4. TDM850

2021年3月3日

1995年、オートバイから5年ほど離れていましたが、その間も「西独 MOTORRAD Katalog」の日本版「日本と世界のオートバイ最新カタログ」(成美堂出版)は毎年買っていました。

春になって、中古バイクショップで見つけたヤマハ TDM850(1992年に日本登場の初期型4EP)を手に入れました。SRX600と同様に、1年落ちで走行5千キロ以内くらいの中古車がいろいろな面でリーズナブルと思ってしまいます。

初めての水冷エンジンで、4サイクルDOHC 2気筒849ccという大きめのオンロード・バイクですが、ラリー仕様っぽく作られています。

360度クランクの2気筒エンジンはなかなかトルクフルで力強い吹き上がりでした。

SRX600に続いてのヤマハですが、TDM850に決める伏線はいくつかありました。次に乗るオートバイとして、SRX600で寒い思いをしたので風防がほしかったし、キックスターターだったので、右折するときにエンストして道路の真ん中でキックしていて恥ずかしかったことがあり、セルフスターターがほしかった、という2つの装備が基本条件でした。

別の伏線としては、パリ-ダカール・ラリーが好きだったので、1991年にサンタバーバラのバイク用品店に入ったら、ライダー用の革ジャケットで有名なドイツのハイン・ゲリッケ(Hein Gericke: 2016年に倒産)製のダカール仕様が格安でサイズがぴったりだったので衝動買いしたこと、1994年の大晦日に家族とスペイン旅行でグラナダの夜を散歩していて、その年(翌1995年1月1日スタート)からダカール・ラリーのスタート地がパリからグラナダに変わっていて、前夜祭に遭遇したこと、そしてTDM850の原型となったヤマハ YTZ 750 スーパーテネレのダカール・ラリー仕様(YZE 750Tと850T)がパリ-ダカール・ラリーで前年を除いて連勝していた(その後も連勝が続いた)こと、などがありました。

1994年の大晦日、ダカール・ラリーのグラナダ出発の前夜祭で何とか撮れたスナップです。周りには人がいっぱいいました。ヤマハを見つけるのは無理でした。

TDM850はSRX600より50kg以上重く、重心が少し高いようで、押したり引いたり回したりには体力と用心と慣れが必要でしたが、立ちごけはしなくなっていました。足付きもそれほど悪くなく、とても楽で安定していました。2本出しマフラーは初めてです。

セルフスターターは楽で気持ちいいですねえ。これ無しのオートバイには乗れない気分になりました。でも、2気筒のTDM850では路上でエンストした記憶はありませんし、このころはフルフェイスのヘルメットと革ジャケットなどで武装していて、高速道路には乗らないので、風防・カウリングの効果はよくわかりませんでした。SRX600で走った日本海オロロンラインをTDM850で再体験したかったのですが叶わず、今でも残念に思っています。

時々の通勤と定番の当別町ワインディング・ロードを楽しんでいたTDM850ですが、5年目の2000年春の初ライドで、いつものカーブでいつものライン取りができない感覚を持つようになりました。走行不足と運動不足だったと思います。前年くらいから仕事が忙しくなり、家では犬(パスカルSr)と遊ぶ時間を持つのが精一杯で、オートバイに乗る機会がめっきり少なくなっていました。当分は忙しさが続く予定だったので、大事を取って、しばらくオートバイをやめることに決めました。

TDM850は乗ってもらえる友人に業者の買取価格で買ってもらいました。彼は自分で整備もやって、10年くらい乗ってくれたようです。

TDM850はヨーロッパで人気が高かったようです。ヨーロッパ仕様(型式3VD)はエンジン特性が少し違いますが、基本は同じです。YouTubeでTDM850の動画を観ていて、ぶっ飛ばしている動画が多い中、初期型で一番穏やかな走りをしているイギリスの映像を共有リンクさせてもらいました。車載カメラ(オーディオ)のテストのようです。音が出ます。

オートバイはいずれまた再開すればいいと思いつつ、年月が過ぎていきました。10年ほど経って大阪に戻ってからは混雑した道路をオートバイで走る気にならず、いつの間にかオートバイから離れて20年が過ぎてしまいました。ライダーとしての楽しみは終わったようです。

オートバイに乗っていたのはトータルで10年くらい、走行距離は延べ2万キロくらいでしょうか。幸いにも走行中の車両トラブルや事故は一度もありませんでした。もっと長くいろいろなオートバイに乗ってみたかったものの、遊びの時間は限定予算の配分ゲームみたいなもので、オートバイへの配分はこれが限界だったのでしょう。

今でもオートバイの話題はインターネット上で眺めています。クイックシフターが出てきて、とうとうホンダがDCT(Dual Clutch Transmission)を搭載した大型オートバイを出しました。現在乗っているクルマと同じ構造の自動変速機ですが、さて、オートバイでオートマを選ぶかな?と不要な悩みを持ちながら観ていました。

オートマといえば、ハーレーも電動オートバイを出してきました。電動ではギア・クラッチのみならずガソリンタンクも不要なので、ニーグリップはどうなるかと気にしていたら、ガソリンタンクそっくりの充電ポートカバーが付いています。

また、前二輪なのにリーン(傾斜)できる高機能の三輪モーターサイクルも出てきました。ヤマハのNIKEN(二剣だそうですが、ナイケン)です。ちょっと武骨な感じを受けますが、気軽にツーリングを楽しめそうです。三輪(Three-wheeler)なので、和製カタカナ英語のオートバイ=Auto-Bi(cycle)は使えなくなります。バイクかトライク(trike=tricycle)かで区別するのも面倒なので、やはりこれからはモーターサイクルと呼ぶのがよさそうですね。

時代は変わりつつありますが、モーターサイクルへの興味は続くでしょう。でも今後は映像を観るだけにして、地道に自転車を楽しむことにいたしましょう。

(完)

3. アメリカのM1免許

2021年3月2日

1990年8月、カリフォルニア州サンタバーバラでフィエスタ(スペイン祭)の警備に来ていた白バイ隊員にいろいろと話を聞いていました。

この頃のカリフォルニア州の白バイはカワサキのKZ1000Pでした。このシリーズのオートバイは日本でも放映されたテレビドラマ「CHiPs:白バイ野郎ジョン&パンチ」でお馴染みでした。もちろん彼も観ていて、交通警察官になったのはその影響もあったと笑って言っていました。

アメリカでの長期滞在では中古車を買うため(保険に入るため)に自動車免許を取らなければなりません。10年前と同様に自動車免許をすぐに取得して、ホンダ・シビック・シャトルを購入して乗っていました。

翌1991年3月、仕事が一段落して1週間ほど休めることになり、オートバイの免許を取っておこうと思い立ちました。アメリカでオートバイに乗る予定はなかったのですが、好奇心と後学のためです。オートバイ免許には2種類しかなく、クラスM2が150ccまでのモペッドやスクーターなど、クラスM1が日本の大型自動二輪免許に該当しますので、M1を受けます。

近所にあるDMV(Department of Motor Vehicles:自動車の登録と免許を扱う役所)に行って、自動車免許と社会保障番号(Social Security Number)を見せて申請し、その場で簡単なペーパーテストを受けて合格したらオートバイの仮免許をもらえます。これで路上運転練習(夜と高速道路はダメ)して技能(実技)試験を受けることができます。国際免許でも可能だと思います。技能試験は予約制です。

自動車免許と同様に、オートバイ免許でも技能試験を受けるためには自分でバイクを用意しなければなりません。レンタルバイク店を探しましたが見つからず、住んでいたゴレタ(Goleta:サンタバーバラの隣町)にあったゴレタ・ホンダ(ホンダオートバイ専門店)を訪ねて、店主のおじさんにM1免許取得のためにバイクをレンタルさせてもらえないか、と尋ねてみました。すると、レンタルはしてないけど、スクーター(ホンダのフリーウェイ 250cc)を無料で貸してあげるよ、とびっくりするような返事をいただきました。技能試験にはヘルメットも必要だから貸してあげるとのことでした。

ご好意に甘えて、ヘルメットとフリーウェイ 250を4日ほどお借りしました。

アパートの駐車場でシビックの前に駐輪した後ろ姿です。ホンダが並びました。

これで技能試験を受けることができます。自動車の技能試験は一般道路上で試験官が同乗して行われますが、オートバイの技能試験はもっと簡易です。カリフォルニア州ではDMVの一角に、円と直線が描かれたオートバイ技能試験用コースが設置されています。

下調べのときの写真です。オートバイ技能試験コースの上に駐車しています。試験をしていない時間は自由に立ち入りできて、試験(受験者)は少ないので、ほとんど空いています。シビックの後方にあるのがDMVの建物です。

DMV発行の冊子に載っているコース図の模写です。二重直線の間隔は1フット(=30cm)、二重円(同心円)の間隔は2フィート(=60cm)、円の外側の直径は24フィート(=7.3m)です。2つの二重直線の間にある丸はコーン置き場です。

技能試験では最初にオートバイのスイッチ類(エンジンの始動・停止や灯火・ホーン)の機能(知っているかどうか程度の)チェックがあり、それから走行します。2つの二重直線の中央に立てた5本のコーンの間をスラロームしてから二重円の線内を2周してスラロームで戻ってくるのを左右1回ずつ、一方の二重直線の線内からスタートして二重円の線内を2周して別の二重直線に戻ってくるのを左右1回ずつ、以上だけです。どれをするかはその場で指示されます。何も免許を持っていない場合は観察テストというのが加わって、試験官が見える範囲で、一旦停止などのあるDMVの敷地内外を周回させられます。

前輪が二重線をはみ出す、足を着く、コーンを動かす、観察テストで一旦停止ルールを守らない、などで失格になります。失敗しても、一回の試験費用(30ドルほど)で日を変えて3回受験できます。それでもダメならまた試験費用を払うことになります。

簡単なコースなのですが、お借りしたスクーターは無段変速でクラッチが無く、ニーグリップもできないので、正確に円を回るのはけっこうむずかしく思いました。スーパーカブに乗っていた頃なら簡単だったかもしれません。試験前日にコースで30分くらい練習したら、まあ問題なく回ることができました。

技能試験の動画はYouTubeにいろいろとアップされていますので、短いものを共有リンクさせてもらいました。この動画はカリフォルニア州の走行試験の一部だけですが、なかなかカジュアルな雰囲気の試験官で、楽しそうです。音が出ます。

技能試験の方法は州によって異なります。かつて住んでいたマサチューセッツ州のテスト風景(共有リンクしたYouTube動画)を観ると驚きます。基本は同じようですが、内容はずっと大まかだし、場所はショッピングモールの駐車場で、固定のコースではありません。駐車場内の一般車両や通行人が通る場所です。それに受験者のバイクがハイ・ハンドルというのも大したものです。各州の独立性とアメリカ合衆国のおおらかさを感じます。これも音が出ます。

何とか、1回で合格しました。DMV事務所でM1免許を取得したという紙を免許証の裏にホチキスで止めてくれました。

ホチ止めの証明書は有効2カ月なので、その間に免許証を作り直してもらいます。その後の免許証には普通自動車Cと合わせて「CLASS: CM1」と記載されるようになりました。免許証の上の部分だけの写真です。

すぐにゴレタ・ホンダまでワインを持参して無事に合格できた報告とお礼に行きました。記念撮影です。大感謝です。残念ながら、この店は現在はなくなっているようです。

この時にしていたベルトとバックルが今回のレザークラフト入門の素材でした。

「4. TDM850」へ続く

2. CD50とSRX600

2021年3月2日

1980年に札幌に移りました。オートバイには乗っていませんが、好みのオートバイを見かけると近寄ってしまいます。これは1982年、アメリカ滞在中に撮ったスナップです。ボストンPDの白バイで、ハーレーのロードキング(Harley-Davidson Road King)ですね。

1987年、北海道の道路は二輪で走ると楽しそうで、そろそろオートバイを、という気分になっていました。雪解け時期に立ち寄った小さなバイクショップで古いビジネス用オートバイ(ホンダのベンリィ CD50)がありました。古いけど手入れが行き届いていたので、これは売り物ですか、と聞いたら、店主のおじさんが、自分が使っているのだけど、売ってもいいよ、という返事で、昔にスーパーカブを売った値段より安かったので衝動買いしてしまいました。二輪車操縦の基礎を練習しておきたかったのです。

20年ぶりの原チャリ(第一種原動機付自転車)ですが、スーパーカブと違ってCD50にはクラッチがあり、ガソリンタンクも前にあります。クラッチの操作とニーグリップ(ガソリンタンクを膝で挟む)というオートバイの基本を練習できます。スーパーカブと同様にパワーはありませんが、それがかえって気楽なので、解説書を読みながらいろいろな乗り方を練習しました。

自宅が新規宅地造成地にあり、造成区域内には舗装道路があっても住宅のないブロックが多く残っていて、見晴らしが良く、オートバイの練習にはぴったりでした。

CD50を1年(北海道では4月から10月まで)乗り回して慣れると、大きいサイズのオートバイが欲しくなってきます。まあ、大きいサイズに乗りたいから練習したのですけど。翌年の春にいくつか中古バイクショップに入ってみました。

一目で気に入ったのが1年落ちのヤマハSRX600(1985年登場の初期型1JK、車体のロゴ表記はSRX6)でした。単気筒でキックスターターはこれまでの原チャリと同じですが、10倍以上の排気量で、前後とも油圧ディスク・ブレーキ(前はダブル)です。

1988年、CD50(右)は若い後輩に譲ることになって、お別れの日です。SRX600のサイズはCD50より一回り大きいくらいです。

通勤するようになりました。職場で着替えます。

608ccの空冷4バルブOHC単気筒エンジンは独特の音と振動があり、加速も原チャリとは比べものになりません。軽量で取り回しも良く、オートバイに乗っている楽しみを存分に味わうことができました。軽量といっても、車重はCD50の2倍(170kg)あるので、最初の1週間だけですが、数回、車体を支えきれない立ちごけ(エンジン停止中の不注意による転倒)はありました。

この頃に使っていたベルトをレザークラフト入門で取り出してきました。自作スマホホルスターと相性はとても良さそうです。

休日には、自宅からアクセスしやすい石狩川河口へ、国道231号に乗って浜益から山に入り、当別町の山林地帯のワインディング・ロード(現在の道道28号の旧道)を走って、山奥に見つけた喫茶店でコーヒーを飲んで帰るという、150kmほどで4時間程度のコースを定番にしていました。

遠出は一度だけ、夏のある日の午後、「利尻島に沈む夕陽を見たい」と唐突に思い立ち、石狩湾から日本海沿いでサロベツ原野(稚咲内)まで走りました。今は「日本海オロロンライン」と名付けられています。自宅から約270km、5時間ほどのルートです。日差しが強く、薄いジャンパーで爽やかな風を楽しめました。

海岸線を走る国道231-留萌-239-232-天塩町-道道106号線は自動車の往来や信号が少なく、ゆるい起伏やカーブが多く、留萌からは草原のワインディング・ロードの印象です。定番コースの山林地帯と違って見晴らしが良く、長い直線区間では速度に注意しつつも、利尻島に沈む夕陽に間に合いました。でも、カメラを持ってくるのを忘れました。

しばらく夕陽を眺めていましたが、北海道の夏は日の入りが遅く、午後7時を過ぎます。そして、日が沈むと急速に気温が下がってきます。夜にネイキッドのオートバイで30分ほど走ると、薄いジャンパーだけでは寒さで身体がガタガタ震えてきました。耐えられずに、途中の小さな町で雑貨店を見つけて農作業用のビニール合羽上下を買って何とかしのぎました。

寒さに加えて、真っ暗なカントリー・ロードでは、ヘッドライトめがけて大量の羽虫が飛んできます。ヘルメットのシールドスクリーンに当たって前が見えなくなり、何度も停まって拭く必要がありました。留萌からは内陸に入り、疲れ切って帰宅できたのは深夜12時を回った頃でした。

一般道540kmを休憩・食事も含めて12時間ほどで走ることができる北海道でのツーリングは昼間はとても快適ですが、夜の寒さや虫への対策が必要だと身に沁みてわかりました。あるいは、日暮れ前に帰宅することです。

1990年夏から再びアメリカに長期滞在することになり、2年ちょっとしか乗っていませんが、いったんSRX600を手放すことに決めて、バイク好きの学生さんに譲りました。

アメリカでSRXを見かけたことはありませんが、サンフランシスコ近郊で1986年式のSRX600を最近まで乗っていたという動画がYouTubeにアップされていたので、共有リンクさせてもらいました。金門橋が見える夕陽の道です。日本海オロロンラインを思い出しました。音が出ます。

「3. アメリカのM1免許」に続く

1. スーパーカブ C105

2021年3月1日

レザークラフト入門実習で古いベルトやバックルを触っていたら、オートバイに乗っていた頃を思い出しました。オートバイが好きで、ポツダム免許をもらって楽しんだというだけの話ですが、思い出話は長くなるので、4回ほどに分けます。

オートバイに興味を持ち始めたのは小学生時代です。父が大阪・周防町(現在はアメリカ村)の店でオートバイを使っていて、そのメカニカルな構造が見えるのが好きで、遊びに行くたびにまたがって、早く運転してみたいと思っていました。

この写真(1960年頃)に写っているオートバイを調べてみると、山口自転車のビジネス用オートバイ「ヤマグチ スペシャルスーパー330(120cc)」のようです。右手前のスクーターはシルバーピジョンですね。左手前の自転車の後輪に排気管が見えています。これはタイヤを回す小さなエンジンが付けられたモーターバイク(モペット)で、牛乳配達などによく使われていました。向かいの事務所の前にもオートバイがあります。

戦前からあった大型オートバイの陸王やメグロ(目黒製作所→カワサキ)などは高価で、商品配達の用途には適さなかったようです。戦中まで航空機などの製造に携わった会社が戦後の生き残りのために手がけたのがオートバイだったそうで、川西飛行機のポインターから三菱のシルバーピジョン、中島飛行機のラビットなどが加わり、一時期は日本の二輪車メーカーが乱立(120~150社くらい)していたようですが、その後に世界レベルで残ったのは現在の4社だけでした。

中学生の頃、おやつのチキンラーメンを食べながら観ていた「テレビ名画座」でジャン・コクトーの映画「オルフェ(Orphée, 1950)」をやっていました。ストーリーはよくわからないまま、死神の助手を務めていた2人のオートバイ・ライダーの姿に魅せられました。

今はYouTubeにオートバイが出てくるシーンがアップされているので、共有リンクさせてもらいました。音が出ます。

THE VINTAGENT によると、2台のオートバイはインディアン(アメリカのオートバイ・メーカー:Indian Motocycle)の1937年のChiefと1940年のSport Scoutだそうですが、違いはなかなかわかりません。どちらも変速は右手のマニュアル(クラッチは左足)で、自動車と同じですね。

日本でも2人のように振動から脊椎や内臓を守る幅広のキドニーベルト(Kidney belt)を付けて乗っているライダーがいました。今はオフロードくらいでしょうが、当時は未舗装の道路が多く、エンジン振動も大きくて、上下動がひどかったのでしょう。高校1年のクラス担任の先生がそんな姿でメグロのZ7に乗って通勤していて、ヘルメットは飛行機乗りのような革製でゴーグルが付いていました。ずっと後にアニメ映画「紅の豚」を観て、失礼ながらそっくりでした(太さではなく雰囲気が、です)。

16歳になった高校1年修了後の春休みに軽自動車運転免許を取りに行かせてもらいました。軽自動車免許で軽四輪のみならず、250cc以下のオートバイに乗ることができたからです。

その頃の自動車学校は2週間ほどの連日講習で、10人ほどのクラス単位になっていました。現在の合宿制みたいです。毎日顔を合わせるので、みんな仲良くなり、教習内容を教え合っていました。運転練習車は初代マツダ・キャロルでした。技能試験は免除で、学科試験は京阪・古川橋までみんな一緒に受けに行きました。全員が合格して、自動車学校近くの大鳥大社で一緒にお祓いを受けたことを覚えています。

免許取得までの日程が高校2年次の授業開始に少し食い込んだので、新しいクラス担任に免許取得のために数日欠席すると伝えて叱られましたが、待望のオートバイ通学を実現することができました。当時は通学に自転車でもオートバイでもかまわなかったというおおらかな時代でした。

免許を得て最初の愛車となったのは現在も生産・販売が続いているホンダのスーパーカブ55(Super Cub 55)でした。1958年発売の初代C100(50cc)をボアアップ(排気量を増加)したC105(54cc)で、OHVエンジン最後のモデルだったと思います。50ccを超えるので第二種原動機付自転車の枠になり、後輪のフェンダー(泥よけ)に白い三角形マークが入って、二人乗りができます。

近所を走っている写真です。国道・府道以外はほとんどが未舗装でした。

スーパーカブはスクーターに近い構造です。ガソリンタンクは座席の下にあり、ホンダが開発した自慢の自動遠心クラッチが付き、左グリップにクラッチレバーはありません。変速(3速)は右グリップのスロットル(アクセル)を戻して左足でギアチェンジペダルを踏みます。左手の操作が無いので、出前で岡持ちを運べますという広告がありました。半世紀以上前ですが、そのゆっくりした加速の感触と音を今でも覚えています。

風防を取り付けてもらっています。まだヘルメット着用の義務や慣習はなく、しばらくは学帽で、その後はお椀型ヘルメットを被っていました。遠出することはなかった高校生活でした。

大学生になってから乗る機会が少なくなったスーパーカブは3年くらいで売却しました。その頃、軽自動車免許が廃止されることになり、1968年までの特例措置として、自動車教習所で何時間かの学科講習を受けると普通自動車免許に変更できることになりました。近所の教習所の夜間特別クラスに通って手に入れた普通自動車免許証を見ると、軽の免許取得日で排気量制限無しの自動二輪免許も付いていて、ラッキー!という気分でした。

この措置で得た自動二輪免許はポツダム免許(ポツダム宣言受諾後の1945年8月15日以降に実績なく士官に進級させてポツダム少尉と呼ばれた例から)と呼ばれました。1965年に決まった免許区分変更によるもので、軽自動車免許保持者は追加講習によって普通自動車免許に変更、また、普通・大型自動車免許保持者は自動二輪免許を受けたとみなされる、という話です。この措置を受ける最後の年齢だったようで、これが20年後に役に立ちました。

「2. CD50とSRX600」へ続く