YS-11には乗りました

紫電改の話題は手回し式計算器の思い出にしかつながらなかったのですが、YS-11には何度か乗りました。初めてYS-11に乗ったのは、初めて飛行機に乗った経験でもありました。小学生の頃に飛行機に憧れていたものの、実際に乗ることができたのは大学生になってからです。

敗戦後に7年間の航空機関連事業の禁止があり、それが終わって、1956年(昭和31年)に国産輸送機(後にYS-11となる)の開発が開始されました。初期設計は菊原氏ら戦前・戦中の軍用機設計で有名な人たち5人が行い、1958年にモックアップ(木製の実物大模型)も作られましたが、それは製作予算獲得のためのデモンストレーションだったようです。1959年に官民共同の日本航空機製造株式会社ができてから再設計され、1962年(昭和37年)に試作機の初飛行がありました。このあたり、「YS-11 国産旅客機を創った男たち」(前間孝則 講談社 1994)やプロジェクトX「翼はよみがえった」(NHK 2000)で詳しく紹介されていました。

上野の国立科学博物館に、零戦の下にひっそりと展示されているYS-11の風洞実験用模型がありました。

誰も気づかないようなところです。左に見えているのは零戦の車輪です。

零戦(零式艦上戦闘機)の設計は、後にYS-11初期開発に携わった5人の一人である堀越二郎氏ですが、零戦設計当時の部下だった東條輝雄氏が日本航空機製造でYS-11再設計のチーフとなっています。

YS-11は試作機2機を含めて、1973年までに合計182機が製造され、日本航空機製造はその10年後に解散しました。YS-11に続く輸送機の開発計画もあったようですが、航空機産業の営業を知らない赤字経営だったようです。日本の民間航空路線でのYS-11最終飛行は2006年の奄美線でした。

その奄美線が最初の思い出です。1969年(昭和44年)6月に一人で奄美地方を旅行しました。往復は船で、大阪・天保山から関西汽船の浮島丸に乗り込みました。2,600トンの小さな貨客船です。沖縄航路は当時は外国航路と同様のシステムになっており、運賃に食事が含まれていました。沖縄本土復帰が1972年(昭和47年)ですから、直前です。那覇まで行きたかったのですが、パスポート(身分証明書)が必要だったので、手前の奄美にしました。奄美群島の本土復帰は1953年(昭和29年)です。

時刻表です。1972年1月号なので、少し時間などが変わっているかも知れません。

食事付きと言っても、2等船客の食事はさみしい内容でした。食堂の入口に食事の案内が出ますが、「焼き飯」と出ていたのは、まさに焼き飯で、ご飯を油で炒めただけで他に具材は見つかりませんでした。なぜか沖縄に帰る若者がいっぱい乗っていて、床で寝るときは互いに身体がくっつくくらいでした。

甲板でイルカを眺めながら、隣にいた人と話をしていたら、この人が無線局長でした。親しくなって無線室に招いてもらい、和文モールスの送受速度に感心しながら長い時間を過ごしていました。無線室は楽しかったものの、食事と混雑に懲りたので、下船した奄美大島の名瀬で、帰りを1等にグレードアップしました。

2日ほど大島観光をして、徳之島に向かうことにしましたが、この旅行の目玉商品を思いつきました。奄美大島から徳之島までという短距離(直線距離で100kmほど)ですが、奄美線の飛行機の切符を買ったのです。飛行機、それも就航して間もないYS-11に乗りたかった、空から海を眺めたかった、短距離で運賃が安かった、それでも船より高いけれど船なら半日かかるところが30分で着く、というたくさんの「合理的理由」からです。

YS-11が民間航空路線に就航したのは1965年で、1966年に松山沖で墜落する事故がありましたが、1969年というのは初期トラブルが解決されて、パイロットも慣熟して安定してきた時期だったと思います。

当時の時刻表を残していないので、次の時刻表は1972年1月号の掲載です。搭乗した1969年は東亜航空(TAW)でしたが、1971年5月に日本国内航空(JDA)と合併したので、時刻表は東亜国内航空(TDA)になってからのものです。発着時刻は同じようなものだったと思います。

離陸時に写真を撮っています。初めて乗った飛行機のフラップの動きが新鮮でした。このプリント写真をよく眺めると、機体記号はJA8684と読めます。

JA8684は型式YS-11-128で製造番号が2045(45機目)、1967年9月の製造・登録です。初期型(2049まで)の最終に近い製造で、1967年11月にアルゼンチン航空にリースされ、1年後の1968年11月に東亜航空に登録されています。その後、1971年6月に東亜国内航空に登録されて「ほたか」と命名されました。1983年12月にハワイのMid Pacific Air(1995年に廃業)に売却されたようで、別の機体記号になり、1991年に抹消されています。

乗り込んだ機内は真新しく、乗客は少なく、効かないと言われていた冷房がよく効いていました。梅雨前の南国で乗り込んだからかもしれません。プロペラ機(ターボプロップ)とは言え、初めての離陸時の加速は電車や自動車では味わえない快感でした。ロールス・ロイス製ダート・エンジンのタービン回転音はなかなか迫力がありましたが、それは音がダイレクトに聞こえるという意味でもありました。

私の初フライトは曇り空で、空から眺めた海はポスターに出ているような鮮やかな群青色とは言えませんでした。

この楽しい初飛行の出費が後で効いてきました。徳之島から沖永良部島に船で移って、知名(ちな)の国民宿舎に滞在し、親しくなった人と鍾乳洞探検や釣で楽しく過ごしましたが、手持ちのお金がなくなってしまいました。急いで帰りの船を2等に戻して国民宿舎の支払いを済ましたら、和泊(わどまり)港までのバス代もなくなり、ヒッチハイクでトラックに乗せてもらって船までたどり着きました。神戸港では自宅への電話代が残っていただけです。その後も一人旅はたいていこんな結末になっていました。

次にYS-11に乗ったのは、1972年に札幌で1年を過ごしていた秋です。東亜国内航空が札幌(千歳空港)から羽田経由で大阪へと深夜便を運航していました。YS-11が飛ぶ路線は通常は札幌市内の丘珠(おかだま)空港発着なのですが、この深夜便だけは千歳発着でした。

この深夜便は日本航空の運航で始まり、便名に名前が付いていたように記憶しています。札幌-東京便はオーロラ、札幌-東京-大阪便はポールスターでした。他に、福岡行きのムーンライトというのもありました。昼間の大阪-札幌便(ジェット機DC-8)はユーカラという名前でした。昼のジェット便だと片道19,700円ですが、深夜便は13,900円で、格安運賃がなかった時代には魅力的でした。でも、大阪で買う北海道均一周遊券が学割で8,900円でしたから、相当の覚悟が必要でした。

搭乗機の写真がないので、当時の千歳空港です。搭乗の翌月に人を迎えに行ったときに撮りました。手前も離陸しているのもDC-8のようですね。

送迎デッキ(ターミナルビル屋上)には、御役御免になった自衛隊機F86Dが展示されていました。

前年の1971年7月には、丘珠発函館行きのYS-11「ばんだい」の墜落事故があったので、ちょっと気になりましたが、千歳から羽田、そして伊丹に向かうルートなので、離着陸の周辺に山はないだろうと、忘れることにしました。

座席は徳之島便の時とほぼ同じ場所でした。深夜の千歳空港離陸では、まばらな街の灯りがなかなか去って行きません。ジェット機と違って、離陸してからの上昇角度が浅く、ゆっくり旋回しながら上昇するので、前に進んでいるのか、ひょっとしたら後ろに下がっているのではないか、という不安を持ちました。

離陸してから羽田までの3時間、外は真っ暗で、常にすぐ横のエンジン音が大きく響いていて、ほとんど眠ることができませんでした。まだ暗いうちに羽田に着陸しました。

羽田で多くの乗客が降りて、残っている乗客は10人ほどになっていました。1時間ほどの休憩があり、明るくなってきて離陸しました。しばらくして、寝不足の目に、雲の上に見える富士山の頂上に朝日が当たっている景色が入ってきました。YS-11の巡航高度は5,000mくらいで、太平洋岸を飛んでいましたので、朝日に輝く富士山が真横に見えます。この時ほど、右の窓側に座っていたことを喜んだことはありません。カメラが手元になかったのがとても残念でした。

1980年には札幌に移住しました。15年ほど住んだ厚別区では、風向によって、家の上空から丘珠空港に向かうYS-11をよく見かけました。数回、函館往復にYS-11に乗って、藻岩山から羊蹄山、駒ヶ岳を眺めることがありましたが、なんか、YS-11にも北海道の景色にも慣れてしまったような感じで、写真を撮ることはありませんでした。

そして、最後のYS-11搭乗になりました。
2002年7月20日、YS-11が来年には北海道内定期路線から引退するという話題が出ていたので、函館への出張で空路を選びました。

エアーニッポンJA8744による往路は雨で、景色はプロペラとエンジンだけでした。ちらっと、「ばんだい」の記憶が戻りましたが、この時期にはオートパイロットなどの装備が追加されているらしいので、安心していました。

以下の動画では大きな音が出ます。

かつでの深夜便で眠ることができなかったのは、この音でした。これでもレシプロエンジンのDC3より静かだったと言われましたが、知らない比較です。

JA8744は型式YS-11A-213で製造番号が2116、1969年8月に製造され、全日空に登録です。YS-11Aというのは初期型を改良した型式で、1967年の終わり頃以降の生産です。さらに、A-500型(エンジンを強力型に換装)に改造されています。

雨の函館空港に着陸します。音が出ます。

到着しました。

タラップでは傘の貸し出しサービスがあります。

この飛行機は搭乗した翌年、2003年にタイのプーケット航空(今は運航していない)に売却されて、2005年に廃止されたようです。

翌朝、雨が止んで曇り空の帰りはJA8735でした。

JA8735はJA8744と同じ型式で、製造番号が2108、1969年5月に製造され、全日空に登録です。この飛行機は搭乗した翌年2003年1月にフィリピンのアジアンスピリット航空(今は運航していない)に売却されて、別の機体記号になりました。

内浦湾上空から北上します。

この機体は事故に遭う運命だったようで、ネットを調べていると、「YS-11A型JA8735に関する航空事故報告書」がありました。1980年(昭和55年)12月24日、八丈島線で羽田に引き返す途中、木更津上空2,400mで機首に落雷があり、右機首部に損傷を受け、垂直尾翼の一部が飛散したが、乗客・乗務員に怪我はなかったとのことです。そして、2008年1月2日、フィリピンのマスバテ空港への着陸時、風の影響でオーバーランして、コンクリートのフェンスにぶつかり、右脚部と右エンジンを損傷した結果、廃止されたようです。

ところどころ雲の切れ目を見ながら巡航中です。以下の動画は音が出ます。

札幌・丘珠空港への着陸は石狩湾からのルートで、厚別時代の自宅上空からではありませんでした。

フルフラップで降下です。丘珠空港周りもけっこう人家がありますね。

フラップを戻しながら着地しました。

これでYS-11の搭乗も終わりです。最後の搭乗が最初の搭乗や深夜便と同じ座席位置になりました。

これまで飛行機は国内・国際・国外線で数え切れないくらい乗りましたが、YS-11以外はすべてプロペラのないジェット機でした。その中で、YS-11は「気に入った飛行機」と言うより、「思い出深い飛行機」と言うべきでしょうね。YS-11のパイロットだった人が書いた本(坂崎 充 「惜別! YS-11 イカロス出版 2003」)を読むと、客室以外の装備はほとんど戦時中の軍用機レベル、オートパイロットもなく、操縦は体力勝負、たいへんだったようです。