シデンカイと手回し式計算器

40年ぶりの大阪生活で、学生時代の友人たちとの飲み会に参加できるようになりました。昔のままの関係で今の話題の会話を楽しんでいますが、当然ながら、昔話になることがよくあります。

今年の飲み会で、久しぶりに会った同窓生(女性)から突然、「シデンカイって知ってる?」と尋ねられました。シデンカイなんて、小学生の頃以来ほとんど聴いていない響きで、市電を復活させようとする会か、ひょっとしたら紫電改のことか、そういえば、育毛剤の名前にもあったような。いずれも彼女とはミスマッチの感じで、「えーと、日本の戦闘機のこと?」「そう」「まあ知ってるけど」と答えながら、酔った頭の中で記憶が途切れ途切れに出てきました。

飛行機が好きで、プラモデル作りに熱中していた小学生の頃、紫電改は日本海軍最後の優秀な局地戦闘機という程度の知識は持っていましたが、それ以上に詳しく調べた記憶がないのは、まだ紫電改のプラモデルが出ていなかったからでしょう。

1980年代にスミソニアン博物館をじっくり回ったことがありますが、紫電改は見かけませんでした。その後にリストアされた紫電改が現在は別館に展示されているようです。

「なんで紫電改なの?」と聞いたら、彼女の叔父さんが紫電改を設計した菊原静男氏で、YS-11開発にも参加したという話です。私が鉄道などのメカ好きだと知ったので、尋ねたそうです。紫電改についてもう少し知っていたら、楽しい話になったでしょうが、残念ながら、お互い紫電改について詳しいわけではなく、私も「へえ、そうだったんだ。」と言う以上の会話にはなりませんでした。

そんなことがあって、ちょっと気になったので、紫電改についての本を読んだり、ネットで調べたりしてみました。さすがにたくさんの情報がありますね。菊原氏は川西航空機(現・新明和工業)に入り、海軍の九七式大型飛行艇、二式大型飛行艇から戦後のPS-1まで、主に飛行艇を設計していたそうで、紫電改も水上戦闘機「強風」を改造して「紫電」を作り、その改良型が紫電改となっています。戦後に押収された数機がアメリカでテストされて、優秀性が確認されたそうです。

あらためて知った紫電改そのものに格別の興味を持ったわけではありませんが、当時の背景事情や個別のエピソードにはいろいろと面白いものがありました。

一番面白かったのは、本筋ではありませんが、手回し式計算器の話でした。「日本の名機をつくったサムライたち -零戦、紫電改からホンダジェットまで-」(前間孝則 さくら舎 2013)を読んでいると、菊原氏が川西航空機に入社して間もなく(1930年頃)、ある機体の強度計算を指示されて、タイガーの手回し式計算器を使って2カ月かかったという話が紹介されていました。

少し引用します。
「(菊原氏は)一二元一次連立万程式の解を求めるため、川西社長にねだってタイガーの卓上手回し式計算機を買ってもらって挑んだ。『朝、出社して、夜、退社するまでの一日中、タイガー計算機を手回しし続け、おおよそ二カ月近くを要して方程式を解いて、答えを出した』のだった」

タイガー計算器(日本のメーカー)は大正12年(1923年)の創業で、1970年まで手回し式計算器を製造販売していました。現在の(株)タイガーのHPに「タイガー手廻計算器資料館」という案内があり、社史や使い方が出ていますが、そこに、「大正13年3月 改良を重ねた3台がすぐさま呉海軍工廠へ1台545円の価格で納入された」とあります。菊原氏が使ったのはその6年後くらいですから、当時としては最新の機械だったのでしょうね。

航空機の設計については何も知らないのですが、この話を読んで、学生時代に統計計算で手回し式計算器を使ったことがあったので、菊原氏が連立方程式を解いてから40年近く経った頃に私もそう遠くない世界を追体験していたことがわかりました。

菊原氏が計算した多元連立一次方程式は工学系や気象予測など、多くのシミュレーションで使われています。変数が2個の2元連立一次方程式は中学校で習いますね。これくらいであれば、紙と鉛筆の手計算で解を出すことはむずかしくありませんが、変数が12個もあると、手計算で解くのは絶望的です。当時は「やるしかない!」ということだったのでしょう。

上野の国立科学博物館に「九元連立方程式求解機」という機械が置いてあります。計算機の歴史コーナーで、写真の右端に写っている黒い棚のように見えるものです。

1936年に米国MITのウィルバー(John B. Wilbur)が土木の構造解析や経済学上の計算を行える計算機械を考案・製作したという情報を元に、戦時中の1944年に東大の航空研究所で作られたそうです。精密に測定しながらバーの角度を調整すると、9個の変数までの方程式が1%程度の誤差で解けるそうです。手動のアナログ計算機です。それだけの需要があったんですね。コンピュータが使われるようになると、シミュレーションも巨大化して、何万個もの変数の連立方程式が使われるようになりましたが、そういう時代ではありません。

これはタイガー計算器の10桁の手回し式計算器です。現在、本棚の飾りとして置いています。

1960年頃の製品で、職場で廃棄備品になったので、もらっておきました。学生時代に使ったものではありませんが、ほぼ同じ製品です。

固いですがまだ動きます。ホコリまみれで、分解掃除と注油をしようかと思うのですが、掃除したとしても使うわけではないし、元に戻せない可能性が高いので、なかなかその気になりません。1ゲージの機関車並みに、とても重い(5.6kg)ので、扱いが大変です。

手回し式計算器は加算と減算しかできません。乗除算は桁移動で加算か減算を繰り返して計算します。数値をセットしてから、右側奥のハンドルを回す(加算は時計回り、減算は逆)のですが、指先と腕がすぐに痛くなります。1時間くらいが限度でした。それでも、5桁以上の乗除算をする場合は、紙の上での手計算より速くて正確でした。平方根を出す手順もありましたが、忘れました。

使った時の擬音(割り算の場合)は、カチカチ(数値入れ)とカチン(数値セット)が2回(被除数と除数)の後、ジャージャージャー(減算回転)→チーン(回しすぎの合図)→ジャー(回転戻し)→コトン(桁移動)、を繰り返すという雰囲気です。

これを少なくとも一日8時間、それを2カ月近く続けるというのは大変な作業です。1950年代に、因子分析(主成分分析)という統計手法を手回し式計算器でなさった先生がいましたが、それも2カ月くらいかかったと聞きました。

12元連立方程式の解に至るまで、どれだけの加減乗除が必要だったのか、2カ月という期間から、おおまかに逆算できそうです。5桁の乗除算は慣れない私で1個が1~2分かかります。加減算は20秒くらいです。桁数が上がれば時間もかかるし、毎回の計算結果をメモしておくことも必要です。仮に、慣れた人の所要時間が1個あたり1分だとしたら、1日8時間で480個、2カ月50日勤務で24,000個になります。手回しの回数は数十万回になるでしょう。

1940年代のアメリカでは、手回し部分がモーターになった電動計算器が普及していたようです。アメリカのモンロー(Monroe)製の電動計算器を一日だけ使わせてもらったことがあります。実感としての速さは手回しの十倍以上で、数値設定もボタンだし、桁送りも自動だったので、計算開始のボタンを押すだけでした。ただ、古かったからか、音がとてもうるさかった記憶があります。タイガー計算器も戦前に電動の試作品を作っていたそうですが、日本でどれくらい使われていたのかはわかりません。

私が手回し式計算器を使ったのはちょっとした統計計算だけでした。すでに大学に計算機センターが出来ていて、因子分析のような計算は、紙カードか紙テープにプログラムとデータをパンチして渡すと、翌日に結果を受け取ることができました。バッチ処理と呼んでいました。

1980年代にはPCが普及してきました。今では、自宅PCに入れているSPSSという統計ソフトを使うと、手回し式計算器で2カ月かかったらしい主成分分析の100倍以上のデータで、かつ手間のかかる因子分析手法での計算であっても、実行ボタンをマウスでクリックすると即座に結果が表示されます。時間を測定している暇はありません。手回し式計算器でやるとすれば、毎日8時間で何年かかるかわかりません。研究者の時間の使い方がすっかり変わりました。

紫電改が設計・生産された戦争の時代あたりまでは、手回し式計算器で象徴されるように、人力の世界でした。それでも、「最強戦闘機紫電改 -甦る海鷲-」( 「丸」編集部編 光人社 2010)を読むと、菊原氏自身が書いた「設計者の回想:最強戦闘機の生涯」という記事で、「設計開始が昭和十八年二月で、その年の末に試作一号機が初飛行を行ったから、ちょうど十一ヵ月間である。」とあります。改良型の設計とは言え、初飛行までが1年足らずの短期間だったというのは驚異です。戦時下の急務ということで、機体強度などの計算には多くの人が手分けして、手回し式計算器を使っていたのでしょうか。