マッチが出てきました

物置に詰め込んだ模型の箱を整理していたら、いろいろなところでもらったマッチを入れたケースが出てきました。

昔、マッチを集めていましたが、ずっと大きなケースに入れていて、札幌で廃棄した覚えがあります。でも、小さなケースだけを残したようで、古いものも少し入っていました。

このマッチが残っていたのは嬉しいですね。一番古いコレクションかもしれません。大阪・周防町(すおうまち)の心斎橋筋にあった「BC」という喫茶店(コーヒー・ルーム)のマッチです。

表です。

父がやっていた店が周防町(今のアメリカ村の真ん中あたり)にあったので、小学生の頃からよく入っていました。心斎橋筋のアーケード屋根が付けられた頃でしょうか。大丸・そごうで遊んだり、長堀川が埋め立てられる前の四ツ橋の電気科学館に行ったりした後に寄るのが常でした。店は2階にあって、心斎橋筋の入口から階段を上ると、内装はシックなチョコレート色の記憶です。

心斎橋筋を見下ろせる窓際に座って、上から人通りを眺めながら、ジュースかミルクセーキを飲んでいました。中学・高校時代はあまり行く機会がなく、大学に入ってからコーヒーの味を覚えて、かなりの頻度で行くようになり、小学生の頃と同じ場所に座って、いつも読書で長居するようになりました。コーヒーはネルによるドリップ式だったと思います。マッチをもらったのは大学生になってからでしょう。

店主のおばさまは宝塚に住んでいて、通勤されていました。父とは親しかったようですが、詳しいことは聞いていません。ご主人が画家で、このマッチの絵もご主人が描いたようです。文字は「B.C」となっていて、絵のイニシャルは「K・I」となっています。子供心にも、喫茶店を趣味で経営なさっているような優雅な雰囲気を感じていました。BCという店名の由来を聞いておけばよかった。The Best Coffeeあたりでしょうか。1970年頃だったか、そろそろやめようかなと思ってる、とおっしゃっていましたが、閉店がいつだったかは記憶にありません。そのあたりの心斎橋筋商店街を写した1980年代初頭の写真を見たことがありますが、BCの看板は見あたりませんでした。

次は、学生時代、ビストロと間違えて入ったバー「フランス屋(仏蘭西屋)」のマッチです。たった一回訪ねただけなのに、記憶は鮮明です。1960年代の終わり頃、フランス文学を専攻していた友人と、可愛い店構えのフランス料理店があるから行ってみようと勇んで入ったら、それは1920年創業の高級バー(クラブ?)でした。

このマッチも表は縦ですが、よくわからないデザインです。かなり色褪せています。

難波に近い御堂筋に面して、フランス国旗の三色の看板が出ていたような記憶です。新歌舞伎座の向かいあたりでしょうか。学生の二人にはフランス料理店としか思えませんでした。ドアを開けたら、数人が座る程度の短いカウンターがあり、壁にボトルが並んでいて、誰もいません。カウンターの先はカーテンで仕切られていて、その先にダイニングルームがあるのだろうと思いました。

しばらくして、カーテンの向こうからドレス姿の若い女性が出てきて、「はい?」と尋ねられました。食事をしたいと伝えると、怪訝そうな顔で、ちょっとお待ちくださいと言って、またカーテンの向こうに戻ったら、次はマダムが一緒に出てきて「うちはレストランではなく、バーですけど」と言われました。

われわれは顔を見合わせてから、うーん、どうしよう、と言いながらも、それじゃ、一杯だけ飲んで帰りたい、と伝えたら、マダムと若い女性(ホステス)は笑いながら、どうぞどうぞ、ということになりました。カウンターでホステスも横に座って、何かを一杯だけ頼んで、1時間くらい、おしゃべりを楽しんで帰りました。当時のフランス文学、映画、音楽について、なかなか高級な会話になっていた記憶があります。お勘定は格安にしてもらったようです。その後に行く機会はないままで、カーテンの向こうはどんなスペースだったのかを知ることはなく、いつか店はなくなっていました。

次は国鉄関連です。
1972年頃の青函連絡船「羊蹄丸」の食堂です。

連絡船に乗るのは深夜便が多かったので、たまにしか食堂に入った記憶はありません。

次は、0系新幹線「ひかり」の食堂車(日本食堂の運営)です。超特急ひかり、特急こだま、と呼ばれていましたね。ひかりに食堂車が配置されたのは1974年だそうなので、その後の数年以内です。東京での学会からの帰り、指定席を買っていましたが、仲間と一緒になって食堂車に座り込み、宴会みたいに飲食とおしゃべりを楽しんでいたら、間もなく京都、ということになりました。食堂車にとっては迷惑だったでしょうね。

この時代、大学にもマッチがありました。
上智会館でもらいました。

京都大学にもありました。

ハーバード大学生協です。アメリカのマッチはほとんどがこの形態でした。

最後は、アメリカのアマチュア無線連盟本部(ARRL コネティカット州 Newington)にある無線局W1AWでもらったマッチです。3色ありました。

マッチは無料のお土産・記念品というつもりで集めていましたが、けっこう記憶が結びついていました。

1982 N1CKL

N1CKLとは、アメリカでもらったアマチュア無線局のコールサインです。

ボストンの隣町ケンブリッジには一年ちょっとの滞在でしたが、当時の趣味であったアマチュア無線まで楽しめたのは幸運でした。
アメリカのアマチュア無線の状況に興味があったので、1982年9月8日にボストンで試験を受けました。General Classという中間レベルの資格です。日本での免許も2級アマチュア無線技士という中間レベルなので、順当なところです。

当時のメモを見ると、9:45 試験室入室、9:55 コード・テスト(モールス聴き取り)、10:15 答案提出、その場で採点してもらって合格すれば次へ、10:20 選択式テスト(70問)、11:45 答案提出、その場で採点してもらって合否判定で終了、となっています。同じ試験を受けたのは13人でした。

下は採点結果が付いた応募用紙のコピーですが、普通はもらえないものです。これは9月23日に届いたFCC(連邦通信委員会)からの封筒に入っていて、届いたときは免許証が早く着いたと喜びましたが、当日の記入漏れがあったので、チェックを入れて返送するように、とのことでした。こういうことをしてくれるのは、さすがアメリカのおおらかさと感心しました。ともかく、いい機会だったので、コピーしておきました。

FCC exam

上の記入漏れ・返送があって遅れましたが、免許証は10月20日に届き、コールサインはN1CKLとなりました。アメリカの無線局コールサインは頭文字がW、K、N、A(Aは一部)となるのですが、慣れ親しんでいたWもKもGeneral Class (国の頭文字1文字+地域の数字+3文字)は品切れだったようです。でも、みなさんにNickel(ニックル)と読んでもらって、覚えやすく、気に入っていました。ニックルは5セント硬貨です。

年末にはク ルマのライセンス・プレートを作ってもらいました。
アメリカでは好みの文字・数字をプレート(Vanity Plate:見栄のプレート)にできますが、けっこう高い料金が毎年かかります。その点、アマチュア無線局のプレート(Ham Plate)は年間10ドルで、2枚もらえます。日本とは違って、車種の違いはないので気楽です。

プレートを取り付けた愛車のポンコツ、マーキュリー・モナーク’75です。しょっちゅう修理工場に持って行きましたが、ガソリンが安かったので、何とか、だましだまし、カナダ往復や大陸片道横断を含めて、13カ月で1万5千マイル(2万4千キロ)くらい走ってくれました。

1983 04 074

1983年6月、帰国旅行間近になって、W1AF局内でARRL(アメリカ無線連盟)が実施しているモールス聴き取りテストを受けて、20 WPM(Words Per Minute)の認定証をもらいました。これは一斉に無線放送されるコードを受信して回答を送るだけの簡易テストです。W1AFメンバーでは最低レベルですが、記念になりました。左下の20と書かれた部分はシールで、10~35WPMがあり、追加で認定されるとシールを横に貼っていくようになっています。

1983年7月1日、ケンブリッジを離れて、サンフランシスコまでの大陸片道横断ドライブの初日、南下して、コネティカット州ニューウィントンにあるARRLの本部に寄りました。ボストンから2時間ほどです。時間があれば、ARRLの無線局W1AWを運用できるのですが、帰りのない旅の始まりなので、あきらめました。
私の局名を聞いて、ARRL会員名簿を出してきてくれました。日本の局名と併記されていました。

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出発の前に、W1AW局の建物と並んで、N1CKL号の記念写真を撮りました。

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帰国時には、このクルマをサンフランシスコで廃車し、プレートは廃止手続きをして、持ち帰りました。

ham_plate

アメリカのコールサインは、5年ごとの更新をしないと失効し、すぐに別の人に与えられます。帰国後も友人の住所でしばらく更新していましたが、自宅の引っ越しが続いたのをきっかけに無線をやめてしまいましたので、N1CKLも15年後には別の人のものとなりました。でも、その人はすぐに上位の資格を取得して、コールサインが変わったようです。アメリカでは資格に応じてコールサインの文字構成が変わるので、こういうことはよくあります。今はまた別の人がN1CKLとなっています。