3. アメリカのM1免許

2021年3月2日

1990年8月、カリフォルニア州サンタバーバラでフィエスタ(スペイン祭)の警備に来ていた白バイ隊員にいろいろと話を聞いていました。

この頃のカリフォルニア州の白バイはカワサキのKZ1000Pでした。このシリーズのオートバイは日本でも放映されたテレビドラマ「CHiPs:白バイ野郎ジョン&パンチ」でお馴染みでした。もちろん彼も観ていて、交通警察官になったのはその影響もあったと笑って言っていました。

アメリカでの長期滞在では中古車を買うため(保険に入るため)に自動車免許を取らなければなりません。10年前と同様に自動車免許をすぐに取得して、ホンダ・シビック・シャトルを購入して乗っていました。

翌1991年3月、仕事が一段落して1週間ほど休めることになり、オートバイの免許を取っておこうと思い立ちました。アメリカでオートバイに乗る予定はなかったのですが、好奇心と後学のためです。オートバイ免許には2種類しかなく、クラスM2が150ccまでのモペッドやスクーターなど、クラスM1が日本の大型自動二輪免許に該当しますので、M1を受けます。

近所にあるDMV(Department of Motor Vehicles:自動車の登録と免許を扱う役所)に行って、自動車免許と社会保障番号(Social Security Number)を見せて申請し、その場で簡単なペーパーテストを受けて合格したらオートバイの仮免許をもらえます。これで路上運転練習(夜と高速道路はダメ)して技能(実技)試験を受けることができます。国際免許でも可能だと思います。技能試験は予約制です。

自動車免許と同様に、オートバイ免許でも技能試験を受けるためには自分でバイクを用意しなければなりません。レンタルバイク店を探しましたが見つからず、住んでいたゴレタ(Goleta:サンタバーバラの隣町)にあったゴレタ・ホンダ(ホンダオートバイ専門店)を訪ねて、店主のおじさんにM1免許取得のためにバイクをレンタルさせてもらえないか、と尋ねてみました。すると、レンタルはしてないけど、スクーター(ホンダのフリーウェイ 250cc)を無料で貸してあげるよ、とびっくりするような返事をいただきました。技能試験にはヘルメットも必要だから貸してあげるとのことでした。

ご好意に甘えて、ヘルメットとフリーウェイ 250を4日ほどお借りしました。

アパートの駐車場でシビックの前に駐輪した後ろ姿です。ホンダが並びました。

これで技能試験を受けることができます。自動車の技能試験は一般道路上で試験官が同乗して行われますが、オートバイの技能試験はもっと簡易です。カリフォルニア州ではDMVの一角に、円と直線が描かれたオートバイ技能試験用コースが設置されています。

下調べのときの写真です。オートバイ技能試験コースの上に駐車しています。試験をしていない時間は自由に立ち入りできて、試験(受験者)は少ないので、ほとんど空いています。シビックの後方にあるのがDMVの建物です。

DMV発行の冊子に載っているコース図の模写です。二重直線の間隔は1フット(=30cm)、二重円(同心円)の間隔は2フィート(=60cm)、円の外側の直径は24フィート(=7.3m)です。2つの二重直線の間にある丸はコーン置き場です。

技能試験では最初にオートバイのスイッチ類(エンジンの始動・停止や灯火・ホーン)の機能(知っているかどうか程度の)チェックがあり、それから走行します。2つの二重直線の中央に立てた5本のコーンの間をスラロームしてから二重円の線内を2周してスラロームで戻ってくるのを左右1回ずつ、一方の二重直線の線内からスタートして二重円の線内を2周して別の二重直線に戻ってくるのを左右1回ずつ、以上だけです。どれをするかはその場で指示されます。何も免許を持っていない場合は観察テストというのが加わって、試験官が見える範囲で、一旦停止などのあるDMVの敷地内外を周回させられます。

前輪が二重線をはみ出す、足を着く、コーンを動かす、観察テストで一旦停止ルールを守らない、などで失格になります。失敗しても、一回の試験費用(30ドルほど)で日を変えて3回受験できます。それでもダメならまた試験費用を払うことになります。

簡単なコースなのですが、お借りしたスクーターは無段変速でクラッチが無く、ニーグリップもできないので、正確に円を回るのはけっこうむずかしく思いました。スーパーカブに乗っていた頃なら簡単だったかもしれません。試験前日にコースで30分くらい練習したら、まあ問題なく回ることができました。

技能試験の動画はYouTubeにいろいろとアップされていますので、短いものを共有リンクさせてもらいました。この動画はカリフォルニア州の走行試験の一部だけですが、なかなかカジュアルな雰囲気の試験官で、楽しそうです。音が出ます。

技能試験の方法は州によって異なります。かつて住んでいたマサチューセッツ州のテスト風景(共有リンクしたYouTube動画)を観ると驚きます。基本は同じようですが、内容はずっと大まかだし、場所はショッピングモールの駐車場で、固定のコースではありません。駐車場内の一般車両や通行人が通る場所です。それに受験者のバイクがハイ・ハンドルというのも大したものです。各州の独立性とアメリカ合衆国のおおらかさを感じます。これも音が出ます。

何とか、1回で合格しました。DMV事務所でM1免許を取得したという紙を免許証の裏にホチキスで止めてくれました。

ホチ止めの証明書は有効2カ月なので、その間に免許証を作り直してもらいます。その後の免許証には普通自動車Cと合わせて「CLASS: CM1」と記載されるようになりました。免許証の上の部分だけの写真です。

すぐにゴレタ・ホンダまでワインを持参して無事に合格できた報告とお礼に行きました。記念撮影です。大感謝です。残念ながら、この店は現在はなくなっているようです。

この時にしていたベルトとバックルが今回のレザークラフト入門の素材でした。

「4. TDM850」へ続く

1992 Delawhere?

1992年7月の話です。

デラウェア(Delaware)というと、日本ではブドウの品種で有名です。特に大阪府は日本有数の生産地だそうですね。私も昔はデラウェアと聞くとブドウしか思い浮かべませんでした。

アメリカの東部にデラウェア州があります。ロード・アイランド州に次いで2番目に小さな州です。デラウェア大学に勤める友人を訪ねて、一週間ほど滞在しました。ニューアークという、人口3万人くらいの小さな大学町です。彼はデラウェア出身で、ずっとニューアークに住んでいます。

休日に、その友人とドライブしたのですが、デラウェア州内の観光ではなく、隣の州であるペンシルベニア州ランカスターがオススメでした。友人も私も、映画「目撃者(刑事ジョン・ブック)」を観ていたので、映画に出てくるアーミッシュの人たちが住んでいるところが目的地でした。長閑な農地が広がっていました。

ニューアークに戻って、地元で自慢のソフト・シェル・クラブ(脱皮して柔らかい甲羅のカニ)をご馳走になりました。雰囲気は脱皮したてのワタリガニみたいです。

さて、前置きが長くなりましたが、カニをいただいた後、ぶらぶらと町を歩いていて、あるTシャツ・ショップに入りました。そこで目についたのが、このTシャツで、彼と笑いあいながら買いました。

delawhere_T

「デラ・ウェア(どこ)?」という、wareの部分がwhereとなった、もじり言葉と地図が入っています。

デラウェア州は合衆国建国で最初に参加したので、The First Stateと呼ばれていて、化学会社デュポン(DUPONT)がありますが、まあ、あまり特徴のない、アメリカ人も多くが知らない州というので「有名」です。その気持ちがTシャツのDELAWHERE?にあらわれています。

日本人はデラウェアと聞くと、「デラウェアがどこかは知らないけれど、ブドウの産地で有名なところでしょ?」という反応が出てきますし、私も彼にそのことを伝えました。ところが、彼も家族もそんなブドウは知らないと言うのです。デラウェア大学の彼の同僚たちも同じでした。地元のスーパーや果物屋でも見たことがないそうです。

おかしいなあと、滞在中ずっと思っていたのですが、帰国してから調べると、ブドウの品種のデラウェアはアメリカ原産のようですが、その栽培地域はずっと内陸のオハイオ州デラウェア郡(市)あたりだそうです。同じデラウェアでも場所違いなので、デラウェア州の人たちはデラウェア・ブドウを知らないという、広いアメリカの話でした。

 

1992 サウスウェスト・チーフに乗る旅

サウスウェスト・チーフ(Southwest Chief)というのは、ロサンジェルスとシカゴを結ぶアムトラック(Amtrak:全米鉄道公社)の大陸横断列車の名前です。ロサンジェルスから、フラッグスタッフ、アルバカーキ、ラスベガス、ダッジ・シティ、カンザス・シティ、セント・ルイスなどを通って、シカゴまで2,247マイル(3,616km)を43時間ほどかけて走ります。稚内から鹿児島までが3,000kmくらいですから、さらに600km長い距離です。1936年にサンタ・フェ鉄道のスーパー・チーフとして運用されて以来、現在でも毎日運行されています(Amtrakの紹介ページ:英語)。

1992年のサウスウェスト・チーフの停車駅時刻表です。シカゴが上でロサンジェルスが下になっているのは、アメリカの鉄道の歴史なんでしょう。なぜか、ロサンジェルスを夕方に出発してシカゴには朝に着いた記憶イメージが定着していましたが、あらためて時刻表を眺めると、夜にロサンジェルスを出発して、3日目の午後遅くにシカゴに到着しています。

schedule


はじまりのはじまり
1年前の1991年4月、湾岸戦争が終わった頃合いに、滞在していたサンタ・バーバラからオランダのフローニンゲンへと移動することになりました。その後の日本帰国までの航空券を購入するために旅行代理店で相談すると、世界一周航空券が片道航空券の合計と大して変わらない金額でした。これも一興と、アメリカ西海岸から東回りの世界一周航空券を国際線運航の多かったユナイテッド航空に決めて購入しました。世界一周航空券は事前に連続の搭乗区間(後戻りはできない)を決めたオープンの航空券セットです。路線があれば南半球も回ることができますが、当時は余裕がなくて、ほぼ直行便になりました。格安航空券が多い現在ではメリットはないような気がします。

1991年9月にオランダから帰国して、残る航空券は2枚(日本→ホノルル→西海岸)で、ハワイ経由にしていましたが、忘れていました。元は取っているので、使わなくてもいいのですが、有効期限ぎりぎりの翌1992年3月に思い出し、休暇を取って、シカゴの隣町エバンストンのノースウェスタン大学に移った先生を訪ねようと計画し、西海岸からは列車の旅を楽しむことにしました。帰路の片道切符はユナイテッドのマイレージを使います。

シカゴまでの列車を調べて、3月30日発のサウスウェスト・チーフに決めて、札幌の旅行代理店に切符をとってもらいました。今ならネット予約で簡単ですが、東京へ連絡するなど、けっこう手間でした。

西海岸とシカゴを結ぶ列車は他にも、
カリフォルニア・ゼファー(California Zephyr)サンフランシスコ-シカゴ(毎日運行)
エンパイア・ビルダー(Empire Builder)シアトル-シカゴ(毎日運行)
などがあります。飛行機より時間もお金もかかる長距離列車が現在でも定期運行されている余裕はうらやましいですね。

はじまり
大阪に住む母に、ハワイ経由でアメリカに行くという話をしたら、休暇だったらハワイに連れて行ってほしい、前に行けなかったカウアイ島を見たい、と言い出しました。それで、3月25日に先ずは母と一緒にハワイに向かいました。ハワイではカウアイ島まで日帰りしたり、ダイヤモンドヘッドに登ったりして、のんびり観光を楽しみました。
オアフ島ドライブです。

1992 Hawaii 013

ハワイを満喫して帰国する母を搭乗ゲートで見送ってから、ロサンジェルス行きにチェックインしました。ホノルルからロサンジェルスへ向かうのはアメリカ国内線ですが、チェックイン・カウンターの手前に植物検疫があって、とても厳しくチェックしていて驚きました。国際線にはなかったからです。理由はよくわかりませんが、本土にさえ持ち込まなければいい、というスタンスでしょうか。

乗車前の散歩
ロサンジェルスに着いたのは3月30日でした。これで世界一周航空券は終わりです。
空港からロサンジェルス駅(ユニオン・ステーション)まではバスで行きました。サウスウェスト・チーフの発車は夜なので、駅に荷物を預けて、ぶらっと市庁舎方面まで散歩と食事に出かけました。市庁舎のあたりで、ある方向に大勢の人が歩いていくのを見つけました。何かイベントがあるんだろうかと、暇を持て余していたので、くっついて歩いて行ったら、なんと、アカデミー賞授賞式です。

授賞式がおこなわれるドロシー・チャンドラー・パビリオンの前は人だかりです。人混みの中を進んで、歩道に設けられた柵の前に立っていたら、警官に加えて騎馬警官がやって来ました。それも1騎だけでなく、2~3騎が目の前に立ちはだかりました。とても威圧的で、前が見えなくなったじゃないか、と思って、周りを見渡したら、プラカードを持っている人たちばかりです。

プラカードの意味が最初はわからなかったのですが、どうもゲイの人たちの抗議のようです。突然、気がつきました。この日のオスカーにノミネートされている「羊たちの沈黙」に対する抗議でした。その人たちの一番前にいたのです。ジョディ・フォスターを見たかったのですが、抗議の動きが激しくなりそうだったので駅に戻りました。

このときの写真や動画がyahoo moviesの記事(英語)に出ています。この記事の最初の写真に自分が写っているのではないかと思いましたが、時間がずれていたか、もうちょっと右にいたようです。「羊たちの沈黙」は帰国してから観て、この光景を思い出していました。さすがに、監督のジョナサン・デミは次の作品「フィラデルフィア」できちんとゲイの世界を描きましたね。

乗車
歩き疲れて、ユニオン・ステーションの広くて立派な待合室でくつろいでいたら、乗り込み開始のアナウンスがありました。他の乗客と一緒にぞろぞろと線路の間の通路みたいな低いプラットホームを歩いて行くと、かなり暗くなった中に2階建て(ダブルデッカー)の客車が見えてきました。スーパーライナー車両です。実物を間近で見るのは初めてで、とっても巨大!というのが第一印象でした。

実際の写真がないので、HOゲージのKATO製、二代目スーパーライナー(1993年以降)の寝台車の写真です。他に、コーチ(座席車)、食堂車、荷物車などがあります。実際に乗ったのは初代スーパーライナーですが、外観にほとんど違いはありません。模型ではサイズがわかりにくいので、フィギュア(ヨーロッパの駅員です)を置いてみました。

IMG_0171

Amtrakは、1983年にボストン-ニューヨーク往復でメトロライナーに乗ったことがあります。

1983 04 049

この写真のように、メトロライナーは日本の車両とあまりサイズが変わらないので違和感はありませんでした。

しかし、スーパーライナーは高さが4.9m(日本の新幹線車両で4.2m)、ほぼ直方体で、低いプラットホームから眺めるとすごい迫力です。1950年代には、シカゴから西の主要路線での車両限界の高さが5mになった結果(その他は4.4mのままで新幹線とほぼ同じ)で、広大なアメリカの長距離列車でしか使われていないことがうなづけます。

列車で2泊するので、別料金不要のコーチではつらいため、2人用の個室を日本で予約しておきました。1人利用なので割高になり、乗車券と合わせると飛行機運賃より高くなりましたが、食堂車での朝昼晩の食事(ファミレス料理レベル)が付いています。
その時の切符の表紙と控えです。

img 001

img 002

車掌から渡されて署名した乗車証です。食堂車の利用などに使います。

pass

乗ったのは最後尾の車両で、2階建てですが、部屋は1階でした。室内は日本の寝台車の2段ベッド個室という感じです。1階には左右に2つずつ、合計4つの個室があり、奥にはトイレが並んでいます。

乗った部屋はフィギュアを置いた右側、ドアに近いところです。近鉄(今もあります)や新幹線(以前はありました)の2階建て車両の1階と似た雰囲気ですが、天井が高いことと、駅のホームが低いので、1階の窓から駅のホームを眺めても、ホームを歩く人の足が目の前に見える奇妙な景色はありません。近鉄では目のやり場に困るときがありました。

IMG_0173

担当の車掌がやって来て、いろいろと説明してくれます。ベッド・メーキングの時間や、シャワーは共同利用なので、時間を予約してほしい、食事も食堂車の時間割が決まっているとのことでした。

食堂車の予約票です。

meal

ともかく、気楽な長旅のはじまりで、船での旅行と似た雰囲気です。
レターセットのお土産が置いてありました。

IMG_1056

IMG_1058

翌3月31日の早朝、小さな駅に停車しました。もうアリゾナ州との州境あたりでしょうか。停止位置の近くにパトカーが停まっていて、一人の制服警官がやって来ました。私の乗っていた車両のドアが開いて、警官と車掌がしゃべっているようですが、よく聴き取れません。しばらくして、警官が若い男を連れてパトカーに乗り込んで走り去り、列車も走り出しました。

列車が走り出したので、通路に出て、車掌に話を聞きました。車掌によると、昨日のロサンジェルス出発前に駅で預かったスーツケースの中に麻薬が入っているのを麻薬探知犬が見つけたそうです。すでにスーツケースは警察が押収していて、持ち主を逮捕するために警官が乗り込んできたとのことです。同じフロアの個室に乗っていたようで、おとなしく連行されていったそうです。暴れたり、撃ち合いになってもおかしくなかった状況ではないかと聞いたら、そうかもね、と言っていました。警官も一人だけでしたし、日常茶飯事で、大きな事件ではないようですね。

サウスウェスト・チーフ乗車中の写真は次の2枚だけです。ずっと曇っていたような記憶もあり、この10年前にアメリカ大陸横断ドライブをしていたので、景色を撮る気がなかったような気もします。食堂車に行くついでに、列車全体を歩いてみましたが、コーチ車両はけっこう混んでいました。

1992 US 001 Southwest Chief

1992 US 002

2枚目の写真を拡大してじっくり眺めると、どうも先頭の機関車(重連)はGEのDash 8というディーゼル機関車のようです。なぜか、EMDのF40PHというディーゼル機関車(すっきりした、好みの機関車)だと思い込んでいました。

たぶん、直前に観たロバート・デ・ニーロとチャールズ・グローディンの映画「ミッドナイト・ラン」に出てきた列車の映像と混同していたのでしょう。二人が乗った列車はニューヨーク(ワシントンDC発着と併結)とシカゴを結ぶ「ブロードウェイ・リミテッド」のようで、F40PHの重連で少ない客車を牽引していましたが、1995年に廃止されました。また、映画の後半で二人が乗った貨物列車がフラッグスタッフに向かうので、今回の路線を逆に走っていたようです。

日本の寝台車とは、設備や景色や距離は違いますが、読書したり、景色を眺めたり、居眠りしたりなど、いつもの寝台車の過ごし方で、退屈もせず、ゆったりとした時間を過ごせました。

4月1日の午後、時刻表通り、間もなくシカゴ(ユニオン・ステーション)到着というアナウンスがあって、高架線路になったあたりで列車が停止しました。雪で遅延が起こっているそうで、結局、1時間以上待たされてのシカゴ到着となりました。先生が迎えに来ていただいているはずなので、この時だけはちょっとあせりました。

エバンストンの先生のお宅です。屋根に雪が少し残っています。車の横に立っているのは奥様です。

1992 US 003 Evanston

数日お邪魔して、楽しく過ごしました。

10日ほどの休暇旅行でしたが、いろいろな意味で長旅でした。1年間をかけた長旅だったと言えるかもしれません。

1990 W1AF 再訪

1990年12月30日、久しぶりにケンブリッジに行く機会があり、W1AFを再訪しました。

顧問を続けているビル氏に案内してもらいました。建物も変わり、アンテナも立派なものになっていました。
(これは2日後、1991年1月1日に撮影した外観です)

1990-12-30_w1af-0

建物は以前のほうが趣がありましたが、無線室に入ると、豪華な部屋で驚きました。

1990-12-30_w1af

入口からパノラマ風に撮ってみました。

1990-12-30_w1af_photo

並んでいるのは、もはや、古いコリンズではなく、新しい機器ばかりです。メインは日本製のicomです。コンピュータはATARIからIBMに変わっています。椅子も長時間の運用に適した座り心地のいいものです。奥には、すっきりとした工作用テーブルもありました。もう、1982-83年ころの雰囲気はありません。

数年前に、以前の建物から追い出されたものの、改めて部屋を確保し、卒業生から機材を寄付してもらったそうです。その後は部員も増え、活発な活動を続けていると、ビルから説明を受けました。

新しいW1AFのQSLカード(交信証)です。

1990-12-30_w1af-2

このカードの下のほうに書かれているUS1Aというのは、この年の5月に、レニングラード(現サンクトペテルブルク)へ遠征して、ソ連の無線局とジョイントで交信したときのスペシャル・コールサインです。
そのときのQSLカードです。

1990-12-30_w1af-3

こんなステッカーもありました。

1990-12-30_w1af-4

すごい事業をやったものです。Uから始まるコールサインはソ連の無線局ですが、特別にもらったそうです。

以前に滞在していた1982-83年には、ソ連からの若手研究者が招待留学で来ていて、オフィスを彼と共有していました。彼を近郊への家族ドライブに誘ったとき、ケンブリッジ市内を離れる場合は事前にソ連大使館に許可を得なければならないと言っていました。当時は、アメリカとソ連はまだまだ厳しい関係にあると感じていましたが、世界は動いていますね。

W1AFのホームページです。現在の活動や歴史などが詳しく紹介されています。今も同じ部屋のようですが、コンピュータの大型ディスプレイが並んでいて、昔の無線室らしさはなくなっています。これも時代ですね。

1983 USA横断 3

最終回です。
1983年7月20日、ユタ州を通り抜けます。

1983 07 102

7月21日、昔、TVドラマでよく観た「ルート66」に入ってみました。

1983 07 104

7月22日、カリフォルニア州デス・ヴァレーに入っていきます。

1983 07 107

真夏のデス・ヴァレーは最高気温が摂氏50度を超えます。N1CKL号には危険な場所なので、前夜は近くに宿をとって、午前中には抜けることにしました。エアコンは切ったままです。
デス・ヴァレーの一番低いあたりは海抜マイナス80m以上だそうです。午前9時ですが、38度になっていました。
この写真の後ろの崖に白い四角い表示が見えますが、そこが海抜0mです。

1983 07 110

昼前に、デス・ヴァレーからロサンジェルスに向けて、裏道を走っていたところに、次のような看板を見かけるようになりました。

1983 07 116

ここから25マイルの間、Burroが道を渡るよ、という注意書きです。
Burroって、カタカナ読みで逆に読むとロバになるなあ、と話しながら走っていたら、いました!

1983 07 117

道を渡っている、のではなく、道にたたずんでいます。

1983 07 118

近づいても逃げない、どころか、窓に顔を突っ込んできました。

1983 07 119

どうも、食べ物をねだっているようでした。
昔、このあたりで飼っていたロバが野生化したらしいです。通りかかるクルマから食べ物をもらっているのでしょう。

この原稿を書きながら調べてみたら、1987年までに、デス・ヴァレーに生息していた野生のロバ6,000頭を多額の費用をかけて、どこか別の養育センターに移動させたという記事を見つけました。理由はよくわかりませんが、人には迷惑だったのでしょうね。もう、このような姿を見ることはできなくなったようです。

7月22日、フーバー・ダムを経由して、夜、ロサンジェルスに到着しました。
7月23日、終日、市内見物です。UCLA、美術館・博物館、ハリウッドを巡りました。
7月24日、ロングビーチでクイーン・メリーを眺めてから出発です。

7月25日、セコイア国立公園を訪ねました。

1983 07 145

昔の写真集で眺めた、木の根元の空洞をクルマが通り抜けるトンネルは、ここではなくて、ヨーセミテだったそうですね。でも、樹齢2000年以上の巨大樹が林立していました。

1983 07 146

7月26日17:10、金門橋を渡りました。サンフランシスコ到着です。定番の写真撮影です。

1983 07 150

20:18、無事に友人(右端)の実家に到着して、歓迎を受け、29日の出発まで、泊めていただきました。
中央のクルマは父上の愛車、新車のキャディラック・エルドラドです。少し運転させてもらいましたが、路面の凹凸を感じさせませんでした。いわゆるアメ車の頂点だったクルマです。

1983 07 164

7月28日、N1CKL号は、100ドル+Tシャツ1枚でレッカー会社に売却され、スクラップになることが決まりました。

1983 07 161

このクルマの最終マイレージは、99,004マイルでした。
旅行開始時は、91,156マイルだったので、今回の横断ドライブは、7,848マイル(12,556キロ)でした。
昨年の入手時は、84,063マイルでしたので、1年で1万5千マイル(2万4千キロ)を走ったことになります。
トラブルは多くありましたが、多くの楽しい思い出を作ってくれました。

(完)

1983 USA横断 2

1983年7月16日、テキサス州エルパソに向かっている途中、ハイウェイの休憩所です。
何人かが休憩所の外壁の下を見ていたので、近寄ってみると、大きいクモがゆっくり動いていました。見ていた人に聞くと、タランチュラ(オオツチグモ)だそうです。誰かが小枝で触っています。

1983 07a

毒を持っているけど、おとなしいよ、と言われたので、その横にタバコを置いて、サイズを調べてみました。

1983 07b

その後、洗面所で横にいた人に、タランチュラを初めて間近に見た、と伝えたら、このあたりには多くいて、ジャンプしてくるから近くに寄ると危ないよ、と言われ、苦笑いをするしかありませんでした。人を死なすほどの毒はないらしいですけど。

7月18日、ニューメキシコ州を過ぎて、アリゾナ州に入り、OK牧場を見学。

1983 07 087

中に決闘の場所はありましたが、OK「牧場」という日本のタイトルとはちょっとミスマッチでしょうか。

1983 07 088

これから先は、グランド・キャニオンまでの長い道のりです。
ダブルのタンク・ローリーを追い抜き、

1983 07 091

長編成貨物列車(ディーゼル機関車の四重連)とすれ違い、

1983 07 094

老馬ロシナンテならぬ老車N1CKL号はがんばります。このところ、トラブルはありません。

ニュー・ メキシコ州からアリゾナ州にかけて、道ばたでロードランナーを時々見かけるようになりましたが、写真に撮ることはできませんでした。昔のアニメ「ワイ リー・コヨーテとロードランナー」が好きだったので、見るのを楽しみにしていました。わりと地味な色合いでしたが、かわいくて、走り方はトットトットと速いですね。その後、インディアン・ジュエリーでもよく見かけました。

このあたりには大型サボテンが多くて、特徴的な景色になっています。でも、そばに寄ってよく見ると、道ばたのものには小さな穴がいっぱい空いています。走りながら銃で撃っているようです。地元の食堂でハンド・ガンを着けている人がいた り、ハイウェイでビールを飲みながら走っている人を見たり、ちょっと危ない雰囲気もありました。

1983 07 096

7月19日、グランド・キャニオンには夕方に到着です。日没に間に合いました。

1983 07 099

3(最終回)に続きます。

1983 USA横断 1

1983年7月1日朝10時、お世話になった人たちにお別れの挨拶をして、ケンブリッジを離れました。帰国の飛行機予約は7月29日サンフランシスコ空港発です。

5月頃には西海岸までクルマで片道横断旅行をしてから帰国しようと決めて、航空券はサンフランシスコ発にしていました。当時は東海岸から西海岸に帰省する人の多くがクルマを使っていて、話を聞くと、インターステート・ハイウェイ(無料)の最短距離を走れば、3千マイル強(5千キロ)くらいなので、4泊5日がゆっくりのペースだそうです。元気な学生は、友人や同行者と一緒に交代で昼夜連続運転をしたら、2日ほどで着くことができると言っていました。確かに、大学の掲示板には、どこそこまでの同乗ドライバーを募る、というメモをよく見かけました。まだ格安航空会社がなかった時代です。

その距離を一カ月ほどかけて、観光しながら、アメリカ片道横断ドライブを楽しみます。それも、最短距離ではなく、できるだけ南端(メキシコ湾・メキシコ)近くを通るルートです。宿泊はすべて予約なしで、モーテルを探します。AAAで全ルートに関係する地図やガイドブックをもらってきました。30冊くらいになりました。同行者はカミさんです。

出発して、コネティカット州にあるARRL(アメリカ無線連盟)を訪ねたり、途中の大きな街を散策したりで、南下を続けました。

7月2日、フィラデルフィアです。もちろん、「ロッキー」で有名なフィラデルフィア美術館正面に向かいます。

1983 07 019

7月3日、チャールストン(サウスカロライナ州)に着くころから、愛車N1CKL号の不充電ライトが消えなくなりました。バッテリーの充電ができなくなっているようです。
7月5日、なんとかフロリダ州まで到着し、調べてもらって、バッテリー交換となりました。レギュレータ交換あたりが正解ではないかと思いましたが、それは後ほど判明しました。
まあ、これくらいはマイナーなトラブルと考えて、定番の観光地ディズニー・ワールドを楽しみます。

7月6日、フロリダ州オーランドのマジック・キングダムです。子供のときに観たディズニー映画「海底二万哩」のノーチラスに会えて感激です。

1983 07 040

夜は、お城の上空の花火です。0時まで楽しんで、モーテルに入ったのは、翌0:50でした。

1983 07 044

その後、エプコット・センターやケネディ・スペース・センターなどを見学し、キーウェストまで走って、ヘミングウェイの家の猫と遊んだり、港で対キューバ用の巨大な水中翼の軍艦を眺めたりしました。

7月9日、キーウェストへの水上ハイウェイです。

1983 07 057

7月10日、フロリダ半島の南には湿地帯が広がっています。エバーグレーズ国立公園です。
暑い盛りで、あまり観光客はいません。自動車禁止なので、貸自転車を借りて走っていくと、看板がありました。

1983 07 053

アリゲーターに気をつけて、というか、そういう湿原保護地域です。
巨大なアリゲーターに出会ったらどうしようと、ちょっとドキドキしながら、自転車道の横の水面を眺めていると、いました!

1983 07 056

小さくて、わかりにくいですが、赤ちゃんワニが向こうのほうに泳いでいます。
見つけたワニは、メモによると、この1匹を含めて、赤ちゃん4匹でした。
戻ってから係員に聞くと、暑い夏場の昼、大きなワニは日陰に入り込んでいて、見ることはほとんどない、とのことでした。こちらも、大きなワニを見たら逃げるしかないと、期待と同じくらい怖さも強かったので、まあ、結果は笑うだけでよかったとしましした。

これからはどんどん西に向かいます。

7月12日、ルイジアナ州ニューオリンズに到着しました。
フロリダ以降、N1CKL号は、ラジエータ・ホース破損、レギュレータ交換、バッテリー・ケーブル交換など、「マイナー」なトラブルが続いていました。
でも、ニューオリンズは楽しい町です。

1983 07 068

フレンチ・クオーターなどの旧市街を散歩してから、ジャンバラヤ、なまず料理などを楽しみました。また、「欲望という名の電車」に乗りに行きました。後に、LGBでGゲージの模型が発売されたときは大喜びで手に入れました。

1983 07 066

車内の様子です。

1983 07 067

7月13日、ニューオリンズを出発して、すぐ北にあるポンチャートレーン湖を横断する橋です。世界一の橋と名付けられていました。キーウェストの水上ハイウェイと似ています。

1983 07 063

7月13日夜にはテキサス州に入り、14日はヒューストン見物です。
スペース・センターを見学してから、夕方からアストロ・ドームで、Expos(モントリオール)対Astrosの試合を観ることができました。

1983 07 075

しばらくテキサス州内で、15日はサンアントニオでアラモなどを訪ねました。

2に続きます。

1982 W1AF

W1AFというのは、ハーバード大学無線クラブ(Harvard Wireless Club)のコールサインです。1909年に開局した、世界で一番古いアマチュア無線のクラブ局の話です。

別ページに書きましたが、アメリカのアマチュア無線免許はとったものの、無線機を持つ機会はなく、運用はあきらめていました。
1982年のThe Gameの前後あたりだと思いますが、気粉れから、ハーバード大学の電話交換手に、無線クラブはあるだろうかと問い合わせてみました。すると、クラブに登録している学生の電話番号はこれこれという返事が返ってきたのは驚きでした。さっそく連絡して、無線局を訪ねました。

半年ほど通った無線局の建物です。写真の真ん中にあるレンガの三階建てで、屋根の上にアンテナが載っています。となりの建物より低く、あまり条件はよくありません。手前右下には、シャツで有名なJ.PRESSの店のテントが一部写っています。

w1af-01

無線局の部屋には、古いですが、有名な無線機(Collins)が並んでいます。

w1af-03

机の下には、1.5KWの送信ブースターがあります。
その横にはATARI 400(当時の家庭用コンピュータ)が置かれており、流行していたゲーム「パックマン」を遊べます。けっこう、はまりました。無線をせずに、パックマンを遊びに来るだけの学生もいます。

w1af-4

パックマンを遊んでいる横で交信が始まると、画面がゴーストになってしまいます。近所にテレビがあれば、何も写らなくなると思いますが、これまで文句が来たことはないそうです。たぶん、ケーブル・テレビだったのでしょう。
ATARIといえば、こんなコピーがありました。「通勤するより家でコンピュータがいい」というのは、今は当たり前ですね。

DSC00530

当時のQSLカード(交信証カード)です。この原稿を書くときに取り出して撮影したものです。もう少し鮮やかな赤だったような気がしますが、定かではありません。

w1af-00

こういう文化財もありました。1925年フランスの無線局との交信証で、Wが入っていません。カードを貼りつけた紙に書いてある解説には、その前の実験局で1XJというコールサインを使ったようですが、それは残っていないとあります。

w1af-05

この交信証は相手から交信証をもらってから送ったもののようで、フランスで会えるだろうか、というフランス語のメッセージが書かれています。その後に、フランスで会った相手からもらったのでしょうか。

これだけの由緒あるクラブ局ですが、衰退気味で、部員は数人しかおらず、栄光は壁にかかった賞状のみ、という状況でした。ただ、地域の電報を転送するネットワークがあって、熱心に取り組んでいました。また、顧問が実験物理学の若い准教授だったので、少し先行きが明るくなりつつあります。
親しくなった、活動的な部員のボブは、聴覚障害を持ちながら、最上級のExtra免許保持者で、補聴器の飽和ビート音を側頭部への直接振動でとらえて、毎分200字のモールスをこなしていました。普通の会話をモールスでできるくらいの速さです。敬服のみならず、多くのアドバイスをもらって、お世話になりっぱなしでした。

このWlAF局ではヨーロッパとの交信が多かったのですが、日本との交信も何回か出来たのは忘れられない思い出となりました。日本からアメリカ東海岸との交信は、弱小無線局ではとても無理です。交信できた日本の局はいずれも大きなアンテナと大出力を使っていました。それでも音声交信は無理で、モールス音がヒューヒュルヒュルという程度にしか聞こえませんでした。

その中でとてもしっかりした信号で交信できたのはJP1BJRという日本の無線局でした。帰国後に、JP1BJRは戦前からJ2JJというコールサインで活躍されていた大河内正陽氏という著名なアマチュア無線家だと知りました。

おまけの話です。
モールスの送受信練習用に、W1AFにある工具や測定器を借りて、ヒースキット(Heathkit)のキーヤー(µMatic Keyer SA-5010)を組み立てました。このキットはよくできていて、作りがいがありました。小さなモニタースピーカー内蔵で、モールス聞き取り練習用のランダム再生モード、速度調整やメモリーも付いています。コールサインなどをメモリーに入れておけば、ボタン一つで送ることができます。もちろん、普通のパドル・キーをつなぐこともできます。

IMG_1140

キットに付いていた静電スイッチ方式のパドルを前に差し込んでいます。W1AFのみなさんに使ってもらって好評でした。

 

1982 The Game

1982年11月20日、好きなフットボールの話です。

ハーバード大学とイエール大学とのアメリカン・フットボールのゲームは、”The Game”と呼ばれています。フットボールの最初のゲームが1875年に両校で行われたからだそうです。

ゲームの2日前ころから、ハーバードのスタジアム周辺には、高級リムジーンが何台も停まっていて、初老の人たちがテントの下でテーブルを囲んで、ワインを飲みながら談笑しています。同窓生の集まりです。このゲームを観戦するために、世界中からやってきているそうです。

この年くらいまで、フットボールのアイビー・リーグは単独リーグで、このカードがいつも最終戦に設定されていました。今回が99回目の対戦だそうです。入場券も、普段のリーグ戦はIDを見せると2ドルなのに、全席指定で15ドルにはねあがります。当時、プロ・フットボールのニューインクランド・ペイトリオッツのゲームや、野球のボストン・レッドソックスのゲームでも同じくらいの料金でした。それでも観客は満杯です。

ゲームはハーバードが有利な展開で進みました。白がビジターのイエール、赤(クリムソン)がハーバードで、イエールの攻撃です。

1982-the-game-1

ハーフタイム・ショーの様子です。両チームのマーチング・バンドがそれぞれ、HとYを作っています。

1982-the-game-2

試合結果は、ハーバードが前年の雪辱を果して、アイビー・リーグ同率優勝となりました。終了直前のカウントダウンから観客が興奮してグラウンドに降りて、ゴールポストを引き倒す程でした。スコアボードは45:7でハーバードの勝利を示しています。

1982-the-game-3

しかし、この試合のハイライトは、第2クオーターでのハプニングでした。
ボールデッドとなったとき、突如、目の前のハーバード側の芝生が盛り上がり、土の中からシューという音をたてながら、黒い風船が大きくふくらみだしたのです。その風船にはMITと書かれていました。

1982-the-game-4

しばらくして、破裂しました。これを見て5万人の観客は大喜びです。もちろん、試合は中断で、警察もやってきました。

1982-the-game-5

MITの学生がリモート・コントロールでイタズラを仕掛けたのです。警察がチェックした後、グラウンドは整備されて、試合は続行しました。

MITも同じケンブリッジ市内にある、世界的に有名な大学ですが、残念ながらアイビー・リーグに入っていません。ハーバードとイエールという二大アイビー・スクールに対するアピールというところでしょう。

翌週、このイタズラの感想をハーバード、MIT双方の学生に聞いてみると、どちらもニヤリと笑い、同じようにアイディアを賞めていました。数日後のMITの学内新聞には首謀者の学生とのインタビューが載りましたし、その興奮は半年後まで続き、MITの卒業式当日、集まった同窓生に説明するため、MITの芝生上で再現して見せたほどでした。

テロの脅威が現実的な今のアメリカでは考えられないイタズラですが、いろいろな意味でのMITらしさが際だったハプニングでした。
ともかく、そこに居合わせて、目の前で一部始終を見ることができ、写真も撮ることができたのはとてもラッキーでした。

このイタズラは当日夜のTVニュース全国版でも報道されていました。この原稿を書いてから、試しにネット検索をしてみると、Boston Magazineに動画付きの記事がありました。

 

1982 N1CKL

N1CKLとは、アメリカでもらったアマチュア無線局のコールサインです。

ボストンの隣町ケンブリッジには一年ちょっとの滞在でしたが、当時の趣味であったアマチュア無線まで楽しめたのは幸運でした。
アメリカのアマチュア無線の状況に興味があったので、1982年9月8日にボストンで試験を受けました。General Classという中間レベルの資格です。日本での免許も2級アマチュア無線技士という中間レベルなので、順当なところです。

当時のメモを見ると、9:45 試験室入室、9:55 コード・テスト(モールス聴き取り)、10:15 答案提出、その場で採点してもらって合格すれば次へ、10:20 選択式テスト(70問)、11:45 答案提出、その場で採点してもらって合否判定で終了、となっています。同じ試験を受けたのは13人でした。

下は採点結果が付いた応募用紙のコピーですが、普通はもらえないものです。これは9月23日に届いたFCC(連邦通信委員会)からの封筒に入っていて、届いたときは免許証が早く着いたと喜びましたが、当日の記入漏れがあったので、チェックを入れて返送するように、とのことでした。こういうことをしてくれるのは、さすがアメリカのおおらかさと感心しました。ともかく、いい機会だったので、コピーしておきました。

FCC exam

上の記入漏れ・返送があって遅れましたが、免許証は10月20日に届き、コールサインはN1CKLとなりました。アメリカの無線局コールサインは頭文字がW、K、N、A(Aは一部)となるのですが、慣れ親しんでいたWもKもGeneral Class (国の頭文字1文字+地域の数字+3文字)は品切れだったようです。でも、みなさんにNickel(ニックル)と読んでもらって、覚えやすく、気に入っていました。ニックルは5セント硬貨です。

年末にはク ルマのライセンス・プレートを作ってもらいました。
アメリカでは好みの文字・数字をプレート(Vanity Plate:見栄のプレート)にできますが、けっこう高い料金が毎年かかります。その点、アマチュア無線局のプレート(Ham Plate)は年間10ドルで、2枚もらえます。日本とは違って、車種の違いはないので気楽です。

プレートを取り付けた愛車のポンコツ、マーキュリー・モナーク’75です。しょっちゅう修理工場に持って行きましたが、ガソリンが安かったので、何とか、だましだまし、カナダ往復や大陸片道横断を含めて、13カ月で1万5千マイル(2万4千キロ)くらい走ってくれました。

1983 04 074

1983年6月、帰国旅行間近になって、W1AF局内でARRL(アメリカ無線連盟)が実施しているモールス聴き取りテストを受けて、20 WPM(Words Per Minute)の認定証をもらいました。これは一斉に無線放送されるコードを受信して回答を送るだけの簡易テストです。W1AFメンバーでは最低レベルですが、記念になりました。左下の20と書かれた部分はシールで、10~35WPMがあり、追加で認定されるとシールを横に貼っていくようになっています。

1983年7月1日、ケンブリッジを離れて、サンフランシスコまでの大陸片道横断ドライブの初日、南下して、コネティカット州ニューウィントンにあるARRLの本部に寄りました。ボストンから2時間ほどです。時間があれば、ARRLの無線局W1AWを運用できるのですが、帰りのない旅の始まりなので、あきらめました。
私の局名を聞いて、ARRL会員名簿を出してきてくれました。日本の局名と併記されていました。

1983 07 009

出発の前に、W1AW局の建物と並んで、N1CKL号の記念写真を撮りました。

1983 07 004

帰国時には、このクルマをサンフランシスコで廃車し、プレートは廃止手続きをして、持ち帰りました。

ham_plate

アメリカのコールサインは、5年ごとの更新をしないと失効し、すぐに別の人に与えられます。帰国後も友人の住所でしばらく更新していましたが、自宅の引っ越しが続いたのをきっかけに無線をやめてしまいましたので、N1CKLも15年後には別の人のものとなりました。でも、その人はすぐに上位の資格を取得して、コールサインが変わったようです。アメリカでは資格に応じてコールサインの文字構成が変わるので、こういうことはよくあります。今はまた別の人がN1CKLとなっています。