湾岸戦争が終わった1991年の春にアメリカ(サンタ・バーバラ)からオランダに移りました。オランダの北東部にあるGroningenという歴史のある街です。ヨーロッパ訪問は初めてでした。友人(オランダ人)がGroningen大学の研究所長だったので、半年ほど滞在させてもらいました。
日本語ガイドブックにはGroningenをフローニンゲンと書かれているので、ここでもフローニンゲンと書くことにしますが、これだと「不老(浮浪)人間」のようですね。有名なリゾート地のScheveningenという町はガイドブックでスケベニンゲンと書かれていて、これらは日本人だけが笑ってしまう話です。
オランダ語の発音はなかなかむずかしく、Gは軟口蓋の摩擦音と言われていて、いびきに近いようです。オランダ人の発音はこのサイト(Forvo)に出ていますので、興味があれば聴いてみてください。右向き△をクリックすると発音されます。Scheveningenはスケーフェニンゲンという感じです。
宿舎は小さなマンションのペントハウス(持ち主が長期休暇中)で、向かいの建物の屋根より高く、窓からの景色がとても気に入りました。右に教会の時計台がよく見えて、時計要らずです。この時計台は可愛いですが、この教会を誰もあまり知らないようでした。でも毎日、飽きずに眺めていました。
南向きで、駅の方向ですが、1994年に駅北側の運河にフローニンゲン美術館が完成したそうで、今なら美術館の屋根が見えるのかもしれません。評判のいい美術館だそうで、ちょっと残念です。
上の写真の右側の壁です。窓がありますが、西日が強くて、2ヶ月後にはビールの空き缶と空き瓶で覆うことになりました。
ペントハウスなので、部屋の横(東側)に屋上があります。その端から撮った部屋の写真です。この建物はかなりモダーンですが、街の雰囲気を壊していません。
後方(北側)の眺めです。街のシンボルの一つ、A教会(設立は1200年代)が見えています。
オランダ生活では、直前までのアメリカ生活、そしてアメリカ生活的な日本の生活とは違った生活文化に驚きながら楽しみました。30年近く前の話ですから、現在とは状況が変わっているかもしれませんが、そんな話から始めます。
到着初日に近所のスーパーへ日用品を買いに行きましたが、箱に入ったティッシュ・ペーパーやキッチン・ペーパーが置かれていませんでした。翌日、研究所の秘書(女性)に、ティッシュ・ペーパーを買いたいのだけど、どこに売っているのかを聞きました。すると逆に、ティッシュ・ペーパーって何に使うのと聞かれました。こういう切り返しは予想していなかったのですが、鼻をかむし、キッチンやテーブルが汚れたら拭くし、などと答えたら、鼻をかむのはハンカチを使いなさい、テーブルが汚れたら布巾を使いなさい、洗ったら何度も使えるでしょう、と反撃されました。なるほどね、昔は日本でもそうだった、と思いながら、それでも一週間後にティッシュ・ペーパーを置いている店(少し高級な商品を置いているスーパー)を見つけて、後ろめたい気分で買いました。
彼女とはいろいろと話が合いましたが、かなり律儀なところがあって、私が昼頃に研究所に現れて、Good Morning! と挨拶すると、壁掛け時計を見上げて12時1分だったので、Good Afternoon! と真面目な顔で言い返してきます。OK OK と笑っておくだけです。
研究所です。
ヨーロッパの大学らしく、大学関係の建物は街の中に点在していて、同じような年代(フローニンゲン大学の創立は1614年)の建物が多くて、違いがよくわかりません。
オランダの人たちは背が高いですね。男性の平均身長が184cmくらい、女性で171cmくらいだそうです。研究所では、友人の身長がちょうど平均の184cm、私が174cmで下から二番目、一番背の高い研究員は198cmでした。
そういう事情だからでしょうか、トイレも興味深い世界でした。宿舎マンションのトイレは特に気にならなかったのですが、研究所のトイレは大人しか入らないからでしょうが、少々驚きました。男性用が高く取り付けられていて、私でギリギリでした。便座も高く、女性に聞くと、160cm程度の身長だと足が床から浮くそうです。
午後6時が終業時間で、建物から出なくてはなりません。少し早いので、その後は近くのビール・バーでビールを一杯飲んで帰るのが日課になり、ヨーロッパのビールを飲み比べていました。それで困ったのは、スーパーを含めた店舗がすべて午後7時で閉まることでした。ビールを飲んで、おしゃべりをしていたら、夕食の材料を買いそびれて、外食になることがよくありました。
中央広場の横にあるマルティニ教会の塔から眺めた宿舎方向の写真です。右側にA教会、左端がフローニンゲン駅です。今はGoogleの航空写真3Dで簡単に眺められますね。
逆方向から眺めた広場です。オランダらしいファサードが続いています。
京都と同様に、16世紀頃のオランダでは間口の幅で税金が決まったとのことですが、結果として、通りに面して多くの建物が並ぶことになるので、合理的だと思ってしまいます。
オールドタウンは運河に囲まれていて、運河には船のレストランがありました。パンケーキの店です。味はともかく、量は多かったですね。
残念ながら、オランダ料理で好みに合うものはあまりなくて、中央広場のマーケットやスーパーで素材を買って簡単な料理を作るほうが多かったですね。インドネシアが旧植民地だっただけに、米(長粒種)や醤油類はスーパーにも置いてあって、「準」日本食の毎日でした。みんなで食事という場合は、たいていホーム・パーティで、レストランに行くときはインドネシア料理か中華料理でした。
大学構内やオランダの駅構内にはコロッケの自動販売機があって、これは独特のスパイス風味で、唯一のリピート購入品でした。駅弁代わりに列車に乗って景色を見ながら食べたこともあります。
もちろん、オランダ名物のハーリング(ニシンの生マリネ)も食べてみましたが、一口しか無理でした。みなさんはキザミ生タマネギをつけて食べたり、それをパンに挟んだりという食べ方をしていましたが、どうも合いませんでした。買って帰って、タマネギを落としてワサビ醤油で食べてみたら、それなりに刺身みたいで、おかずとなりましたが、一度だけでした。
オランダでは自転車が必需品です。街が小さいからでしょうね。オランダの列車には必ず自転車置き場があります。それに、オランダでは(当時のことですが)ガソリンが高く、友人の所有自動車(ニッサン)は日本のタクシーのようにプロパンガスで走っていました。
当然ながら、私も自転車を早々に購入しました。もちろん中古ですが、店に置かれている自転車のいずれもサドル位置が高く、選ぶのが大変でした。多くあったのは手元にブレーキが無く、ペダルを逆に漕ぐとブレーキが掛かるという昔の方式でした。面白いのですが、咄嗟の場合に危険なので、少し高くつきましたが、ツーリング車にしました。
自転車が多いだけに運転ルールはけっこう厳しく、日本のつもりで一方通行を気にしないで逆行していたら、パトカーに停められて注意されたことがありました。
初めてのヨーロッパだったので、休日にはオランダ国内を中心に物見遊山をしていました。アムステルダムとデン・ハーグ(Den Haag)にはよく行きました。出発・帰着するオランダ鉄道(NS: Nederlandse Spoorwegen)のフローニンゲン駅です。
こういう角度からの写真もあります。
デン・ハーグにあるマドローダム(Madurodam)というミニチュア(1/25)遊園地のフローニンゲン駅の動画です。音は出ません。
フローニンゲン駅に停車中の列車です。これは実物です。
左はフランス型げんこつスタイルの電気機関車1600形式、右はコプローパ(Koploper: 英語でLeaderとかFront runnerというような意味)と呼ばれていた電車です。アムステルダムやスキポール空港へ直行で、アムステルダムまで2時間半です。コプローパはお気に入りの車両で、TRIXのHO模型を購入しましたが、デコーダーが不調で、整備を終えたら紹介記事を書く予定です。
デン・ハーグでの楽しみはマウリッツハウス(Mauritshuis)美術館でフェルメール(Johannes Vermeer)の絵を眺めることでした。絵が置かれているのは小さな部屋で、たいてい誰もおらず、部屋中央のスツールに座って長時間を過ごしていました。
絵に近づくことも写真を撮ることも制限がなく、たまに係員が巡回してくるだけでした。
フェルメールの作品を初めて観たのは1982年で、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館でした。ボストンの絵は1990年に盗難に遭って、現在も行方不明だそうですね。
その後、バッキンガムとアイルランドにある2枚だけは機会がなくて観ていませんが、他の美術館はすべて訪問することができました。
上の写真にあるフェルメールの「デルフト(Delft)の眺望」の場所が今でも残っているらしいと聞いて、暑い最中にデルフトまで行ったこともありました。
ここらしいのですが、絵とはアングルと広がりがかなり違います。フェルメールが描いている景色は、眺める高さが10m以上で、かつ両眼が数十m離れていなければ無理なようですね。興味深い違いでした。
アマチュア無線の世界も少し眺めることができましたが、その話は別稿(PA0GO訪問)にします。
半年ほどの滞在でしたが、ヨーロッパでの日常生活を堪能することができました。帰国前日の夜に花火大会がありました。日本の花火とは違って単純ですが、音だけはすごかった記憶があります。この動画は音が出ます。