N君とお地蔵さん

お盆の話題です。

鉄道・鉄道模型に親しむようになったのは小学5年生くらいでした。それまでは飛行機が好きで、プラモデルばかり作っていました。古い写真です。

プラモデル遊び(1960頃)

もちろん、電車に乗るのは幼稚園時代から好きだったことを覚えています。その頃は阪神電鉄沿線に住んでいて、阪神の急行の先頭で、正面の縦長ガラス手前の手すりを握って前方を眺めるのが一番の楽しみでした。阪神はカーブと起伏が多く、ジェットコースターに乗っている気分です。この車両が「喫茶店」と呼ばれていた851~881形だと知ったのはずっと後のことです。

小学2年生以降は南海電鉄沿線にある団地の2階に住んでいました。下の階に2歳ほど年下のN君がいました。いつ頃からかは覚えていませんが、弟のようで、よく一緒に遊ぶようになりました。私が小5の頃、子ども同士の会話で、飛行機の知識をひけらかしていたら、N君が鉄道の話題を出してきました。鉄道用語は何もわからず、くやしく思いながらも興味を持ち始めた覚えがあります。彼の父親は国鉄に勤めていたようで、N君は竜華(りゅうげ)操車場に行ってきたなどと、うらやましい話もしていました。

飛行機と違って、鉄道はずっと身近で、N君に鉄道用語や車両名を教えてもらいながら、二人で南海電車や国鉄阪和線の車両を見に行くようになりました。鉄道模型の世界にも入り、小遣いを貯めて、隣町の模型店に通うようになりました。
1枚だけ残っている当時の鉄道模型のボケ写真です。

Oゲージ遊び

交流三線式Oゲージの電気機関車で、布団をトンネルに見立てています。レイアウトを作るスペースはなく、短い距離の往復だけですが、N君と楽しんでいました。この当時の模型はいつの間にか処分してしまったようです。

中学生になる頃から、実感的なHO(16番ゲージ)に興味が移りました。中学校は自転車通学で、下校途中に隣町の模型店に寄り道できる距離でした。お年玉などをつぎ込んで、初めての大物、カツミ製のED70を注文しました。これは今でも残しています。少し改造したので、モーターは昔のままですが、現在のレイアウトでも何とか動きます。

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この模型を取りに行く前日、N君に、明日学校が終わったら一緒に楽しもうと約束していました。

当日、夕方になっても彼は来ませんでした。帰宅した母から、彼が踏切で南海電車にはねられて亡くなったと聞きました。その踏切は小学校への通学路でしたが、当時は遮断機がなかったのです。帰りを急いだんでしょう。私がいる部屋の直下に彼は寝かされていたようですが、私は顔を見に行くことができませんでした。私が中1、N君が小5だったと思います。

N君が亡くなってからしばらくして、踏切横に小さなお地蔵さんがまつられ、その後、ご家族はどこかに引っ越していかれました。

南海きのくに 1962頃

この地蔵は位置を踏切の左から右へと移されたように記憶しています。上の写真は1962年頃に撮影したものです。走ってきているのは南海電鉄の気動車特急「きのくに」、難波(なんば)発の下りで、和歌山から国鉄の準急「きのくに」に併結して紀勢線に乗り入れていました。

この踏切はN君と二人で電車を眺めていた場所でもありました。二人ともに大好きな車両は電気機関車でした。これはED5101形ですね。番号はわかりません。これだけの貨車を引いていました。

南海電機 1962頃

 

その後、私は大阪を離れ、40年近く経ってまた大阪に戻ってきました。鉄道・鉄道模型好きは続いていますが、鉄道の面白さを教えてくれたN君とお地蔵さんのことはすっかり忘れていました。

今年、母が亡くなり、満中陰(四十九日)の法要で、お盆の直前に久しぶりにこの町の寺を訪ねました。寺での法要を終え、墓所に移動する段になって、住職が門内の横にある古びた小さなお地蔵さんを紹介してくれました。

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最初は何のことかわからなかったのですが、話を聞いているうちに、踏切の横に置かれていた地蔵だとわかり、突然に記憶がよみがえりました。あのN君のお地蔵さんがここに移されていたのです。まったく思いがけないつながりでした。奇縁という言葉が浮かんできたくらいです。

住職によると、3年ほど前に、南海電鉄の高架工事が始まるため、踏切近くの檀家の人から地蔵を寺に置いてほしいと依頼されたそうです。状況を飲み込めた私がN君との昔話をしたら、住職は、やっと地蔵の経緯を知っている人が現れた、と喜んでおられました。

半世紀以上前のN君を思い出しつつ、そして地蔵がゆかりのある寺に移されていることに驚きながら、帰りがけに踏切を眺めてきました。高架は下りだけが完成している状態で、歩行者だけの踏切は残っていました。もちろん、遮断機は付いています。

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いずれ上りも高架になると、この踏切は消えますが、踏切がなくなっても、墓参に合わせてN君のお地蔵さんを訪ねることができます。

青函連絡船がなつかしい

先週の朝日新聞(2016年2月13日) “be” の「みちのものがたり」に「青森駅300メートルホーム:連絡船へ急ぐ無口な人々」という記事が大きな写真入りで掲載されていました。とてもなつかしく、記事を読みながら、15年ほどで30往復くらいは乗った青函連絡船についていろんなことを思い出しました。

青函連絡船の摩周丸の模型(天賞堂製 1/500)です。

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初めて青函連絡船に乗ったのは1970年8月の末でした。初めての仙台での初めての学会参加で、後に恩師・上司となる札幌の先生に初めてお目にかかった翌日、気まぐれで、仙台からの道南均一周遊券(今のフリー切符の一種)を買い、初めて北海道(札幌と小樽のみ)を訪れました。「初めて」尽くしです。

とても暑かった仙台から上野始発の常磐線経由の急行「十和田1号」に乗りました。周遊券では急行の自由席に乗ることができました。自炊で電子化した当時の時刻表を眺めると、上野始発12:20、仙台発が17:58、青森着が23:40となっています。青森に着く前に、車掌が検札しながら、北海道に渡る人には乗船名簿を配りました。これが映画「飢餓海峡」に出てきた乗船名簿か、と思いながら、もちろん実名を記入しました。

青森駅では深夜にもかかわらず、朝日の記事にあるように、列車を降りたほとんどの人が長いホームを走っています。いったい何事が起こっているのかわからず戸惑っていました。行商姿で、大きく重そうな荷物を背に負い、さらに両手にも荷物を持っている女性たちも小走りです。みんなが急いでいるのを眺めながら、ゆっくり歩いているのは数えるほどでした。そして、私以外のゆっくり歩いている人たちの半分くらいは青森駅の出口に向かって行きました。

歩く人の少ない長い連絡通路を進みながら不思議に思っていましたが、連絡船に乗り込んで事情がわかりました。カーペット敷きの客室がすべて満員なのです。走っていたのは、寝る場所を確保するためだったのです。すでに他の列車も到着していて、この連絡船に乗り込んでいたことを知りました。

もう、多くの人はハンカチや手ぬぐいを顔に掛けて寝ています。私以外でゆっくり歩いていた人たちは、寝台などの指定券を持っていたのか、私のように初めての連絡船だったのかもしれません。

遅れて入った私は横になることはできず、特急列車の普通座席と同じ二人掛けの自由席に座るしかありません。青森0:05発の連絡船は3:55に函館に到着します。椅子席はそれなりに空席があったので、二人掛けを一人で利用できましたが、ちょっと斜めになっただけの椅子で寝るのは、仙台から座り続けた後だけに、けっこうつらいものでした。

この連絡船が摩周丸でした。現在は函館港で記念館として係留されています。1970年8月2日の一日あたりの青函連絡船乗船人員は上りと下りを合わせて33,088人で過去最高だったそうで、当時の国鉄資料には毎年「青函航路旅客輸送人員記録更新」と載っている時代です。その後は深夜の連絡船が混む季節はグリーン席(リクライニング座席で400円)を使うようになりました。

しばらく寝るのはあきらめてデッキに出ました。銅鑼の音と蛍の光が流れ出し(天賞堂の模型は当時の銅鑼や蛍の光などの音が出ます)、船がゆっくりと岸壁を離れていきます。深夜の海は不気味なところがありますが、暗い海に映る青森港の灯がゆらめいて、これから津軽海峡を渡るんだ、という気分になりました。「飢餓海峡」の最後のシーンは昼間の連絡船だったことを思い出しました。

函館港に着くときもデッキに出ていました。本州の暑さがなくなっていました。そこでわかったのは、離岸時より着岸時のほうがデッキにいると面白い、ということでした。青函連絡船にはバウ(船首)スラスターという横向きの動力装置(プロペラ)がブリッジ下の船底近くに付いていました。上の模型をアップで写します。

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出港時は係員が綱をはずしたら、主動力(船尾のスクリュー)とバウスラスターだけで離岸できたようですが、それは出港する方向に向きを変えて着岸しているからです。そもそも連絡船は船尾と鉄道岸壁の可動橋をつないで、車両を出入りさせなければならないわけですから、出港する方向に着岸しています。これは普通の横付けとは違って、とてもむずかしそうです。

着岸時には港内で進行方向を逆転させるため、船尾を押す大型のタグボート(補助汽船と呼んでいました)の助けが必要になります。このタグボートとのやりとりがとても楽しいのです。連絡船が着岸体勢に入ると、待っていたタグボートが船尾の横にやってきます。ブリッジから専用の外向きの拡声器でタグボートに指示を与えるのがデッキでよく聞こえます。たとえば、「○○丸、スローで押せ」と言うと、タグボートは短い汽笛で応答して、ゆっくりと押し始めます。こういう作業が繰り返されて、最後に「○○丸、ごくろうさま」という言葉で終わり、タグボートも汽笛を鳴らして離れていきます。

この光景を見たくて、連絡船の着岸時にはデッキに出るようになりました。たいていの場合はスッと着岸していましたが、岸壁にぶつかってバウンドする時もありました。事情を聞くと、風が強いときはとても微妙な作業だそうです。冬でもデッキに出ました。どうせ船から出る時は寒いので、それが10分ほど長くなるだけですし、それに、冬場の船内も乗り継ぎ列車内も暖房は豪勢なので、デッキが寒くても、かえって爽やかです。

昼間便だけだったかもしれませんが、函館到着間近になると、北島三郎の「函館の女(ひと)」が船内に流れました。そして、いつの頃からか、青森出港後に石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が流れ出していました。1977年の新譜なので、もちろん、それ以降ですね。昼間の連絡船も、仏ヶ浦を眺めたり、函館山を眺めたりで、楽しいものでした。

一度だけ、自動車航送をしたことがあります。1976年の夏、前年から住みだした神戸から軽自動車で観光をしながら、札幌まで往復しました。行きは下北半島の先端・大間から函館まで小さなフェリーに乗りましたが、帰りは青函連絡船に乗ってみたくなりました。その時のメモと写真が残っていました。

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久しぶりの摩周丸でした。

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こんなオープンのデッキに駐車していて、航海中も出入り自由です。

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気になったこともありました。函館発の深夜便でした。私がグリーン席に座っている横で、いかにも新婚旅行という姿の二人が係員に席の場所を聞いています。係員が指定席券を調べていて、「あれ、これは昨日の便ですよ。」と言っています。

深夜便は0時過ぎの出港です。つまり、乗ってきた列車の翌日に日付が変わります。日付が変わる乗り継ぎは青函連絡船だけだったかもしれません。駅で特急券や指定席券などを購入するとき、申込用紙に記入させられますが、乗り継ぎ連絡船を同じ日付にしてしまう間違いがよく起こります。

すでにマルスというコンピュータによる指定席券の予約システムが使われていて、乗り継ぎ列車は発券されるものの、連絡船の指定席は別の入力だったような気がします。

京都の鉄道博物館に当時のマルス104が展示されています。

左は列車名の活字棒を入れた箱、中央は印刷機、右は操作盤です。活字棒を印刷機に差し込んで、指定券を印刷していました。活字棒の箱には「青函」も入っていました。「北斗」は道内の特急として当時から走っていました。

マルスを置いていない駅の発券だったのかもしれません。発券担当の駅員が旅程を確認するはずですが、どうだったのでしょうか。新婚さんは黙って普通座席に移っていきました。

青函連絡船廃止は札幌在住時代の1988年(昭和63年)3月です。廃止の数年前から、出張に飛行機が使えるようになり、札幌から東京・大阪へは飛行機で行くようになりました。

そして、青函連絡船が廃止されると同時に、札幌駅に「上野」という発車標(行き先表示)が出るようになりました。青函トンネルの開通と寝台特急「北斗星」の登場です。そして翌89年、札幌駅で待望の「大阪」の表示を見ることができました。寝台特急「トワイライトエクスプレス」の登場です。

これら2つの寝台特急は、時間の余裕があるときに利用していました。乗り換えのない寝台列車の旅は、やはり楽でした。それも、1990年代の中頃からは、年齢が上がったこともあり、やはり疲れること、時間の余裕がなくなったこと、そして、出張で長距離の鉄道が使えなくなったこと、などが重なって、忘れた存在になってしまいました。

時として、札幌駅から新千歳空港駅までJRに乗るとき、札幌駅に停車している北斗星やトワイライトエクスプレスと出会うことがありましたが、その時だけはなつかしく感じました。今はもう、どちらの列車も走っていません。上野行きのカシオペアや臨時列車はまだ走っているようですが、札幌駅から「大阪」という発車標は消えました。

1992 Delawhere?

1992年7月の話です。

デラウェア(Delaware)というと、日本ではブドウの品種で有名です。特に大阪府は日本有数の生産地だそうですね。私も昔はデラウェアと聞くとブドウしか思い浮かべませんでした。

アメリカの東部にデラウェア州があります。ロード・アイランド州に次いで2番目に小さな州です。デラウェア大学に勤める友人を訪ねて、一週間ほど滞在しました。ニューアークという、人口3万人くらいの小さな大学町です。彼はデラウェア出身で、ずっとニューアークに住んでいます。

休日に、その友人とドライブしたのですが、デラウェア州内の観光ではなく、隣の州であるペンシルベニア州ランカスターがオススメでした。友人も私も、映画「目撃者(刑事ジョン・ブック)」を観ていたので、映画に出てくるアーミッシュの人たちが住んでいるところが目的地でした。長閑な農地が広がっていました。

ニューアークに戻って、地元で自慢のソフト・シェル・クラブ(脱皮して柔らかい甲羅のカニ)をご馳走になりました。雰囲気は脱皮したてのワタリガニみたいです。

さて、前置きが長くなりましたが、カニをいただいた後、ぶらぶらと町を歩いていて、あるTシャツ・ショップに入りました。そこで目についたのが、このTシャツで、彼と笑いあいながら買いました。

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「デラ・ウェア(どこ)?」という、wareの部分がwhereとなった、もじり言葉と地図が入っています。

デラウェア州は合衆国建国で最初に参加したので、The First Stateと呼ばれていて、化学会社デュポン(DUPONT)がありますが、まあ、あまり特徴のない、アメリカ人も多くが知らない州というので「有名」です。その気持ちがTシャツのDELAWHERE?にあらわれています。

日本人はデラウェアと聞くと、「デラウェアがどこかは知らないけれど、ブドウの産地で有名なところでしょ?」という反応が出てきますし、私も彼にそのことを伝えました。ところが、彼も家族もそんなブドウは知らないと言うのです。デラウェア大学の彼の同僚たちも同じでした。地元のスーパーや果物屋でも見たことがないそうです。

おかしいなあと、滞在中ずっと思っていたのですが、帰国してから調べると、ブドウの品種のデラウェアはアメリカ原産のようですが、その栽培地域はずっと内陸のオハイオ州デラウェア郡(市)あたりだそうです。同じデラウェアでも場所違いなので、デラウェア州の人たちはデラウェア・ブドウを知らないという、広いアメリカの話でした。

 

1992 サウスウェスト・チーフに乗る旅

サウスウェスト・チーフ(Southwest Chief)というのは、ロサンジェルスとシカゴを結ぶアムトラック(Amtrak:全米鉄道公社)の大陸横断列車の名前です。ロサンジェルスから、フラッグスタッフ、アルバカーキ、ラスベガス、ダッジ・シティ、カンザス・シティ、セント・ルイスなどを通って、シカゴまで2,247マイル(3,616km)を43時間ほどかけて走ります。稚内から鹿児島までが3,000kmくらいですから、さらに600km長い距離です。1936年にサンタ・フェ鉄道のスーパー・チーフとして運用されて以来、現在でも毎日運行されています(Amtrakの紹介ページ:英語)。

1992年のサウスウェスト・チーフの停車駅時刻表です。シカゴが上でロサンジェルスが下になっているのは、アメリカの鉄道の歴史なんでしょう。なぜか、ロサンジェルスを夕方に出発してシカゴには朝に着いた記憶イメージが定着していましたが、あらためて時刻表を眺めると、夜にロサンジェルスを出発して、3日目の午後遅くにシカゴに到着しています。

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はじまりのはじまり
1年前の1991年4月、湾岸戦争が終わった頃合いに、滞在していたサンタ・バーバラからオランダのフローニンゲンへと移動することになりました。その後の日本帰国までの航空券を購入するために旅行代理店で相談すると、世界一周航空券が片道航空券の合計と大して変わらない金額でした。これも一興と、アメリカ西海岸から東回りの世界一周航空券を国際線運航の多かったユナイテッド航空に決めて購入しました。世界一周航空券は事前に連続の搭乗区間(後戻りはできない)を決めたオープンの航空券セットです。路線があれば南半球も回ることができますが、当時は余裕がなくて、ほぼ直行便になりました。格安航空券が多い現在ではメリットはないような気がします。

1991年9月にオランダから帰国して、残る航空券は2枚(日本→ホノルル→西海岸)で、ハワイ経由にしていましたが、忘れていました。元は取っているので、使わなくてもいいのですが、有効期限ぎりぎりの翌1992年3月に思い出し、休暇を取って、シカゴの隣町エバンストンのノースウェスタン大学に移った先生を訪ねようと計画し、西海岸からは列車の旅を楽しむことにしました。帰路の片道切符はユナイテッドのマイレージを使います。

シカゴまでの列車を調べて、3月30日発のサウスウェスト・チーフに決めて、札幌の旅行代理店に切符をとってもらいました。今ならネット予約で簡単ですが、東京へ連絡するなど、けっこう手間でした。

西海岸とシカゴを結ぶ列車は他にも、
カリフォルニア・ゼファー(California Zephyr)サンフランシスコ-シカゴ(毎日運行)
エンパイア・ビルダー(Empire Builder)シアトル-シカゴ(毎日運行)
などがあります。飛行機より時間もお金もかかる長距離列車が現在でも定期運行されている余裕はうらやましいですね。

はじまり
大阪に住む母に、ハワイ経由でアメリカに行くという話をしたら、休暇だったらハワイに連れて行ってほしい、前に行けなかったカウアイ島を見たい、と言い出しました。それで、3月25日に先ずは母と一緒にハワイに向かいました。ハワイではカウアイ島まで日帰りしたり、ダイヤモンドヘッドに登ったりして、のんびり観光を楽しみました。
オアフ島ドライブです。

1992 Hawaii 013

ハワイを満喫して帰国する母を搭乗ゲートで見送ってから、ロサンジェルス行きにチェックインしました。ホノルルからロサンジェルスへ向かうのはアメリカ国内線ですが、チェックイン・カウンターの手前に植物検疫があって、とても厳しくチェックしていて驚きました。国際線にはなかったからです。理由はよくわかりませんが、本土にさえ持ち込まなければいい、というスタンスでしょうか。

乗車前の散歩
ロサンジェルスに着いたのは3月30日でした。これで世界一周航空券は終わりです。
空港からロサンジェルス駅(ユニオン・ステーション)まではバスで行きました。サウスウェスト・チーフの発車は夜なので、駅に荷物を預けて、ぶらっと市庁舎方面まで散歩と食事に出かけました。市庁舎のあたりで、ある方向に大勢の人が歩いていくのを見つけました。何かイベントがあるんだろうかと、暇を持て余していたので、くっついて歩いて行ったら、なんと、アカデミー賞授賞式です。

授賞式がおこなわれるドロシー・チャンドラー・パビリオンの前は人だかりです。人混みの中を進んで、歩道に設けられた柵の前に立っていたら、警官に加えて騎馬警官がやって来ました。それも1騎だけでなく、2~3騎が目の前に立ちはだかりました。とても威圧的で、前が見えなくなったじゃないか、と思って、周りを見渡したら、プラカードを持っている人たちばかりです。

プラカードの意味が最初はわからなかったのですが、どうもゲイの人たちの抗議のようです。突然、気がつきました。この日のオスカーにノミネートされている「羊たちの沈黙」に対する抗議でした。その人たちの一番前にいたのです。ジョディ・フォスターを見たかったのですが、抗議の動きが激しくなりそうだったので駅に戻りました。

このときの写真や動画がyahoo moviesの記事(英語)に出ています。この記事の最初の写真に自分が写っているのではないかと思いましたが、時間がずれていたか、もうちょっと右にいたようです。「羊たちの沈黙」は帰国してから観て、この光景を思い出していました。さすがに、監督のジョナサン・デミは次の作品「フィラデルフィア」できちんとゲイの世界を描きましたね。

乗車
歩き疲れて、ユニオン・ステーションの広くて立派な待合室でくつろいでいたら、乗り込み開始のアナウンスがありました。他の乗客と一緒にぞろぞろと線路の間の通路みたいな低いプラットホームを歩いて行くと、かなり暗くなった中に2階建て(ダブルデッカー)の客車が見えてきました。スーパーライナー車両です。実物を間近で見るのは初めてで、とっても巨大!というのが第一印象でした。

実際の写真がないので、HOゲージのKATO製、二代目スーパーライナー(1993年以降)の寝台車の写真です。他に、コーチ(座席車)、食堂車、荷物車などがあります。実際に乗ったのは初代スーパーライナーですが、外観にほとんど違いはありません。模型ではサイズがわかりにくいので、フィギュア(ヨーロッパの駅員です)を置いてみました。

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Amtrakは、1983年にボストン-ニューヨーク往復でメトロライナーに乗ったことがあります。

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この写真のように、メトロライナーは日本の車両とあまりサイズが変わらないので違和感はありませんでした。

しかし、スーパーライナーは高さが4.9m(日本の新幹線車両で4.2m)、ほぼ直方体で、低いプラットホームから眺めるとすごい迫力です。1950年代には、シカゴから西の主要路線での車両限界の高さが5mになった結果(その他は4.4mのままで新幹線とほぼ同じ)で、広大なアメリカの長距離列車でしか使われていないことがうなづけます。

列車で2泊するので、別料金不要のコーチではつらいため、2人用の個室を日本で予約しておきました。1人利用なので割高になり、乗車券と合わせると飛行機運賃より高くなりましたが、食堂車での朝昼晩の食事(ファミレス料理レベル)が付いています。
その時の切符の表紙と控えです。

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車掌から渡されて署名した乗車証です。食堂車の利用などに使います。

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乗ったのは最後尾の車両で、2階建てですが、部屋は1階でした。室内は日本の寝台車の2段ベッド個室という感じです。1階には左右に2つずつ、合計4つの個室があり、奥にはトイレが並んでいます。

乗った部屋はフィギュアを置いた右側、ドアに近いところです。近鉄(今もあります)や新幹線(以前はありました)の2階建て車両の1階と似た雰囲気ですが、天井が高いことと、駅のホームが低いので、1階の窓から駅のホームを眺めても、ホームを歩く人の足が目の前に見える奇妙な景色はありません。近鉄では目のやり場に困るときがありました。

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担当の車掌がやって来て、いろいろと説明してくれます。ベッド・メーキングの時間や、シャワーは共同利用なので、時間を予約してほしい、食事も食堂車の時間割が決まっているとのことでした。

食堂車の予約票です。

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ともかく、気楽な長旅のはじまりで、船での旅行と似た雰囲気です。
レターセットのお土産が置いてありました。

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翌3月31日の早朝、小さな駅に停車しました。もうアリゾナ州との州境あたりでしょうか。停止位置の近くにパトカーが停まっていて、一人の制服警官がやって来ました。私の乗っていた車両のドアが開いて、警官と車掌がしゃべっているようですが、よく聴き取れません。しばらくして、警官が若い男を連れてパトカーに乗り込んで走り去り、列車も走り出しました。

列車が走り出したので、通路に出て、車掌に話を聞きました。車掌によると、昨日のロサンジェルス出発前に駅で預かったスーツケースの中に麻薬が入っているのを麻薬探知犬が見つけたそうです。すでにスーツケースは警察が押収していて、持ち主を逮捕するために警官が乗り込んできたとのことです。同じフロアの個室に乗っていたようで、おとなしく連行されていったそうです。暴れたり、撃ち合いになってもおかしくなかった状況ではないかと聞いたら、そうかもね、と言っていました。警官も一人だけでしたし、日常茶飯事で、大きな事件ではないようですね。

サウスウェスト・チーフ乗車中の写真は次の2枚だけです。ずっと曇っていたような記憶もあり、この10年前にアメリカ大陸横断ドライブをしていたので、景色を撮る気がなかったような気もします。食堂車に行くついでに、列車全体を歩いてみましたが、コーチ車両はけっこう混んでいました。

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2枚目の写真を拡大してじっくり眺めると、どうも先頭の機関車(重連)はGEのDash 8というディーゼル機関車のようです。なぜか、EMDのF40PHというディーゼル機関車(すっきりした、好みの機関車)だと思い込んでいました。

たぶん、直前に観たロバート・デ・ニーロとチャールズ・グローディンの映画「ミッドナイト・ラン」に出てきた列車の映像と混同していたのでしょう。二人が乗った列車はニューヨーク(ワシントンDC発着と併結)とシカゴを結ぶ「ブロードウェイ・リミテッド」のようで、F40PHの重連で少ない客車を牽引していましたが、1995年に廃止されました。また、映画の後半で二人が乗った貨物列車がフラッグスタッフに向かうので、今回の路線を逆に走っていたようです。

日本の寝台車とは、設備や景色や距離は違いますが、読書したり、景色を眺めたり、居眠りしたりなど、いつもの寝台車の過ごし方で、退屈もせず、ゆったりとした時間を過ごせました。

4月1日の午後、時刻表通り、間もなくシカゴ(ユニオン・ステーション)到着というアナウンスがあって、高架線路になったあたりで列車が停止しました。雪で遅延が起こっているそうで、結局、1時間以上待たされてのシカゴ到着となりました。先生が迎えに来ていただいているはずなので、この時だけはちょっとあせりました。

エバンストンの先生のお宅です。屋根に雪が少し残っています。車の横に立っているのは奥様です。

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数日お邪魔して、楽しく過ごしました。

10日ほどの休暇旅行でしたが、いろいろな意味で長旅でした。1年間をかけた長旅だったと言えるかもしれません。

1991 PA0GO訪問

1991年のオランダ滞在中に、友人の奥様の叔父様がオランダのアマチュア無線家として著名な方だと知りました。アーネム(Arnhem)にお住まいのヘリット・ヴェッヘラール(Gerrit Weggelaar)氏で、コールサインはPA0GOです。

5月と8月にお宅を訪問させてもらいました。奥様のティニさんと並んだ写真です。平屋のきれいな建物の裏に大きなアンテナが立っています。

ヘリットさんは1919年生まれですから、お会いした時は72歳でした。とてもお元気で溌剌としたオランダ紳士でした。

5月にいただいたアイボール・ミーティング(実際に会った)カードです。

当時は月面反射での無線通信の実験をやっているとのことで、自作のヘリカルアンテナが置かれていました。

彼の無線機(特に送信機)はほとんどが手作りでした。受信機はRACALという英国製で、初めて見ましたが、操作は慣れないと難しそうです。

ヘリットさんにフローニンゲンのアマチュア無線家を紹介していただいたら、その方が無線機とアンテナを貸してあげると言われて、アパートにアンテナを置かしてもらいました。

部屋には短波用の送受信機を置きました。

いろいろとトライしてみましたが、オランダ国内のみとの交信だけでした。でも、とても楽しい経験になりました。

8月、帰国直前にご挨拶を兼ねてPA0GOを再訪したときのビデオが残っています。アンテナをアメリカに向けて交信してもらいました。音が出ます。

数年前、ヘリットさんが2009年にサイレント・キー(無線家が亡くなること)になられたことを知りました。彼の無線機器はアーネムにあるオランダ野外博物館(The Nederlands Openluchtmuseum)に遺贈されたそうです。

1991 オランダで

湾岸戦争が終わった1991年の春にアメリカ(サンタ・バーバラ)からオランダに移りました。オランダの北東部にあるGroningenという歴史のある街です。ヨーロッパ訪問は初めてでした。友人(オランダ人)がGroningen大学の研究所長だったので、半年ほど滞在させてもらいました。

日本語ガイドブックにはGroningenをフローニンゲンと書かれているので、ここでもフローニンゲンと書くことにしますが、これだと「不老(浮浪)人間」のようですね。有名なリゾート地のScheveningenという町はガイドブックでスケベニンゲンと書かれていて、これらは日本人だけが笑ってしまう話です。

オランダ語の発音はなかなかむずかしく、Gは軟口蓋の摩擦音と言われていて、いびきに近いようです。オランダ人の発音はこのサイト(Forvo)に出ていますので、興味があれば聴いてみてください。右向き△をクリックすると発音されます。Scheveningenはスケーフェニンゲンという感じです。

宿舎は小さなマンションのペントハウス(持ち主が長期休暇中)で、向かいの建物の屋根より高く、窓からの景色がとても気に入りました。右に教会の時計台がよく見えて、時計要らずです。この時計台は可愛いですが、この教会を誰もあまり知らないようでした。でも毎日、飽きずに眺めていました。

南向きで、駅の方向ですが、1994年に駅北側の運河にフローニンゲン美術館が完成したそうで、今なら美術館の屋根が見えるのかもしれません。評判のいい美術館だそうで、ちょっと残念です。

上の写真の右側の壁です。窓がありますが、西日が強くて、2ヶ月後にはビールの空き缶と空き瓶で覆うことになりました。

ペントハウスなので、部屋の横(東側)に屋上があります。その端から撮った部屋の写真です。この建物はかなりモダーンですが、街の雰囲気を壊していません。

後方(北側)の眺めです。街のシンボルの一つ、A教会(設立は1200年代)が見えています。

オランダ生活では、直前までのアメリカ生活、そしてアメリカ生活的な日本の生活とは違った生活文化に驚きながら楽しみました。30年近く前の話ですから、現在とは状況が変わっているかもしれませんが、そんな話から始めます。

到着初日に近所のスーパーへ日用品を買いに行きましたが、箱に入ったティッシュ・ペーパーやキッチン・ペーパーが置かれていませんでした。翌日、研究所の秘書(女性)に、ティッシュ・ペーパーを買いたいのだけど、どこに売っているのかを聞きました。すると逆に、ティッシュ・ペーパーって何に使うのと聞かれました。こういう切り返しは予想していなかったのですが、鼻をかむし、キッチンやテーブルが汚れたら拭くし、などと答えたら、鼻をかむのはハンカチを使いなさい、テーブルが汚れたら布巾を使いなさい、洗ったら何度も使えるでしょう、と反撃されました。なるほどね、昔は日本でもそうだった、と思いながら、それでも一週間後にティッシュ・ペーパーを置いている店(少し高級な商品を置いているスーパー)を見つけて、後ろめたい気分で買いました。

彼女とはいろいろと話が合いましたが、かなり律儀なところがあって、私が昼頃に研究所に現れて、Good Morning! と挨拶すると、壁掛け時計を見上げて12時1分だったので、Good Afternoon! と真面目な顔で言い返してきます。OK OK と笑っておくだけです。

研究所です。

ヨーロッパの大学らしく、大学関係の建物は街の中に点在していて、同じような年代(フローニンゲン大学の創立は1614年)の建物が多くて、違いがよくわかりません。

オランダの人たちは背が高いですね。男性の平均身長が184cmくらい、女性で171cmくらいだそうです。研究所では、友人の身長がちょうど平均の184cm、私が174cmで下から二番目、一番背の高い研究員は198cmでした。

そういう事情だからでしょうか、トイレも興味深い世界でした。宿舎マンションのトイレは特に気にならなかったのですが、研究所のトイレは大人しか入らないからでしょうが、少々驚きました。男性用が高く取り付けられていて、私でギリギリでした。便座も高く、女性に聞くと、160cm程度の身長だと足が床から浮くそうです。

午後6時が終業時間で、建物から出なくてはなりません。少し早いので、その後は近くのビール・バーでビールを一杯飲んで帰るのが日課になり、ヨーロッパのビールを飲み比べていました。それで困ったのは、スーパーを含めた店舗がすべて午後7時で閉まることでした。ビールを飲んで、おしゃべりをしていたら、夕食の材料を買いそびれて、外食になることがよくありました。

中央広場の横にあるマルティニ教会の塔から眺めた宿舎方向の写真です。右側にA教会、左端がフローニンゲン駅です。今はGoogleの航空写真3Dで簡単に眺められますね。

逆方向から眺めた広場です。オランダらしいファサードが続いています。

京都と同様に、16世紀頃のオランダでは間口の幅で税金が決まったとのことですが、結果として、通りに面して多くの建物が並ぶことになるので、合理的だと思ってしまいます。

オールドタウンは運河に囲まれていて、運河には船のレストランがありました。パンケーキの店です。味はともかく、量は多かったですね。

残念ながら、オランダ料理で好みに合うものはあまりなくて、中央広場のマーケットやスーパーで素材を買って簡単な料理を作るほうが多かったですね。インドネシアが旧植民地だっただけに、米(長粒種)や醤油類はスーパーにも置いてあって、「準」日本食の毎日でした。みんなで食事という場合は、たいていホーム・パーティで、レストランに行くときはインドネシア料理か中華料理でした。

大学構内やオランダの駅構内にはコロッケの自動販売機があって、これは独特のスパイス風味で、唯一のリピート購入品でした。駅弁代わりに列車に乗って景色を見ながら食べたこともあります。

もちろん、オランダ名物のハーリング(ニシンの生マリネ)も食べてみましたが、一口しか無理でした。みなさんはキザミ生タマネギをつけて食べたり、それをパンに挟んだりという食べ方をしていましたが、どうも合いませんでした。買って帰って、タマネギを落としてワサビ醤油で食べてみたら、それなりに刺身みたいで、おかずとなりましたが、一度だけでした。

オランダでは自転車が必需品です。街が小さいからでしょうね。オランダの列車には必ず自転車置き場があります。それに、オランダでは(当時のことですが)ガソリンが高く、友人の所有自動車(ニッサン)は日本のタクシーのようにプロパンガスで走っていました。

当然ながら、私も自転車を早々に購入しました。もちろん中古ですが、店に置かれている自転車のいずれもサドル位置が高く、選ぶのが大変でした。多くあったのは手元にブレーキが無く、ペダルを逆に漕ぐとブレーキが掛かるという昔の方式でした。面白いのですが、咄嗟の場合に危険なので、少し高くつきましたが、ツーリング車にしました。

自転車が多いだけに運転ルールはけっこう厳しく、日本のつもりで一方通行を気にしないで逆行していたら、パトカーに停められて注意されたことがありました。

初めてのヨーロッパだったので、休日にはオランダ国内を中心に物見遊山をしていました。アムステルダムとデン・ハーグ(Den Haag)にはよく行きました。出発・帰着するオランダ鉄道(NS: Nederlandse Spoorwegen)のフローニンゲン駅です。

こういう角度からの写真もあります。

デン・ハーグにあるマドローダム(Madurodam)というミニチュア(1/25)遊園地のフローニンゲン駅の動画です。音は出ません。

フローニンゲン駅に停車中の列車です。これは実物です。

左はフランス型げんこつスタイルの電気機関車1600形式、右はコプローパ(Koploper: 英語でLeaderとかFront runnerというような意味)と呼ばれていた電車です。アムステルダムやスキポール空港へ直行で、アムステルダムまで2時間半です。コプローパはお気に入りの車両で、TRIXのHO模型を購入しましたが、デコーダーが不調で、整備を終えたら紹介記事を書く予定です。

デン・ハーグでの楽しみはマウリッツハウス(Mauritshuis)美術館でフェルメール(Johannes Vermeer)の絵を眺めることでした。絵が置かれているのは小さな部屋で、たいてい誰もおらず、部屋中央のスツールに座って長時間を過ごしていました。

絵に近づくことも写真を撮ることも制限がなく、たまに係員が巡回してくるだけでした。

フェルメールの作品を初めて観たのは1982年で、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館でした。ボストンの絵は1990年に盗難に遭って、現在も行方不明だそうですね。

その後、バッキンガムとアイルランドにある2枚だけは機会がなくて観ていませんが、他の美術館はすべて訪問することができました。

上の写真にあるフェルメールの「デルフト(Delft)の眺望」の場所が今でも残っているらしいと聞いて、暑い最中にデルフトまで行ったこともありました。

ここらしいのですが、絵とはアングルと広がりがかなり違います。フェルメールが描いている景色は、眺める高さが10m以上で、かつ両眼が数十m離れていなければ無理なようですね。興味深い違いでした。

アマチュア無線の世界も少し眺めることができましたが、その話は別稿(PA0GO訪問)にします。

半年ほどの滞在でしたが、ヨーロッパでの日常生活を堪能することができました。帰国前日の夜に花火大会がありました。日本の花火とは違って単純ですが、音だけはすごかった記憶があります。この動画は音が出ます。

 

1990 W1AF 再訪

1990年12月30日、久しぶりにケンブリッジに行く機会があり、W1AFを再訪しました。

顧問を続けているビル氏に案内してもらいました。建物も変わり、アンテナも立派なものになっていました。
(これは2日後、1991年1月1日に撮影した外観です)

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建物は以前のほうが趣がありましたが、無線室に入ると、豪華な部屋で驚きました。

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入口からパノラマ風に撮ってみました。

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並んでいるのは、もはや、古いコリンズではなく、新しい機器ばかりです。メインは日本製のicomです。コンピュータはATARIからIBMに変わっています。椅子も長時間の運用に適した座り心地のいいものです。奥には、すっきりとした工作用テーブルもありました。もう、1982-83年ころの雰囲気はありません。

数年前に、以前の建物から追い出されたものの、改めて部屋を確保し、卒業生から機材を寄付してもらったそうです。その後は部員も増え、活発な活動を続けていると、ビルから説明を受けました。

新しいW1AFのQSLカード(交信証)です。

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このカードの下のほうに書かれているUS1Aというのは、この年の5月に、レニングラード(現サンクトペテルブルク)へ遠征して、ソ連の無線局とジョイントで交信したときのスペシャル・コールサインです。
そのときのQSLカードです。

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こんなステッカーもありました。

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すごい事業をやったものです。Uから始まるコールサインはソ連の無線局ですが、特別にもらったそうです。

以前に滞在していた1982-83年には、ソ連からの若手研究者が招待留学で来ていて、オフィスを彼と共有していました。彼を近郊への家族ドライブに誘ったとき、ケンブリッジ市内を離れる場合は事前にソ連大使館に許可を得なければならないと言っていました。当時は、アメリカとソ連はまだまだ厳しい関係にあると感じていましたが、世界は動いていますね。

W1AFのホームページです。現在の活動や歴史などが詳しく紹介されています。今も同じ部屋のようですが、コンピュータの大型ディスプレイが並んでいて、昔の無線室らしさはなくなっています。これも時代ですね。

1983 USA横断 3

最終回です。
1983年7月20日、ユタ州を通り抜けます。

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7月21日、昔、TVドラマでよく観た「ルート66」に入ってみました。

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7月22日、カリフォルニア州デス・ヴァレーに入っていきます。

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真夏のデス・ヴァレーは最高気温が摂氏50度を超えます。N1CKL号には危険な場所なので、前夜は近くに宿をとって、午前中には抜けることにしました。エアコンは切ったままです。
デス・ヴァレーの一番低いあたりは海抜マイナス80m以上だそうです。午前9時ですが、38度になっていました。
この写真の後ろの崖に白い四角い表示が見えますが、そこが海抜0mです。

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昼前に、デス・ヴァレーからロサンジェルスに向けて、裏道を走っていたところに、次のような看板を見かけるようになりました。

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ここから25マイルの間、Burroが道を渡るよ、という注意書きです。
Burroって、カタカナ読みで逆に読むとロバになるなあ、と話しながら走っていたら、いました!

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道を渡っている、のではなく、道にたたずんでいます。

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近づいても逃げない、どころか、窓に顔を突っ込んできました。

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どうも、食べ物をねだっているようでした。
昔、このあたりで飼っていたロバが野生化したらしいです。通りかかるクルマから食べ物をもらっているのでしょう。

この原稿を書きながら調べてみたら、1987年までに、デス・ヴァレーに生息していた野生のロバ6,000頭を多額の費用をかけて、どこか別の養育センターに移動させたという記事を見つけました。理由はよくわかりませんが、人には迷惑だったのでしょうね。もう、このような姿を見ることはできなくなったようです。

7月22日、フーバー・ダムを経由して、夜、ロサンジェルスに到着しました。
7月23日、終日、市内見物です。UCLA、美術館・博物館、ハリウッドを巡りました。
7月24日、ロングビーチでクイーン・メリーを眺めてから出発です。

7月25日、セコイア国立公園を訪ねました。

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昔の写真集で眺めた、木の根元の空洞をクルマが通り抜けるトンネルは、ここではなくて、ヨーセミテだったそうですね。でも、樹齢2000年以上の巨大樹が林立していました。

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7月26日17:10、金門橋を渡りました。サンフランシスコ到着です。定番の写真撮影です。

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20:18、無事に友人(右端)の実家に到着して、歓迎を受け、29日の出発まで、泊めていただきました。
中央のクルマは父上の愛車、新車のキャディラック・エルドラドです。少し運転させてもらいましたが、路面の凹凸を感じさせませんでした。いわゆるアメ車の頂点だったクルマです。

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7月28日、N1CKL号は、100ドル+Tシャツ1枚でレッカー会社に売却され、スクラップになることが決まりました。

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このクルマの最終マイレージは、99,004マイルでした。
旅行開始時は、91,156マイルだったので、今回の横断ドライブは、7,848マイル(12,556キロ)でした。
昨年の入手時は、84,063マイルでしたので、1年で1万5千マイル(2万4千キロ)を走ったことになります。
トラブルは多くありましたが、多くの楽しい思い出を作ってくれました。

(完)

1983 USA横断 2

1983年7月16日、テキサス州エルパソに向かっている途中、ハイウェイの休憩所です。
何人かが休憩所の外壁の下を見ていたので、近寄ってみると、大きいクモがゆっくり動いていました。見ていた人に聞くと、タランチュラ(オオツチグモ)だそうです。誰かが小枝で触っています。

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毒を持っているけど、おとなしいよ、と言われたので、その横にタバコを置いて、サイズを調べてみました。

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その後、洗面所で横にいた人に、タランチュラを初めて間近に見た、と伝えたら、このあたりには多くいて、ジャンプしてくるから近くに寄ると危ないよ、と言われ、苦笑いをするしかありませんでした。人を死なすほどの毒はないらしいですけど。

7月18日、ニューメキシコ州を過ぎて、アリゾナ州に入り、OK牧場を見学。

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中に決闘の場所はありましたが、OK「牧場」という日本のタイトルとはちょっとミスマッチでしょうか。

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これから先は、グランド・キャニオンまでの長い道のりです。
ダブルのタンク・ローリーを追い抜き、

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長編成貨物列車(ディーゼル機関車の四重連)とすれ違い、

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老馬ロシナンテならぬ老車N1CKL号はがんばります。このところ、トラブルはありません。

ニュー・ メキシコ州からアリゾナ州にかけて、道ばたでロードランナーを時々見かけるようになりましたが、写真に撮ることはできませんでした。昔のアニメ「ワイ リー・コヨーテとロードランナー」が好きだったので、見るのを楽しみにしていました。わりと地味な色合いでしたが、かわいくて、走り方はトットトットと速いですね。その後、インディアン・ジュエリーでもよく見かけました。

このあたりには大型サボテンが多くて、特徴的な景色になっています。でも、そばに寄ってよく見ると、道ばたのものには小さな穴がいっぱい空いています。走りながら銃で撃っているようです。地元の食堂でハンド・ガンを着けている人がいた り、ハイウェイでビールを飲みながら走っている人を見たり、ちょっと危ない雰囲気もありました。

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7月19日、グランド・キャニオンには夕方に到着です。日没に間に合いました。

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3(最終回)に続きます。

1983 USA横断 1

1983年7月1日朝10時、お世話になった人たちにお別れの挨拶をして、ケンブリッジを離れました。帰国の飛行機予約は7月29日サンフランシスコ空港発です。

5月頃には西海岸までクルマで片道横断旅行をしてから帰国しようと決めて、航空券はサンフランシスコ発にしていました。当時は東海岸から西海岸に帰省する人の多くがクルマを使っていて、話を聞くと、インターステート・ハイウェイ(無料)の最短距離を走れば、3千マイル強(5千キロ)くらいなので、4泊5日がゆっくりのペースだそうです。元気な学生は、友人や同行者と一緒に交代で昼夜連続運転をしたら、2日ほどで着くことができると言っていました。確かに、大学の掲示板には、どこそこまでの同乗ドライバーを募る、というメモをよく見かけました。まだ格安航空会社がなかった時代です。

その距離を一カ月ほどかけて、観光しながら、アメリカ片道横断ドライブを楽しみます。それも、最短距離ではなく、できるだけ南端(メキシコ湾・メキシコ)近くを通るルートです。宿泊はすべて予約なしで、モーテルを探します。AAAで全ルートに関係する地図やガイドブックをもらってきました。30冊くらいになりました。同行者はカミさんです。

出発して、コネティカット州にあるARRL(アメリカ無線連盟)を訪ねたり、途中の大きな街を散策したりで、南下を続けました。

7月2日、フィラデルフィアです。もちろん、「ロッキー」で有名なフィラデルフィア美術館正面に向かいます。

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7月3日、チャールストン(サウスカロライナ州)に着くころから、愛車N1CKL号の不充電ライトが消えなくなりました。バッテリーの充電ができなくなっているようです。
7月5日、なんとかフロリダ州まで到着し、調べてもらって、バッテリー交換となりました。レギュレータ交換あたりが正解ではないかと思いましたが、それは後ほど判明しました。
まあ、これくらいはマイナーなトラブルと考えて、定番の観光地ディズニー・ワールドを楽しみます。

7月6日、フロリダ州オーランドのマジック・キングダムです。子供のときに観たディズニー映画「海底二万哩」のノーチラスに会えて感激です。

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夜は、お城の上空の花火です。0時まで楽しんで、モーテルに入ったのは、翌0:50でした。

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その後、エプコット・センターやケネディ・スペース・センターなどを見学し、キーウェストまで走って、ヘミングウェイの家の猫と遊んだり、港で対キューバ用の巨大な水中翼の軍艦を眺めたりしました。

7月9日、キーウェストへの水上ハイウェイです。

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7月10日、フロリダ半島の南には湿地帯が広がっています。エバーグレーズ国立公園です。
暑い盛りで、あまり観光客はいません。自動車禁止なので、貸自転車を借りて走っていくと、看板がありました。

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アリゲーターに気をつけて、というか、そういう湿原保護地域です。
巨大なアリゲーターに出会ったらどうしようと、ちょっとドキドキしながら、自転車道の横の水面を眺めていると、いました!

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小さくて、わかりにくいですが、赤ちゃんワニが向こうのほうに泳いでいます。
見つけたワニは、メモによると、この1匹を含めて、赤ちゃん4匹でした。
戻ってから係員に聞くと、暑い夏場の昼、大きなワニは日陰に入り込んでいて、見ることはほとんどない、とのことでした。こちらも、大きなワニを見たら逃げるしかないと、期待と同じくらい怖さも強かったので、まあ、結果は笑うだけでよかったとしましした。

これからはどんどん西に向かいます。

7月12日、ルイジアナ州ニューオリンズに到着しました。
フロリダ以降、N1CKL号は、ラジエータ・ホース破損、レギュレータ交換、バッテリー・ケーブル交換など、「マイナー」なトラブルが続いていました。
でも、ニューオリンズは楽しい町です。

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フレンチ・クオーターなどの旧市街を散歩してから、ジャンバラヤ、なまず料理などを楽しみました。また、「欲望という名の電車」に乗りに行きました。後に、LGBでGゲージの模型が発売されたときは大喜びで手に入れました。

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車内の様子です。

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7月13日、ニューオリンズを出発して、すぐ北にあるポンチャートレーン湖を横断する橋です。世界一の橋と名付けられていました。キーウェストの水上ハイウェイと似ています。

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7月13日夜にはテキサス州に入り、14日はヒューストン見物です。
スペース・センターを見学してから、夕方からアストロ・ドームで、Expos(モントリオール)対Astrosの試合を観ることができました。

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しばらくテキサス州内で、15日はサンアントニオでアラモなどを訪ねました。

2に続きます。