みおつくしの鐘・・・知らなかったこと

2017年11月22日

先日、みおつくしの鐘を訪ねた記事を書きましたが、その後、資料を読んでいたら、今まで知らなかったことがわかってきました。

これまで、前奏と後奏のウェストミンスター・チャイムに挟まれた、一つの鐘の音が高楼に吊された大きな鐘の音だろうと思っていました。しかし、この鐘の音もチャイムでした。高楼の大きな鐘は「記念鐘」であって、設置当初から、何らかの行事のために鳴らすことはあっても、夜10時の時鐘ではなかったそうです。まあ、あらためて考えると、あれだけ大きな鐘を自動化して打つのは簡単ではないだろうと思いますけど。

このことから、「みおつくしの鐘」とは、チャイムならびに高楼の鐘を総称していて、聞こえてくる「みおつくしの鐘」はチャイムが実質的メインで、記念鐘は視覚的シンボルだと言えそうです。

みおつくしの鐘を寄贈した大阪市婦人団体協議会(現・大阪市地域女性団体協議会)が昭和31年5月5日に発行した「みおつくしの鐘 建設の記録」という小冊子がありました。なかなか興味深い記事で埋められています。

この計画は昭和29年の会議で始まり、当時、犯罪が増えるとされていた夜10時に青少年の帰宅をうながすために、最初はサイレンを流そうという案がありました。でも、戦後10年も経たない時期で、サイレンは空襲を連想させることから、チャイムを流すという方向(仮称「愛の鐘」)になり、昭和30年に入って、「みおつくしの鐘」という名称が決まったようです。ところが、募金を始めてから、チャイムの音(時報装置)のみではなく、市役所の塔屋に「鐘の姿」がほしいという意見が出てきたそうで、大きな記念鐘の製作を追加したのです。

寄付総額300万円で、建設費200万円のうち、記念鐘に50万円、時報装置95万円、建設工事61万円を配分しています。記念鐘が重いので、取り付けは高楼内に鉄骨を組んでから吊り下げる方法が取られました。

記念鐘の製作依頼を受けたのは富山県高岡市にある梵鐘製作で有名な老子(おいご)製作所です。国産最大サイズの洋鐘ということで、とても予算が足らないとのことでしたが、最終的には老子製作所の協力によって実現したようです。老子製作所はその後、現在の広島・平和の鐘(5代目)も作っています。

夜10時の「みおつくしの鐘」は、時計装置に連動させたチャイムの自動演奏装置の振動出力をアンプで増幅して、高楼下の6個の大型ホーン型スピーカーから流すという方式になっています。以下では、上記資料「みおつくしの鐘 建設の記録」に掲載されている図・写真を使わせてもらって、構造を説明してみます。

動作のタイム・チャートです。日没を感知して照明が点灯されます。午後9時58分に制御モーターが動き出し、その後、アンプ(真空管)が作動し始めます。9時58分20秒に前奏チャイムが始まり、10時にチャイムが終わると、時鐘が打たれ、20秒間の余韻を含めています。10時0分20秒に後奏チャイムが始まり、10時1分に終了します。10時2分には照明も落とされます。

チャイムの自動演奏装置です。東京・光星舎(今はない)が製作しています。

下に2つの金属円筒があり、タイマーで稼働し、シリンダー・オルゴールと同じ円筒のピンがハンマーを引っかけて、上から延びている金属棒(の根元あたり)を叩くという方式です。並んだ金属棒の裏にピックアップ部が見えています。このあたりは電気ギターと同じですね。

右側の円筒が前奏と時鐘、左側が後奏のようです。ウェストミンスターのメロディは4音なので、右側の6本のうち、左の2本が時鐘を担当しているようです。下のほうに4つの黒いスイッチがあり、左から「ト長調」、「時鐘」、「ハ長調」、「制御器」と書かれています。手動で動作させるためのものですね。光星舎のチャイムは全国の学校などに納入されていましたので、まだ使われているところがあるかもしれません。

アンプ(左)、光探知リレーと時計(右上)、外部スピーカー(右下)の写真です。

建物の設置図です。

高楼の一番上には記念鐘が吊されていますが、「みおつくしの鐘」は階下7階のチャイム室で鳴らされて、スピーカーで届いていたわけです。9階には記念鐘を鳴らすための打鐘綱があります。

なお、当時のラジオ放送は、NHK大阪、NJB(新日本放送→MBS毎日放送)、ABC(朝日放送)という3局が協力したとのことでした。その後、みおつくしの鐘に賛同して、北海道から九州まで、多くの鐘が設置されたそうです。

大阪市の担当の方にうかがったところ、現在でも市庁舎から「みおつくしの鐘」が流されているそうで、しかも、録音ではなく、チャイム装置によるということですが、昭和57年の新庁舎竣工に際して、装置は一新されたようです。まあ、それからも30年以上が経っています。今後も維持されるといいですね。

 

みおつくしの鐘

2017年11月16日

最近、昭和の大阪の写真集を眺める機会がありました。昭和30年頃から大阪万博の後くらいまでの写真の多くには見覚えがありました。そのうち、先代の大阪市庁舎の写真では、屋上に「みおつくしの鐘」がありました。昭和30年5月5日に設置されたそうです。設置された直後くらいに、母が勤めていた産経新聞の社屋から双眼鏡で眺めた記憶があって、今はどうなっているんだろうと気になり、ちょっと調べてみました。

みおつくしの鐘は先代の市庁舎高楼に取り付けられたわけですが、その市庁舎は大正10年(1921年)に竣工していて、竣工当時から鐘楼はあったようです。当時の絵はがき(大阪市立図書館公開可能アーカイブ)や写真を眺めても、高楼に鐘が取り付けられているのかどうかはわかりません。

大阪に住んでいたら誰でも知っているのでしょうけど、みおつくしの鐘は今も現在の庁舎の上に置かれているそうで、毎年、新成人が鐘を撞く行事があるようです。来年の募集案内がありました。鐘が置かれている屋上には、「市役所屋上緑化施設の一般公開」という枠で行くことができるようです。6月から11月までの第2・第4金曜日の午後だけです。11月10日の金曜日、ちょっとした用事のついでに上がってきました。

大江橋から眺めた現在の市庁舎です。屋上の鐘楼はグーグルの航空写真には写っていますが、歩いていると見えません。

屋上までエレベーターで昇ったら、係の人がいて、首掛けの緑化施設見学証と案内図を渡されました。緑化施設はこんもりとした茂みを予想していましたが、木々は小さく、時期が時期だけに紅葉が始まっていました。

案内図です。

その横のほうに、秋の草花が咲いていました。名前は知りません。

緑化されている幅は広くはありませんが、外の景色を眺めるには広くて、遠景しか見えないようです。ちょっと中途半端な幅かなと思いつつ、横目に眺めながら歩いたら、お目当ての鐘楼がありました。初めて近くで眺めました。

雰囲気は昔のままのようですね。

鐘楼の柱に説明盤がありました。鐘は高さ1.82m、重さ825kg、口径は約1.26メートル(4尺1寸5分=よいこ)だそうで、相当なサイズです。

こんなレリーフがありました。

反対側には「鳴りひゞけ みおつくしの鐘よ 夜の街々に あまく やさしく ”子らよ帰れ”と 子を思う 母の心をひとつに つくりあげた 愛のこの鐘」という、寄付した大阪市婦人団体協議会による碑文が書かれています。

この碑文、昭和30年頃の大阪市内の状況を思い出せば、当時の母親たちの相当に真剣な思いだったのでしょうね。今でも基本は変わらないでしょうけど。

鐘の真下に入ることができるので、実際にはどんな音がするのか、ちょっと指でノックしてみました。小さな音しか出ないし、御堂筋の雑音が入ったので、聞こえるかどうかわかりませんが、なかなか素直できれいな音でした。

みおつくしの鐘が取り付けられた昭和30年は、ちょうど「ゴジラの逆襲」が公開された年で、大阪市庁舎の前でゴジラとアンギラスが闘っていました。映画製作のほうが早いので、セットの大阪市庁舎にはみおつくしの鐘はなかったでしょう。

今も大阪市内の一部地域で夜10時にチャイム(ウェストミンスターの鐘)に挟まれて、みおつくしの鐘の音が1回だけ流されています。大阪市のサイトで聴くことができます(その後、音は出なくなりました)。前奏チャイムがハ長調、後奏チャイムがト長調になっているようです。設置当初は市役所の上で、時限装置で鐘が鳴らされていたようですが、当初からウェストミンスターの鐘の音を組み合わせていたのかはわかりません。

俳人・橋本多佳子のエッセイに「みをつくしの鐘」(昭和31年)がありますが、当時はラジオでも午後10時の時報でウェストミンスターの鐘と共に流されていたようです。ラジオもNHKだけではなく、民放各社が流していたようですが、いつの間にかすべて消えました。

昔、市庁舎の鐘楼を双眼鏡で眺めた場所、産経新聞の建物(産経会館→大阪サンケイビル)があった梅田二丁目の方向を眺めてみました。

大阪サンケイビル跡にはブリーゼタワーという高層ビルが建っていますが、手前の高層ビルにちょうど隠れて、もう互いに見えなくなっているようです。

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