本と世界のオートバイ最新カタログ」(成美堂出版)は毎年買っていました。

春になって、中古バイクショップで見つけたヤマハ TDM850(1992年に日本登場の初期型4EP)を手に入れました。SRX600と同様に、1年落ちで走行5千キロ以内くらいの中古車がいろいろな面でリーズナブルと思ってしまいます。

初めての水冷エンジンで、4サイクルDOHC 2気筒849ccという大きめのオンロード・バイクですが、ラリー仕様っぽく作られています。

360度クランクの2気筒エンジンはなかなかトルクフルで力強い吹き上がりでした。

SRX600に続いてのヤマハですが、TDM850に決める伏線はいくつかありました。次に乗るオートバイとして、SRX600で寒い思いをしたので風防がほしかったし、キックスターターだったので、右折するときにエンストして道路の真ん中でキックしていて恥ずかしかったことがあり、セルフスターターがほしかった、という2つの装備が基本条件でした。

別の伏線としては、パリ-ダカール・ラリーが好きだったので、1991年にサンタバーバラのバイク用品店に入ったら、ライダー用の革ジャケットで有名なドイツのハイン・ゲリッケ(Hein Gericke: 2016年に倒産)製のダカール仕様が格安でサイズがぴったりだったので衝動買いしたこと、1994年の大晦日に家族とスペイン旅行でグラナダの夜を散歩していて、その年(翌1995年1月1日スタート)からダカール・ラリーのスタート地がパリからグラナダに変わっていて、前夜祭に遭遇したこと、そしてTDM850の原型となったヤマハ YTZ 750 スーパーテネレのダカール・ラリー仕様(YZE 750Tと850T)がパリ-ダカール・ラリーで前年を除いて連勝していた(その後も連勝が続いた)こと、などがありました。

1994年の大晦日、ダカール・ラリーのグラナダ出発の前夜祭で何とか撮れたスナップです。周りには人がいっぱいいました。ヤマハを見つけるのは無理でした。

TDM850はSRX600より50kg以上重く、重心が少し高いようで、押したり引いたり回したりには体力と用心と慣れが必要でしたが、立ちごけはしなくなっていました。足付きもそれほど悪くなく、とても楽で安定していました。2本出しマフラーは初めてです。

セルフスターターは楽で気持ちいいですねえ。これ無しのオートバイには乗れない気分になりました。でも、2気筒のTDM850では路上でエンストした記憶はありませんし、このころはフルフェイスのヘルメットと革ジャケットなどで武装していて、高速道路には乗らないので、風防・カウリングの効果はよくわかりませんでした。SRX600で走った日本海オロロンラインをTDM850で再体験したかったのですが叶わず、今でも残念に思っています。

時々の通勤と定番の当別町ワインディング・ロードを楽しんでいたTDM850ですが、5年目の2000年春の初ライドで、いつものカーブでいつものライン取りができない感覚を持つようになりました。走行不足と運動不足だったと思います。前年くらいから仕事が忙しくなり、家では犬(パスカルSr)と遊ぶ時間を持つのが精一杯で、オートバイに乗る機会がめっきり少なくなっていました。当分は忙しさが続く予定だったので、大事を取って、しばらくオートバイをやめることに決めました。

TDM850は乗ってもらえる友人に業者の買取価格で買ってもらいました。彼は自分で整備もやって、10年くらい乗ってくれたようです。

TDM850はヨーロッパで人気が高かったようです。ヨーロッパ仕様(型式3VD)はエンジン特性が少し違いますが、基本は同じです。YouTubeでTDM850の動画を観ていて、ぶっ飛ばしている動画が多い中、初期型で一番穏やかな走りをしているイギリスの映像を共有リンクさせてもらいました。車載カメラ(オーディオ)のテストのようです。音が出ます。

オートバイはいずれまた再開すればいいと思いつつ、年月が過ぎていきました。10年ほど経って大阪に戻ってからは混雑した道路をオートバイで走る気にならず、いつの間にかオートバイから離れて20年が過ぎてしまいました。ライダーとしての楽しみは終わったようです。

オートバイに乗っていたのはトータルで10年くらい、走行距離は延べ2万キロくらいでしょうか。幸いにも走行中の車両トラブルや事故は一度もありませんでした。もっと長くいろいろなオートバイに乗ってみたかったものの、遊びの時間は限定予算の配分ゲームみたいなもので、オートバイへの配分はこれが限界だったのでしょう。

今でもオートバイの話題はインターネット上で眺めています。クイックシフターが出てきて、とうとうホンダがDCT(Dual Clutch Transmission)を搭載した大型オートバイを出しました。現在乗っているクルマと同じ構造の自動変速機ですが、さて、オートバイでオートマを選ぶかな?と不要な悩みを持ちながら観ていました。

オートマといえば、ハーレーも電動オートバイを出してきました。電動ではギア・クラッチのみならずガソリンタンクも不要なので、ニーグリップはどうなるかと気にしていたら、ガソリンタンクそっくりの充電ポートカバーが付いています。

また、前二輪なのにリーン(傾斜)できる高機能の三輪モーターサイクルも出てきました。ヤマハのNIKEN(二剣だそうですが、ナイケン)です。ちょっと武骨な感じを受けますが、気軽にツーリングを楽しめそうです。三輪(Three-wheeler)なので、和製カタカナ英語のオートバイ=Auto-Bi(cycle)は使えなくなります。バイクかトライク(trike=tricycle)かで区別するのも面倒なので、やはりこれからはモーターサイクルと呼ぶのがよさそうですね。

時代は変わりつつありますが、モーターサイクルへの興味は続くでしょう。でも今後は映像を観るだけにして、地道に自転車を楽しむことにいたしましょう。

(完)

3. アメリカのM1免許

2021年3月2日

1990年8月、カリフォルニア州サンタバーバラでフィエスタ(スペイン祭)の警備に来ていた白バイ隊員にいろいろと話を聞いていました。

この頃のカリフォルニア州の白バイはカワサキのKZ1000Pでした。このシリーズのオートバイは日本でも放映されたテレビドラマ「CHiPs:白バイ野郎ジョン&パンチ」でお馴染みでした。もちろん彼も観ていて、交通警察官になったのはその影響もあったと笑って言っていました。

アメリカでの長期滞在では中古車を買うため(保険に入るため)に自動車免許を取らなければなりません。10年前と同様に自動車免許をすぐに取得して、ホンダ・シビック・シャトルを購入して乗っていました。

翌1991年3月、仕事が一段落して1週間ほど休めることになり、オートバイの免許を取っておこうと思い立ちました。アメリカでオートバイに乗る予定はなかったのですが、好奇心と後学のためです。オートバイ免許には2種類しかなく、クラスM2が150ccまでのモペッドやスクーターなど、クラスM1が日本の大型自動二輪免許に該当しますので、M1を受けます。

近所にあるDMV(Department of Motor Vehicles:自動車の登録と免許を扱う役所)に行って、自動車免許と社会保障番号(Social Security Number)を見せて申請し、その場で簡単なペーパーテストを受けて合格したらオートバイの仮免許をもらえます。これで路上運転練習(夜と高速道路はダメ)して技能(実技)試験を受けることができます。国際免許でも可能だと思います。技能試験は予約制です。

自動車免許と同様に、オートバイ免許でも技能試験を受けるためには自分でバイクを用意しなければなりません。レンタルバイク店を探しましたが見つからず、住んでいたゴレタ(Goleta:サンタバーバラの隣町)にあったゴレタ・ホンダ(ホンダオートバイ専門店)を訪ねて、店主のおじさんにM1免許取得のためにバイクをレンタルさせてもらえないか、と尋ねてみました。すると、レンタルはしてないけど、スクーター(ホンダのフリーウェイ 250cc)を無料で貸してあげるよ、とびっくりするような返事をいただきました。技能試験にはヘルメットも必要だから貸してあげるとのことでした。

ご好意に甘えて、ヘルメットとフリーウェイ 250を4日ほどお借りしました。

アパートの駐車場でシビックの前に駐輪した後ろ姿です。ホンダが並びました。

これで技能試験を受けることができます。自動車の技能試験は一般道路上で試験官が同乗して行われますが、オートバイの技能試験はもっと簡易です。カリフォルニア州ではDMVの一角に、円と直線が描かれたオートバイ技能試験用コースが設置されています。

下調べのときの写真です。オートバイ技能試験コースの上に駐車しています。試験をしていない時間は自由に立ち入りできて、試験(受験者)は少ないので、ほとんど空いています。シビックの後方にあるのがDMVの建物です。

DMV発行の冊子に載っているコース図の模写です。二重直線の間隔は1フット(=30cm)、二重円(同心円)の間隔は2フィート(=60cm)、円の外側の直径は24フィート(=7.3m)です。2つの二重直線の間にある丸はコーン置き場です。

技能試験では最初にオートバイのスイッチ類(エンジンの始動・停止や灯火・ホーン)の機能(知っているかどうか程度の)チェックがあり、それから走行します。2つの二重直線の中央に立てた5本のコーンの間をスラロームしてから二重円の線内を2周してスラロームで戻ってくるのを左右1回ずつ、一方の二重直線の線内からスタートして二重円の線内を2周して別の二重直線に戻ってくるのを左右1回ずつ、以上だけです。どれをするかはその場で指示されます。何も免許を持っていない場合は観察テストというのが加わって、試験官が見える範囲で、一旦停止などのあるDMVの敷地内外を周回させられます。

前輪が二重線をはみ出す、足を着く、コーンを動かす、観察テストで一旦停止ルールを守らない、などで失格になります。失敗しても、一回の試験費用(30ドルほど)で日を変えて3回受験できます。それでもダメならまた試験費用を払うことになります。

簡単なコースなのですが、お借りしたスクーターは無段変速でクラッチが無く、ニーグリップもできないので、正確に円を回るのはけっこうむずかしく思いました。スーパーカブに乗っていた頃なら簡単だったかもしれません。試験前日にコースで30分くらい練習したら、まあ問題なく回ることができました。

技能試験の動画はYouTubeにいろいろとアップされていますので、短いものを共有リンクさせてもらいました。この動画はカリフォルニア州の走行試験の一部だけですが、なかなかカジュアルな雰囲気の試験官で、楽しそうです。音が出ます。

技能試験の方法は州によって異なります。かつて住んでいたマサチューセッツ州のテスト風景(共有リンクしたYouTube動画)を観ると驚きます。基本は同じようですが、内容はずっと大まかだし、場所はショッピングモールの駐車場で、固定のコースではありません。駐車場内の一般車両や通行人が通る場所です。それに受験者のバイクがハイ・ハンドルというのも大したものです。各州の独立性とアメリカ合衆国のおおらかさを感じます。これも音が出ます。

何とか、1回で合格しました。DMV事務所でM1免許を取得したという紙を免許証の裏にホチキスで止めてくれました。

ホチ止めの証明書は有効2カ月なので、その間に免許証を作り直してもらいます。その後の免許証には普通自動車Cと合わせて「CLASS: CM1」と記載されるようになりました。免許証の上の部分だけの写真です。

すぐにゴレタ・ホンダまでワインを持参して無事に合格できた報告とお礼に行きました。記念撮影です。大感謝です。残念ながら、この店は現在はなくなっているようです。

この時にしていたベルトとバックルが今回のレザークラフト入門の素材でした。

「4. TDM850」へ続く

2. CD50とSRX600

2021年3月2日

1980年に札幌に移りました。オートバイには乗っていませんが、好みのオートバイを見かけると近寄ってしまいます。これは1982年、アメリカ滞在中に撮ったスナップです。ボストンPDの白バイで、ハーレーのロードキング(Harley-Davidson Road King)ですね。

1987年、北海道の道路は二輪で走ると楽しそうで、そろそろオートバイを、という気分になっていました。雪解け時期に立ち寄った小さなバイクショップで古いビジネス用オートバイ(ホンダのベンリィ CD50)がありました。古いけど手入れが行き届いていたので、これは売り物ですか、と聞いたら、店主のおじさんが、自分が使っているのだけど、売ってもいいよ、という返事で、昔にスーパーカブを売った値段より安かったので衝動買いしてしまいました。二輪車操縦の基礎を練習しておきたかったのです。

20年ぶりの原チャリ(第一種原動機付自転車)ですが、スーパーカブと違ってCD50にはクラッチがあり、ガソリンタンクも前にあります。クラッチの操作とニーグリップ(ガソリンタンクを膝で挟む)というオートバイの基本を練習できます。スーパーカブと同様にパワーはありませんが、それがかえって気楽なので、解説書を読みながらいろいろな乗り方を練習しました。

自宅が新規宅地造成地にあり、造成区域内には舗装道路があっても住宅のないブロックが多く残っていて、見晴らしが良く、オートバイの練習にはぴったりでした。

CD50を1年(北海道では4月から10月まで)乗り回して慣れると、大きいサイズのオートバイが欲しくなってきます。まあ、大きいサイズに乗りたいから練習したのですけど。翌年の春にいくつか中古バイクショップに入ってみました。

一目で気に入ったのが1年落ちのヤマハSRX600(1985年登場の初期型1JK、車体のロゴ表記はSRX6)でした。単気筒でキックスターターはこれまでの原チャリと同じですが、10倍以上の排気量で、前後とも油圧ディスク・ブレーキ(前はダブル)です。

1988年、CD50(右)は若い後輩に譲ることになって、お別れの日です。SRX600のサイズはCD50より一回り大きいくらいです。

通勤するようになりました。職場で着替えます。

608ccの空冷4バルブOHC単気筒エンジンは独特の音と振動があり、加速も原チャリとは比べものになりません。軽量で取り回しも良く、オートバイに乗っている楽しみを存分に味わうことができました。軽量といっても、車重はCD50の2倍(170kg)あるので、最初の1週間だけですが、数回、車体を支えきれない立ちごけ(エンジン停止中の不注意による転倒)はありました。

この頃に使っていたベルトをレザークラフト入門で取り出してきました。自作スマホホルスターと相性はとても良さそうです。

休日には、自宅からアクセスしやすい石狩川河口へ、国道231号に乗って浜益から山に入り、当別町の山林地帯のワインディング・ロード(現在の道道28号の旧道)を走って、山奥に見つけた喫茶店でコーヒーを飲んで帰るという、150kmほどで4時間程度のコースを定番にしていました。

遠出は一度だけ、夏のある日の午後、「利尻島に沈む夕陽を見たい」と唐突に思い立ち、石狩湾から日本海沿いでサロベツ原野(稚咲内)まで走りました。今は「日本海オロロンライン」と名付けられています。自宅から約270km、5時間ほどのルートです。日差しが強く、薄いジャンパーで爽やかな風を楽しめました。

海岸線を走る国道231-留萌-239-232-天塩町-道道106号線は自動車の往来や信号が少なく、ゆるい起伏やカーブが多く、留萌からは草原のワインディング・ロードの印象です。定番コースの山林地帯と違って見晴らしが良く、長い直線区間では速度に注意しつつも、利尻島に沈む夕陽に間に合いました。でも、カメラを持ってくるのを忘れました。

しばらく夕陽を眺めていましたが、北海道の夏は日の入りが遅く、午後7時を過ぎます。そして、日が沈むと急速に気温が下がってきます。夜にネイキッドのオートバイで30分ほど走ると、薄いジャンパーだけでは寒さで身体がガタガタ震えてきました。耐えられずに、途中の小さな町で雑貨店を見つけて農作業用のビニール合羽上下を買って何とかしのぎました。

寒さに加えて、真っ暗なカントリー・ロードでは、ヘッドライトめがけて大量の羽虫が飛んできます。ヘルメットのシールドスクリーンに当たって前が見えなくなり、何度も停まって拭く必要がありました。留萌からは内陸に入り、疲れ切って帰宅できたのは深夜12時を回った頃でした。

一般道540kmを休憩・食事も含めて12時間ほどで走ることができる北海道でのツーリングは昼間はとても快適ですが、夜の寒さや虫への対策が必要だと身に沁みてわかりました。あるいは、日暮れ前に帰宅することです。

1990年夏から再びアメリカに長期滞在することになり、2年ちょっとしか乗っていませんが、いったんSRX600を手放すことに決めて、バイク好きの学生さんに譲りました。

アメリカでSRXを見かけたことはありませんが、サンフランシスコ近郊で1986年式のSRX600を最近まで乗っていたという動画がYouTubeにアップされていたので、共有リンクさせてもらいました。金門橋が見える夕陽の道です。日本海オロロンラインを思い出しました。音が出ます。

「3. アメリカのM1免許」に続く

1. スーパーカブ C105

2021年3月1日

レザークラフト入門実習で古いベルトやバックルを触っていたら、オートバイに乗っていた頃を思い出しました。オートバイが好きで、ポツダム免許をもらって楽しんだというだけの話ですが、思い出話は長くなるので、4回ほどに分けます。

オートバイに興味を持ち始めたのは小学生時代です。父が大阪・周防町(現在はアメリカ村)の店でオートバイを使っていて、そのメカニカルな構造が見えるのが好きで、遊びに行くたびにまたがって、早く運転してみたいと思っていました。

この写真(1960年頃)に写っているオートバイを調べてみると、山口自転車のビジネス用オートバイ「ヤマグチ スペシャルスーパー330(120cc)」のようです。右手前のスクーターはシルバーピジョンですね。左手前の自転車の後輪に排気管が見えています。これはタイヤを回す小さなエンジンが付けられたモーターバイク(モペット)で、牛乳配達などによく使われていました。向かいの事務所の前にもオートバイがあります。

戦前からあった大型オートバイの陸王やメグロ(目黒製作所→カワサキ)などは高価で、商品配達の用途には適さなかったようです。戦中まで航空機などの製造に携わった会社が戦後の生き残りのために手がけたのがオートバイだったそうで、川西飛行機のポインターから三菱のシルバーピジョン、中島飛行機のラビットなどが加わり、一時期は日本の二輪車メーカーが乱立(120~150社くらい)していたようですが、その後に世界レベルで残ったのは現在の4社だけでした。

中学生の頃、おやつのチキンラーメンを食べながら観ていた「テレビ名画座」でジャン・コクトーの映画「オルフェ(Orphée, 1950)」をやっていました。ストーリーはよくわからないまま、死神の助手を務めていた2人のオートバイ・ライダーの姿に魅せられました。

今はYouTubeにオートバイが出てくるシーンがアップされているので、共有リンクさせてもらいました。音が出ます。

THE VINTAGENT によると、2台のオートバイはインディアン(アメリカのオートバイ・メーカー:Indian Motocycle)の1937年のChiefと1940年のSport Scoutだそうですが、違いはなかなかわかりません。どちらも変速は右手のマニュアル(クラッチは左足)で、自動車と同じですね。

日本でも2人のように振動から脊椎や内臓を守る幅広のキドニーベルト(Kidney belt)を付けて乗っているライダーがいました。今はオフロードくらいでしょうが、当時は未舗装の道路が多く、エンジン振動も大きくて、上下動がひどかったのでしょう。高校1年のクラス担任の先生がそんな姿でメグロのZ7に乗って通勤していて、ヘルメットは飛行機乗りのような革製でゴーグルが付いていました。ずっと後にアニメ映画「紅の豚」を観て、失礼ながらそっくりでした(太さではなく雰囲気が、です)。

16歳になった高校1年修了後の春休みに軽自動車運転免許を取りに行かせてもらいました。軽自動車免許で軽四輪のみならず、250cc以下のオートバイに乗ることができたからです。

その頃の自動車学校は2週間ほどの連日講習で、10人ほどのクラス単位になっていました。現在の合宿制みたいです。毎日顔を合わせるので、みんな仲良くなり、教習内容を教え合っていました。運転練習車は初代マツダ・キャロルでした。技能試験は免除で、学科試験は京阪・古川橋までみんな一緒に受けに行きました。全員が合格して、自動車学校近くの大鳥大社で一緒にお祓いを受けたことを覚えています。

免許取得までの日程が高校2年次の授業開始に少し食い込んだので、新しいクラス担任に免許取得のために数日欠席すると伝えて叱られましたが、待望のオートバイ通学を実現することができました。当時は通学に自転車でもオートバイでもかまわなかったというおおらかな時代でした。

免許を得て最初の愛車となったのは現在も生産・販売が続いているホンダのスーパーカブ55(Super Cub 55)でした。1958年発売の初代C100(50cc)をボアアップ(排気量を増加)したC105(54cc)で、OHVエンジン最後のモデルだったと思います。50ccを超えるので第二種原動機付自転車の枠になり、後輪のフェンダー(泥よけ)に白い三角形マークが入って、二人乗りができます。

近所を走っている写真です。国道・府道以外はほとんどが未舗装でした。

スーパーカブはスクーターに近い構造です。ガソリンタンクは座席の下にあり、ホンダが開発した自慢の自動遠心クラッチが付き、左グリップにクラッチレバーはありません。変速(3速)は右グリップのスロットル(アクセル)を戻して左足でギアチェンジペダルを踏みます。左手の操作が無いので、出前で岡持ちを運べますという広告がありました。半世紀以上前ですが、そのゆっくりした加速の感触と音を今でも覚えています。

風防を取り付けてもらっています。まだヘルメット着用の義務や慣習はなく、しばらくは学帽で、その後はお椀型ヘルメットを被っていました。遠出することはなかった高校生活でした。

大学生になってから乗る機会が少なくなったスーパーカブは3年くらいで売却しました。その頃、軽自動車免許が廃止されることになり、1968年までの特例措置として、自動車教習所で何時間かの学科講習を受けると普通自動車免許に変更できることになりました。近所の教習所の夜間特別クラスに通って手に入れた普通自動車免許証を見ると、軽の免許取得日で排気量制限無しの自動二輪免許も付いていて、ラッキー!という気分でした。

この措置で得た自動二輪免許はポツダム免許(ポツダム宣言受諾後の1945年8月15日以降に実績なく士官に進級させてポツダム少尉と呼ばれた例から)と呼ばれました。1965年に決まった免許区分変更によるもので、軽自動車免許保持者は追加講習によって普通自動車免許に変更、また、普通・大型自動車免許保持者は自動二輪免許を受けたとみなされる、という話です。この措置を受ける最後の年齢だったようで、これが20年後に役に立ちました。

「2. CD50とSRX600」へ続く

みおつくしの鐘・・・知らなかったこと

2017年11月22日

先日、みおつくしの鐘を訪ねた記事を書きましたが、その後、資料を読んでいたら、今まで知らなかったことがわかってきました。

これまで、前奏と後奏のウェストミンスター・チャイムに挟まれた、一つの鐘の音が高楼に吊された大きな鐘の音だろうと思っていました。しかし、この鐘の音もチャイムでした。高楼の大きな鐘は「記念鐘」であって、設置当初から、何らかの行事のために鳴らすことはあっても、夜10時の時鐘ではなかったそうです。まあ、あらためて考えると、あれだけ大きな鐘を自動化して打つのは簡単ではないだろうと思いますけど。

このことから、「みおつくしの鐘」とは、チャイムならびに高楼の鐘を総称していて、聞こえてくる「みおつくしの鐘」はチャイムが実質的メインで、記念鐘は視覚的シンボルだと言えそうです。

みおつくしの鐘を寄贈した大阪市婦人団体協議会(現・大阪市地域女性団体協議会)が昭和31年5月5日に発行した「みおつくしの鐘 建設の記録」という小冊子がありました。なかなか興味深い記事で埋められています。

この計画は昭和29年の会議で始まり、当時、犯罪が増えるとされていた夜10時に青少年の帰宅をうながすために、最初はサイレンを流そうという案がありました。でも、戦後10年も経たない時期で、サイレンは空襲を連想させることから、チャイムを流すという方向(仮称「愛の鐘」)になり、昭和30年に入って、「みおつくしの鐘」という名称が決まったようです。ところが、募金を始めてから、チャイムの音(時報装置)のみではなく、市役所の塔屋に「鐘の姿」がほしいという意見が出てきたそうで、大きな記念鐘の製作を追加したのです。

寄付総額300万円で、建設費200万円のうち、記念鐘に50万円、時報装置95万円、建設工事61万円を配分しています。記念鐘が重いので、取り付けは高楼内に鉄骨を組んでから吊り下げる方法が取られました。

記念鐘の製作依頼を受けたのは富山県高岡市にある梵鐘製作で有名な老子(おいご)製作所です。国産最大サイズの洋鐘ということで、とても予算が足らないとのことでしたが、最終的には老子製作所の協力によって実現したようです。老子製作所はその後、現在の広島・平和の鐘(5代目)も作っています。

夜10時の「みおつくしの鐘」は、時計装置に連動させたチャイムの自動演奏装置の振動出力をアンプで増幅して、高楼下の6個の大型ホーン型スピーカーから流すという方式になっています。以下では、上記資料「みおつくしの鐘 建設の記録」に掲載されている図・写真を使わせてもらって、構造を説明してみます。

動作のタイム・チャートです。日没を感知して照明が点灯されます。午後9時58分に制御モーターが動き出し、その後、アンプ(真空管)が作動し始めます。9時58分20秒に前奏チャイムが始まり、10時にチャイムが終わると、時鐘が打たれ、20秒間の余韻を含めています。10時0分20秒に後奏チャイムが始まり、10時1分に終了します。10時2分には照明も落とされます。

チャイムの自動演奏装置です。東京・光星舎(今はない)が製作しています。

下に2つの金属円筒があり、タイマーで稼働し、シリンダー・オルゴールと同じ円筒のピンがハンマーを引っかけて、上から延びている金属棒(の根元あたり)を叩くという方式です。並んだ金属棒の裏にピックアップ部が見えています。このあたりは電気ギターと同じですね。

右側の円筒が前奏と時鐘、左側が後奏のようです。ウェストミンスターのメロディは4音なので、右側の6本のうち、左の2本が時鐘を担当しているようです。下のほうに4つの黒いスイッチがあり、左から「ト長調」、「時鐘」、「ハ長調」、「制御器」と書かれています。手動で動作させるためのものですね。光星舎のチャイムは全国の学校などに納入されていましたので、まだ使われているところがあるかもしれません。

アンプ(左)、光探知リレーと時計(右上)、外部スピーカー(右下)の写真です。

建物の設置図です。

高楼の一番上には記念鐘が吊されていますが、「みおつくしの鐘」は階下7階のチャイム室で鳴らされて、スピーカーで届いていたわけです。9階には記念鐘を鳴らすための打鐘綱があります。

なお、当時のラジオ放送は、NHK大阪、NJB(新日本放送→MBS毎日放送)、ABC(朝日放送)という3局が協力したとのことでした。その後、みおつくしの鐘に賛同して、北海道から九州まで、多くの鐘が設置されたそうです。

大阪市の担当の方にうかがったところ、現在でも市庁舎から「みおつくしの鐘」が流されているそうで、しかも、録音ではなく、チャイム装置によるということですが、昭和57年の新庁舎竣工に際して、装置は一新されたようです。まあ、それからも30年以上が経っています。今後も維持されるといいですね。

 

みおつくしの鐘

2017年11月16日

最近、昭和の大阪の写真集を眺める機会がありました。昭和30年頃から大阪万博の後くらいまでの写真の多くには見覚えがありました。そのうち、先代の大阪市庁舎の写真では、屋上に「みおつくしの鐘」がありました。昭和30年5月5日に設置されたそうです。設置された直後くらいに、母が勤めていた産経新聞の社屋から双眼鏡で眺めた記憶があって、今はどうなっているんだろうと気になり、ちょっと調べてみました。

みおつくしの鐘は先代の市庁舎高楼に取り付けられたわけですが、その市庁舎は大正10年(1921年)に竣工していて、竣工当時から鐘楼はあったようです。当時の絵はがき(大阪市立図書館公開可能アーカイブ)や写真を眺めても、高楼に鐘が取り付けられているのかどうかはわかりません。

大阪に住んでいたら誰でも知っているのでしょうけど、みおつくしの鐘は今も現在の庁舎の上に置かれているそうで、毎年、新成人が鐘を撞く行事があるようです。来年の募集案内がありました。鐘が置かれている屋上には、「市役所屋上緑化施設の一般公開」という枠で行くことができるようです。6月から11月までの第2・第4金曜日の午後だけです。11月10日の金曜日、ちょっとした用事のついでに上がってきました。

大江橋から眺めた現在の市庁舎です。屋上の鐘楼はグーグルの航空写真には写っていますが、歩いていると見えません。

屋上までエレベーターで昇ったら、係の人がいて、首掛けの緑化施設見学証と案内図を渡されました。緑化施設はこんもりとした茂みを予想していましたが、木々は小さく、時期が時期だけに紅葉が始まっていました。

案内図です。

その横のほうに、秋の草花が咲いていました。名前は知りません。

緑化されている幅は広くはありませんが、外の景色を眺めるには広くて、遠景しか見えないようです。ちょっと中途半端な幅かなと思いつつ、横目に眺めながら歩いたら、お目当ての鐘楼がありました。初めて近くで眺めました。

雰囲気は昔のままのようですね。

鐘楼の柱に説明盤がありました。鐘は高さ1.82m、重さ825kg、口径は約1.26メートル(4尺1寸5分=よいこ)だそうで、相当なサイズです。

こんなレリーフがありました。

反対側には「鳴りひゞけ みおつくしの鐘よ 夜の街々に あまく やさしく ”子らよ帰れ”と 子を思う 母の心をひとつに つくりあげた 愛のこの鐘」という、寄付した大阪市婦人団体協議会による碑文が書かれています。

この碑文、昭和30年頃の大阪市内の状況を思い出せば、当時の母親たちの相当に真剣な思いだったのでしょうね。今でも基本は変わらないでしょうけど。

鐘の真下に入ることができるので、実際にはどんな音がするのか、ちょっと指でノックしてみました。小さな音しか出ないし、御堂筋の雑音が入ったので、聞こえるかどうかわかりませんが、なかなか素直できれいな音でした。

みおつくしの鐘が取り付けられた昭和30年は、ちょうど「ゴジラの逆襲」が公開された年で、大阪市庁舎の前でゴジラとアンギラスが闘っていました。映画製作のほうが早いので、セットの大阪市庁舎にはみおつくしの鐘はなかったでしょう。

今も大阪市内の一部地域で夜10時にチャイム(ウェストミンスターの鐘)に挟まれて、みおつくしの鐘の音が1回だけ流されています。大阪市のサイトで聴くことができます(その後、音は出なくなりました)。前奏チャイムがハ長調、後奏チャイムがト長調になっているようです。設置当初は市役所の上で、時限装置で鐘が鳴らされていたようですが、当初からウェストミンスターの鐘の音を組み合わせていたのかはわかりません。

俳人・橋本多佳子のエッセイに「みをつくしの鐘」(昭和31年)がありますが、当時はラジオでも午後10時の時報でウェストミンスターの鐘と共に流されていたようです。ラジオもNHKだけではなく、民放各社が流していたようですが、いつの間にかすべて消えました。

昔、市庁舎の鐘楼を双眼鏡で眺めた場所、産経新聞の建物(産経会館→大阪サンケイビル)があった梅田二丁目の方向を眺めてみました。

大阪サンケイビル跡にはブリーゼタワーという高層ビルが建っていますが、手前の高層ビルにちょうど隠れて、もう互いに見えなくなっているようです。

(「みおつくしの鐘・・・知らなかったこと」へ)

ケネディ暗殺関係文書公開

2017年10月31日

JFK(ケネディ大統領)暗殺関係の文書が先週10月26日に公開されたというニュースがありました。JFK暗殺事件は衛星中継での最初の報道、2日後には犯人とされるオズワルドの射殺場面もテレビで観ました。表のニュースしか知らない頃で、43歳で合衆国大統領になったJFKはヒーローでした。20年近く経ってボストンのケネディ記念館を訪ねましたが、もう興奮が甦ることはありませんでした。

1964年のウォーレン委員会報告書を否定するような文書があるなら、すでに大ニュースになっているでしょうが、そういうものはなさそうですね。それでも、どんな文書が公開されたのか少し興味を持ったので、National Archives (国立公文書記録管理局)のサイトを眺めてみました。

トップページにJFK暗殺の記録文書を公開したというボタンが出ています。それをクリックすると、「JFK暗殺記録」というページに飛んで、ずらっと文書が並び、すべてをPDFで読むことができるようになっています。

今年になって公開された文書はどれくらいあるかを見ると、7月24日に公開された分が3810、10月26日公開が2891となっています。とてつもない数字なので、ページ毎に眺める気にもなりませんが、掲載されている文書タイトルなどをエクセルファイルでダウンロードできるようになっています。

このエクセルファイルをダウンロードすると、こういうデータが詰まっています。

1行目の列項目名でデータの範囲を選択できるため、内容を絞ることができます。しかも、左端の列にある文書番号をクリックすると、その文書のPDFがダウンロードされます。

これはなかなかのサービスだと喜んで、興味深い文書はあるのかなと、チェックしてみたくなりました。とりあえず、1963年11月22日の暗殺事件直後あたりの機密文書がどれくらいあるかを期待半分で調べてみました。その結果です。

1963年の文書は18本しかありません。しかも事件後は11本だけでした。

オズワルドの単独犯とは言えないという話題は暗殺直後から出ていました。映画「JFK」あたりは興味深いのですが、いろいろな憶測ばかりで、証拠となる事実解明はなされていなかったようです。今回の文書公開はそのあたりの事実が出てくるかが焦点でしたが、何かキーとなる文書が存在しているのかどうかは不明のようです。

1963年の事件後の文書をいくつか読んでみました。そのうちの一つ、11月28日の文書は、メキシコ・シティからCIAへのメモで、LITAMIL-9 と LITAMIL-7 というコード名からの報告です。LITAMILって何かわからなかったのですが、ネットで検索すると、当時のメキシコ・シティのキューバ大使館にいた、キューバとCIAのダブル・エージェント(密告者?)だったようです。今時はネットでこういうこともわかるのですね。

報告の内容は、(1) ある女性がオズワルドと会ったときの話、(2) 11月23日のメキシコのキューバ大使館では暗殺についてはショックで、議論はほとんどなかった、(3) LITMAL-7の話は特に詳細はなく、LITAMIL-9 、LITAMIL-7 もオズワルドがキューバ大使館に現れたということは知らない、というような内容に読めました。でも、このメモは、LITAMILを調べたサイトでは既知だった内容のようです。すでに知られた内容と新しい内容の違いは、素人が突然に読んでみてもわかるものではなさそうです。

ニューヨーク・タイムスのサイトを眺めると、今回の記録公開についての解説記事がありましたが、あれだけの数字の文書なので、記者が読んだ結果というものではなく、大学の専門家チームの第一次印象報告のようなものでした。専門家の印象は公開された資料はゴチャゴチャ(mess)だ、というものですが、チームがこれまでに読んだ限りは、メキシコでの協力関与についてのメモが多いということで、私が数編読んだメモもそんな雰囲気でした。

ニューヨーク・タイムスは、膨大な数の文書・メモなので、読者が読んだ文書の中で興味深いものを見つけたら、ぜひ知らせてほしい、と書いています。こういう資料解読を熱心にする人は多いのでしょうね。

CIAの要請でトランプ大統領は、機密期限が切れても、当面、すべての資料を開示することはしない可能性があるし、公開されてから1週間以上経ちましたが、特にニュースは出てきていないので、今回の資料はすでにわかっているような内容ばかりなのかもしれません。

それにしても、よくまあこれだけの細かなメモの類いを残して、公文書としてきちんと整理保存していることに感心します。重要事件に関するこういう保管作業は不可欠でしょうし、そういう資料の中に様々な仮説が証明・反証される「宝」が眠っているのかもしれません。でも、保存資料がはたして真実を伝えているかどうかがわからないでしょうから、結局はこのまま時は過ぎていくのでしょう。

追記(11月4日)
11月3日に676件の追加公開がありました。どうも、ビッグ・ニュースはないようです。

マッチが出てきました

物置に詰め込んだ模型の箱を整理していたら、いろいろなところでもらったマッチを入れたケースが出てきました。

昔、マッチを集めていましたが、ずっと大きなケースに入れていて、札幌で廃棄した覚えがあります。でも、小さなケースだけを残したようで、古いものも少し入っていました。

このマッチが残っていたのは嬉しいですね。一番古いコレクションかもしれません。大阪・周防町(すおうまち)の心斎橋筋にあった「BC」という喫茶店(コーヒー・ルーム)のマッチです。

表です。

父がやっていた店が周防町(今のアメリカ村の真ん中あたり)にあったので、小学生の頃からよく入っていました。心斎橋筋のアーケード屋根が付けられた頃でしょうか。大丸・そごうで遊んだり、長堀川が埋め立てられる前の四ツ橋の電気科学館に行ったりした後に寄るのが常でした。店は2階にあって、心斎橋筋の入口から階段を上ると、内装はシックなチョコレート色の記憶です。

心斎橋筋を見下ろせる窓際に座って、上から人通りを眺めながら、ジュースかミルクセーキを飲んでいました。中学・高校時代はあまり行く機会がなく、大学に入ってからコーヒーの味を覚えて、かなりの頻度で行くようになり、小学生の頃と同じ場所に座って、いつも読書で長居するようになりました。コーヒーはネルによるドリップ式だったと思います。マッチをもらったのは大学生になってからでしょう。

店主のおばさまは宝塚に住んでいて、通勤されていました。父とは親しかったようですが、詳しいことは聞いていません。ご主人が画家で、このマッチの絵もご主人が描いたようです。文字は「B.C」となっていて、絵のイニシャルは「K・I」となっています。子供心にも、喫茶店を趣味で経営なさっているような優雅な雰囲気を感じていました。BCという店名の由来を聞いておけばよかった。The Best Coffeeあたりでしょうか。1970年頃だったか、そろそろやめようかなと思ってる、とおっしゃっていましたが、閉店がいつだったかは記憶にありません。そのあたりの心斎橋筋商店街を写した1980年代初頭の写真を見たことがありますが、BCの看板は見あたりませんでした。

次は、学生時代、ビストロと間違えて入ったバー「フランス屋(仏蘭西屋)」のマッチです。たった一回訪ねただけなのに、記憶は鮮明です。1960年代の終わり頃、フランス文学を専攻していた友人と、可愛い店構えのフランス料理店があるから行ってみようと勇んで入ったら、それは1920年創業の高級バー(クラブ?)でした。

このマッチも表は縦ですが、よくわからないデザインです。かなり色褪せています。

難波に近い御堂筋に面して、フランス国旗の三色の看板が出ていたような記憶です。新歌舞伎座の向かいあたりでしょうか。学生の二人にはフランス料理店としか思えませんでした。ドアを開けたら、数人が座る程度の短いカウンターがあり、壁にボトルが並んでいて、誰もいません。カウンターの先はカーテンで仕切られていて、その先にダイニングルームがあるのだろうと思いました。

しばらくして、カーテンの向こうからドレス姿の若い女性が出てきて、「はい?」と尋ねられました。食事をしたいと伝えると、怪訝そうな顔で、ちょっとお待ちくださいと言って、またカーテンの向こうに戻ったら、次はマダムが一緒に出てきて「うちはレストランではなく、バーですけど」と言われました。

われわれは顔を見合わせてから、うーん、どうしよう、と言いながらも、それじゃ、一杯だけ飲んで帰りたい、と伝えたら、マダムと若い女性(ホステス)は笑いながら、どうぞどうぞ、ということになりました。カウンターでホステスも横に座って、何かを一杯だけ頼んで、1時間くらい、おしゃべりを楽しんで帰りました。当時のフランス文学、映画、音楽について、なかなか高級な会話になっていた記憶があります。お勘定は格安にしてもらったようです。その後に行く機会はないままで、カーテンの向こうはどんなスペースだったのかを知ることはなく、いつか店はなくなっていました。

次は国鉄関連です。
1972年頃の青函連絡船「羊蹄丸」の食堂です。

連絡船に乗るのは深夜便が多かったので、たまにしか食堂に入った記憶はありません。

次は、0系新幹線「ひかり」の食堂車(日本食堂の運営)です。超特急ひかり、特急こだま、と呼ばれていましたね。ひかりに食堂車が配置されたのは1974年だそうなので、その後の数年以内です。東京での学会からの帰り、指定席を買っていましたが、仲間と一緒になって食堂車に座り込み、宴会みたいに飲食とおしゃべりを楽しんでいたら、間もなく京都、ということになりました。食堂車にとっては迷惑だったでしょうね。

この時代、大学にもマッチがありました。
上智会館でもらいました。

京都大学にもありました。

ハーバード大学生協です。アメリカのマッチはほとんどがこの形態でした。

最後は、アメリカのアマチュア無線連盟本部(ARRL コネティカット州 Newington)にある無線局W1AWでもらったマッチです。3色ありました。

マッチは無料のお土産・記念品というつもりで集めていましたが、けっこう記憶が結びついていました。

YS-11には乗りました

紫電改の話題は手回し式計算器の思い出にしかつながらなかったのですが、YS-11には何度か乗りました。初めてYS-11に乗ったのは、初めて飛行機に乗った経験でもありました。小学生の頃に飛行機に憧れていたものの、実際に乗ることができたのは大学生になってからです。

敗戦後に7年間の航空機関連事業の禁止があり、それが終わって、1956年(昭和31年)に国産輸送機(後にYS-11となる)の開発が開始されました。初期設計は菊原氏ら戦前・戦中の軍用機設計で有名な人たち5人が行い、1958年にモックアップ(木製の実物大模型)も作られましたが、それは製作予算獲得のためのデモンストレーションだったようです。1959年に官民共同の日本航空機製造株式会社ができてから再設計され、1962年(昭和37年)に試作機の初飛行がありました。このあたり、「YS-11 国産旅客機を創った男たち」(前間孝則 講談社 1994)やプロジェクトX「翼はよみがえった」(NHK 2000)で詳しく紹介されていました。

上野の国立科学博物館に、零戦の下にひっそりと展示されているYS-11の風洞実験用模型がありました。

誰も気づかないようなところです。左に見えているのは零戦の車輪です。

零戦(零式艦上戦闘機)の設計は、後にYS-11初期開発に携わった5人の一人である堀越二郎氏ですが、零戦設計当時の部下だった東條輝雄氏が日本航空機製造でYS-11再設計のチーフとなっています。

YS-11は試作機2機を含めて、1973年までに合計182機が製造され、日本航空機製造はその10年後に解散しました。YS-11に続く輸送機の開発計画もあったようですが、航空機産業の営業を知らない赤字経営だったようです。日本の民間航空路線でのYS-11最終飛行は2006年の奄美線でした。

その奄美線が最初の思い出です。1969年(昭和44年)6月に一人で奄美地方を旅行しました。往復は船で、大阪・天保山から関西汽船の浮島丸に乗り込みました。2,600トンの小さな貨客船です。沖縄航路は当時は外国航路と同様のシステムになっており、運賃に食事が含まれていました。沖縄本土復帰が1972年(昭和47年)ですから、直前です。那覇まで行きたかったのですが、パスポート(身分証明書)が必要だったので、手前の奄美にしました。奄美群島の本土復帰は1953年(昭和29年)です。

時刻表です。1972年1月号なので、少し時間などが変わっているかも知れません。

食事付きと言っても、2等船客の食事はさみしい内容でした。食堂の入口に食事の案内が出ますが、「焼き飯」と出ていたのは、まさに焼き飯で、ご飯を油で炒めただけで他に具材は見つかりませんでした。なぜか沖縄に帰る若者がいっぱい乗っていて、床で寝るときは互いに身体がくっつくくらいでした。

甲板でイルカを眺めながら、隣にいた人と話をしていたら、この人が無線局長でした。親しくなって無線室に招いてもらい、和文モールスの送受速度に感心しながら長い時間を過ごしていました。無線室は楽しかったものの、食事と混雑に懲りたので、下船した奄美大島の名瀬で、帰りを1等にグレードアップしました。

2日ほど大島観光をして、徳之島に向かうことにしましたが、この旅行の目玉商品を思いつきました。奄美大島から徳之島までという短距離(直線距離で100kmほど)ですが、奄美線の飛行機の切符を買ったのです。飛行機、それも就航して間もないYS-11に乗りたかった、空から海を眺めたかった、短距離で運賃が安かった、それでも船より高いけれど船なら半日かかるところが30分で着く、というたくさんの「合理的理由」からです。

YS-11が民間航空路線に就航したのは1965年で、1966年に松山沖で墜落する事故がありましたが、1969年というのは初期トラブルが解決されて、パイロットも慣熟して安定してきた時期だったと思います。

当時の時刻表を残していないので、次の時刻表は1972年1月号の掲載です。搭乗した1969年は東亜航空(TAW)でしたが、1971年5月に日本国内航空(JDA)と合併したので、時刻表は東亜国内航空(TDA)になってからのものです。発着時刻は同じようなものだったと思います。

離陸時に写真を撮っています。初めて乗った飛行機のフラップの動きが新鮮でした。このプリント写真をよく眺めると、機体記号はJA8684と読めます。

JA8684は型式YS-11-128で製造番号が2045(45機目)、1967年9月の製造・登録です。初期型(2049まで)の最終に近い製造で、1967年11月にアルゼンチン航空にリースされ、1年後の1968年11月に東亜航空に登録されています。その後、1971年6月に東亜国内航空に登録されて「ほたか」と命名されました。1983年12月にハワイのMid Pacific Air(1995年に廃業)に売却されたようで、別の機体記号になり、1991年に抹消されています。

乗り込んだ機内は真新しく、乗客は少なく、効かないと言われていた冷房がよく効いていました。梅雨前の南国で乗り込んだからかもしれません。プロペラ機(ターボプロップ)とは言え、初めての離陸時の加速は電車や自動車では味わえない快感でした。ロールス・ロイス製ダート・エンジンのタービン回転音はなかなか迫力がありましたが、それは音がダイレクトに聞こえるという意味でもありました。

私の初フライトは曇り空で、空から眺めた海はポスターに出ているような鮮やかな群青色とは言えませんでした。

この楽しい初飛行の出費が後で効いてきました。徳之島から沖永良部島に船で移って、知名(ちな)の国民宿舎に滞在し、親しくなった人と鍾乳洞探検や釣で楽しく過ごしましたが、手持ちのお金がなくなってしまいました。急いで帰りの船を2等に戻して国民宿舎の支払いを済ましたら、和泊(わどまり)港までのバス代もなくなり、ヒッチハイクでトラックに乗せてもらって船までたどり着きました。神戸港では自宅への電話代が残っていただけです。その後も一人旅はたいていこんな結末になっていました。

次にYS-11に乗ったのは、1972年に札幌で1年を過ごしていた秋です。東亜国内航空が札幌(千歳空港)から羽田経由で大阪へと深夜便を運航していました。YS-11が飛ぶ路線は通常は札幌市内の丘珠(おかだま)空港発着なのですが、この深夜便だけは千歳発着でした。

この深夜便は日本航空の運航で始まり、便名に名前が付いていたように記憶しています。札幌-東京便はオーロラ、札幌-東京-大阪便はポールスターでした。他に、福岡行きのムーンライトというのもありました。昼間の大阪-札幌便(ジェット機DC-8)はユーカラという名前でした。昼のジェット便だと片道19,700円ですが、深夜便は13,900円で、格安運賃がなかった時代には魅力的でした。でも、大阪で買う北海道均一周遊券が学割で8,900円でしたから、相当の覚悟が必要でした。

搭乗機の写真がないので、当時の千歳空港です。搭乗の翌月に人を迎えに行ったときに撮りました。手前も離陸しているのもDC-8のようですね。

送迎デッキ(ターミナルビル屋上)には、御役御免になった自衛隊機F86Dが展示されていました。

前年の1971年7月には、丘珠発函館行きのYS-11「ばんだい」の墜落事故があったので、ちょっと気になりましたが、千歳から羽田、そして伊丹に向かうルートなので、離着陸の周辺に山はないだろうと、忘れることにしました。

座席は徳之島便の時とほぼ同じ場所でした。深夜の千歳空港離陸では、まばらな街の灯りがなかなか去って行きません。ジェット機と違って、離陸してからの上昇角度が浅く、ゆっくり旋回しながら上昇するので、前に進んでいるのか、ひょっとしたら後ろに下がっているのではないか、という不安を持ちました。

離陸してから羽田までの3時間、外は真っ暗で、常にすぐ横のエンジン音が大きく響いていて、ほとんど眠ることができませんでした。まだ暗いうちに羽田に着陸しました。

羽田で多くの乗客が降りて、残っている乗客は10人ほどになっていました。1時間ほどの休憩があり、明るくなってきて離陸しました。しばらくして、寝不足の目に、雲の上に見える富士山の頂上に朝日が当たっている景色が入ってきました。YS-11の巡航高度は5,000mくらいで、太平洋岸を飛んでいましたので、朝日に輝く富士山が真横に見えます。この時ほど、右の窓側に座っていたことを喜んだことはありません。カメラが手元になかったのがとても残念でした。

1980年には札幌に移住しました。15年ほど住んだ厚別区では、風向によって、家の上空から丘珠空港に向かうYS-11をよく見かけました。数回、函館往復にYS-11に乗って、藻岩山から羊蹄山、駒ヶ岳を眺めることがありましたが、なんか、YS-11にも北海道の景色にも慣れてしまったような感じで、写真を撮ることはありませんでした。

そして、最後のYS-11搭乗になりました。
2002年7月20日、YS-11が来年には北海道内定期路線から引退するという話題が出ていたので、函館への出張で空路を選びました。

エアーニッポンJA8744による往路は雨で、景色はプロペラとエンジンだけでした。ちらっと、「ばんだい」の記憶が戻りましたが、この時期にはオートパイロットなどの装備が追加されているらしいので、安心していました。

以下の動画では大きな音が出ます。

かつでの深夜便で眠ることができなかったのは、この音でした。これでもレシプロエンジンのDC3より静かだったと言われましたが、知らない比較です。

JA8744は型式YS-11A-213で製造番号が2116、1969年8月に製造され、全日空に登録です。YS-11Aというのは初期型を改良した型式で、1967年の終わり頃以降の生産です。さらに、A-500型(エンジンを強力型に換装)に改造されています。

雨の函館空港に着陸します。音が出ます。

到着しました。

タラップでは傘の貸し出しサービスがあります。

この飛行機は搭乗した翌年、2003年にタイのプーケット航空(今は運航していない)に売却されて、2005年に廃止されたようです。

翌朝、雨が止んで曇り空の帰りはJA8735でした。

JA8735はJA8744と同じ型式で、製造番号が2108、1969年5月に製造され、全日空に登録です。この飛行機は搭乗した翌年2003年1月にフィリピンのアジアンスピリット航空(今は運航していない)に売却されて、別の機体記号になりました。

内浦湾上空から北上します。

この機体は事故に遭う運命だったようで、ネットを調べていると、「YS-11A型JA8735に関する航空事故報告書」がありました。1980年(昭和55年)12月24日、八丈島線で羽田に引き返す途中、木更津上空2,400mで機首に落雷があり、右機首部に損傷を受け、垂直尾翼の一部が飛散したが、乗客・乗務員に怪我はなかったとのことです。そして、2008年1月2日、フィリピンのマスバテ空港への着陸時、風の影響でオーバーランして、コンクリートのフェンスにぶつかり、右脚部と右エンジンを損傷した結果、廃止されたようです。

ところどころ雲の切れ目を見ながら巡航中です。以下の動画は音が出ます。

札幌・丘珠空港への着陸は石狩湾からのルートで、厚別時代の自宅上空からではありませんでした。

フルフラップで降下です。丘珠空港周りもけっこう人家がありますね。

フラップを戻しながら着地しました。

これでYS-11の搭乗も終わりです。最後の搭乗が最初の搭乗や深夜便と同じ座席位置になりました。

これまで飛行機は国内・国際・国外線で数え切れないくらい乗りましたが、YS-11以外はすべてプロペラのないジェット機でした。その中で、YS-11は「気に入った飛行機」と言うより、「思い出深い飛行機」と言うべきでしょうね。YS-11のパイロットだった人が書いた本(坂崎 充 「惜別! YS-11 イカロス出版 2003」)を読むと、客室以外の装備はほとんど戦時中の軍用機レベル、オートパイロットもなく、操縦は体力勝負、たいへんだったようです。

シデンカイと手回し式計算器

40年ぶりの大阪生活で、学生時代の友人たちとの飲み会に参加できるようになりました。昔のままの関係で今の話題の会話を楽しんでいますが、当然ながら、昔話になることがよくあります。

今年の飲み会で、久しぶりに会った同窓生(女性)から突然、「シデンカイって知ってる?」と尋ねられました。シデンカイなんて、小学生の頃以来ほとんど聴いていない響きで、市電を復活させようとする会か、ひょっとしたら紫電改のことか、そういえば、育毛剤の名前にもあったような。いずれも彼女とはミスマッチの感じで、「えーと、日本の戦闘機のこと?」「そう」「まあ知ってるけど」と答えながら、酔った頭の中で記憶が途切れ途切れに出てきました。

飛行機が好きで、プラモデル作りに熱中していた小学生の頃、紫電改は日本海軍最後の優秀な局地戦闘機という程度の知識は持っていましたが、それ以上に詳しく調べた記憶がないのは、まだ紫電改のプラモデルが出ていなかったからでしょう。

1980年代にスミソニアン博物館をじっくり回ったことがありますが、紫電改は見かけませんでした。その後にリストアされた紫電改が現在は別館に展示されているようです。

「なんで紫電改なの?」と聞いたら、彼女の叔父さんが紫電改を設計した菊原静男氏で、YS-11開発にも参加したという話です。私が鉄道などのメカ好きだと知ったので、尋ねたそうです。紫電改についてもう少し知っていたら、楽しい話になったでしょうが、残念ながら、お互い紫電改について詳しいわけではなく、私も「へえ、そうだったんだ。」と言う以上の会話にはなりませんでした。

そんなことがあって、ちょっと気になったので、紫電改についての本を読んだり、ネットで調べたりしてみました。さすがにたくさんの情報がありますね。菊原氏は川西航空機(現・新明和工業)に入り、海軍の九七式大型飛行艇、二式大型飛行艇から戦後のPS-1まで、主に飛行艇を設計していたそうで、紫電改も水上戦闘機「強風」を改造して「紫電」を作り、その改良型が紫電改となっています。戦後に押収された数機がアメリカでテストされて、優秀性が確認されたそうです。

あらためて知った紫電改そのものに格別の興味を持ったわけではありませんが、当時の背景事情や個別のエピソードにはいろいろと面白いものがありました。

一番面白かったのは、本筋ではありませんが、手回し式計算器の話でした。「日本の名機をつくったサムライたち -零戦、紫電改からホンダジェットまで-」(前間孝則 さくら舎 2013)を読んでいると、菊原氏が川西航空機に入社して間もなく(1930年頃)、ある機体の強度計算を指示されて、タイガーの手回し式計算器を使って2カ月かかったという話が紹介されていました。

少し引用します。
「(菊原氏は)一二元一次連立万程式の解を求めるため、川西社長にねだってタイガーの卓上手回し式計算機を買ってもらって挑んだ。『朝、出社して、夜、退社するまでの一日中、タイガー計算機を手回しし続け、おおよそ二カ月近くを要して方程式を解いて、答えを出した』のだった」

タイガー計算器(日本のメーカー)は大正12年(1923年)の創業で、1970年まで手回し式計算器を製造販売していました。現在の(株)タイガーのHPに「タイガー手廻計算器資料館」という案内があり、社史や使い方が出ていますが、そこに、「大正13年3月 改良を重ねた3台がすぐさま呉海軍工廠へ1台545円の価格で納入された」とあります。菊原氏が使ったのはその6年後くらいですから、当時としては最新の機械だったのでしょうね。

航空機の設計については何も知らないのですが、この話を読んで、学生時代に統計計算で手回し式計算器を使ったことがあったので、菊原氏が連立方程式を解いてから40年近く経った頃に私もそう遠くない世界を追体験していたことがわかりました。

菊原氏が計算した多元連立一次方程式は工学系や気象予測など、多くのシミュレーションで使われています。変数が2個の2元連立一次方程式は中学校で習いますね。これくらいであれば、紙と鉛筆の手計算で解を出すことはむずかしくありませんが、変数が12個もあると、手計算で解くのは絶望的です。当時は「やるしかない!」ということだったのでしょう。

上野の国立科学博物館に「九元連立方程式求解機」という機械が置いてあります。計算機の歴史コーナーで、写真の右端に写っている黒い棚のように見えるものです。

1936年に米国MITのウィルバー(John B. Wilbur)が土木の構造解析や経済学上の計算を行える計算機械を考案・製作したという情報を元に、戦時中の1944年に東大の航空研究所で作られたそうです。精密に測定しながらバーの角度を調整すると、9個の変数までの方程式が1%程度の誤差で解けるそうです。手動のアナログ計算機です。それだけの需要があったんですね。コンピュータが使われるようになると、シミュレーションも巨大化して、何万個もの変数の連立方程式が使われるようになりましたが、そういう時代ではありません。

これはタイガー計算器の10桁の手回し式計算器です。現在、本棚の飾りとして置いています。

1960年頃の製品で、職場で廃棄備品になったので、もらっておきました。学生時代に使ったものではありませんが、ほぼ同じ製品です。

固いですがまだ動きます。ホコリまみれで、分解掃除と注油をしようかと思うのですが、掃除したとしても使うわけではないし、元に戻せない可能性が高いので、なかなかその気になりません。1ゲージの機関車並みに、とても重い(5.6kg)ので、扱いが大変です。

手回し式計算器は加算と減算しかできません。乗除算は桁移動で加算か減算を繰り返して計算します。数値をセットしてから、右側奥のハンドルを回す(加算は時計回り、減算は逆)のですが、指先と腕がすぐに痛くなります。1時間くらいが限度でした。それでも、5桁以上の乗除算をする場合は、紙の上での手計算より速くて正確でした。平方根を出す手順もありましたが、忘れました。

使った時の擬音(割り算の場合)は、カチカチ(数値入れ)とカチン(数値セット)が2回(被除数と除数)の後、ジャージャージャー(減算回転)→チーン(回しすぎの合図)→ジャー(回転戻し)→コトン(桁移動)、を繰り返すという雰囲気です。

これを少なくとも一日8時間、それを2カ月近く続けるというのは大変な作業です。1950年代に、因子分析(主成分分析)という統計手法を手回し式計算器でなさった先生がいましたが、それも2カ月くらいかかったと聞きました。

12元連立方程式の解に至るまで、どれだけの加減乗除が必要だったのか、2カ月という期間から、おおまかに逆算できそうです。5桁の乗除算は慣れない私で1個が1~2分かかります。加減算は20秒くらいです。桁数が上がれば時間もかかるし、毎回の計算結果をメモしておくことも必要です。仮に、慣れた人の所要時間が1個あたり1分だとしたら、1日8時間で480個、2カ月50日勤務で24,000個になります。手回しの回数は数十万回になるでしょう。

1940年代のアメリカでは、手回し部分がモーターになった電動計算器が普及していたようです。アメリカのモンロー(Monroe)製の電動計算器を一日だけ使わせてもらったことがあります。実感としての速さは手回しの十倍以上で、数値設定もボタンだし、桁送りも自動だったので、計算開始のボタンを押すだけでした。ただ、古かったからか、音がとてもうるさかった記憶があります。タイガー計算器も戦前に電動の試作品を作っていたそうですが、日本でどれくらい使われていたのかはわかりません。

私が手回し式計算器を使ったのはちょっとした統計計算だけでした。すでに大学に計算機センターが出来ていて、因子分析のような計算は、紙カードか紙テープにプログラムとデータをパンチして渡すと、翌日に結果を受け取ることができました。バッチ処理と呼んでいました。

1980年代にはPCが普及してきました。今では、自宅PCに入れているSPSSという統計ソフトを使うと、手回し式計算器で2カ月かかったらしい主成分分析の100倍以上のデータで、かつ手間のかかる因子分析手法での計算であっても、実行ボタンをマウスでクリックすると即座に結果が表示されます。時間を測定している暇はありません。手回し式計算器でやるとすれば、毎日8時間で何年かかるかわかりません。研究者の時間の使い方がすっかり変わりました。

紫電改が設計・生産された戦争の時代あたりまでは、手回し式計算器で象徴されるように、人力の世界でした。それでも、「最強戦闘機紫電改 -甦る海鷲-」( 「丸」編集部編 光人社 2010)を読むと、菊原氏自身が書いた「設計者の回想:最強戦闘機の生涯」という記事で、「設計開始が昭和十八年二月で、その年の末に試作一号機が初飛行を行ったから、ちょうど十一ヵ月間である。」とあります。改良型の設計とは言え、初飛行までが1年足らずの短期間だったというのは驚異です。戦時下の急務ということで、機体強度などの計算には多くの人が手分けして、手回し式計算器を使っていたのでしょうか。