1. スーパーカブ C105

2021年3月1日

レザークラフト入門実習で古いベルトやバックルを触っていたら、オートバイに乗っていた頃を思い出しました。オートバイが好きで、ポツダム免許をもらって楽しんだというだけの話ですが、思い出話は長くなるので、4回ほどに分けます。

オートバイに興味を持ち始めたのは小学生時代です。父が大阪・周防町(現在はアメリカ村)の店でオートバイを使っていて、そのメカニカルな構造が見えるのが好きで、遊びに行くたびにまたがって、早く運転してみたいと思っていました。

この写真(1960年頃)に写っているオートバイを調べてみると、山口自転車のビジネス用オートバイ「ヤマグチ スペシャルスーパー330(120cc)」のようです。右手前のスクーターはシルバーピジョンですね。左手前の自転車の後輪に排気管が見えています。これはタイヤを回す小さなエンジンが付けられたモーターバイク(モペット)で、牛乳配達などによく使われていました。向かいの事務所の前にもオートバイがあります。

戦前からあった大型オートバイの陸王やメグロ(目黒製作所→カワサキ)などは高価で、商品配達の用途には適さなかったようです。戦中まで航空機などの製造に携わった会社が戦後の生き残りのために手がけたのがオートバイだったそうで、川西飛行機のポインターから三菱のシルバーピジョン、中島飛行機のラビットなどが加わり、一時期は日本の二輪車メーカーが乱立(120~150社くらい)していたようですが、その後に世界レベルで残ったのは現在の4社だけでした。

中学生の頃、おやつのチキンラーメンを食べながら観ていた「テレビ名画座」でジャン・コクトーの映画「オルフェ(Orphée, 1950)」をやっていました。ストーリーはよくわからないまま、死神の助手を務めていた2人のオートバイ・ライダーの姿に魅せられました。

今はYouTubeにオートバイが出てくるシーンがアップされているので、共有リンクさせてもらいました。音が出ます。

THE VINTAGENT によると、2台のオートバイはインディアン(アメリカのオートバイ・メーカー:Indian Motocycle)の1937年のChiefと1940年のSport Scoutだそうですが、違いはなかなかわかりません。どちらも変速は右手のマニュアル(クラッチは左足)で、自動車と同じですね。

日本でも2人のように振動から脊椎や内臓を守る幅広のキドニーベルト(Kidney belt)を付けて乗っているライダーがいました。今はオフロードくらいでしょうが、当時は未舗装の道路が多く、エンジン振動も大きくて、上下動がひどかったのでしょう。高校1年のクラス担任の先生がそんな姿でメグロのZ7に乗って通勤していて、ヘルメットは飛行機乗りのような革製でゴーグルが付いていました。ずっと後にアニメ映画「紅の豚」を観て、失礼ながらそっくりでした(太さではなく雰囲気が、です)。

16歳になった高校1年修了後の春休みに軽自動車運転免許を取りに行かせてもらいました。軽自動車免許で軽四輪のみならず、250cc以下のオートバイに乗ることができたからです。

その頃の自動車学校は2週間ほどの連日講習で、10人ほどのクラス単位になっていました。現在の合宿制みたいです。毎日顔を合わせるので、みんな仲良くなり、教習内容を教え合っていました。運転練習車は初代マツダ・キャロルでした。技能試験は免除で、学科試験は京阪・古川橋までみんな一緒に受けに行きました。全員が合格して、自動車学校近くの大鳥大社で一緒にお祓いを受けたことを覚えています。

免許取得までの日程が高校2年次の授業開始に少し食い込んだので、新しいクラス担任に免許取得のために数日欠席すると伝えて叱られましたが、待望のオートバイ通学を実現することができました。当時は通学に自転車でもオートバイでもかまわなかったというおおらかな時代でした。

免許を得て最初の愛車となったのは現在も生産・販売が続いているホンダのスーパーカブ55(Super Cub 55)でした。1958年発売の初代C100(50cc)をボアアップ(排気量を増加)したC105(54cc)で、OHVエンジン最後のモデルだったと思います。50ccを超えるので第二種原動機付自転車の枠になり、後輪のフェンダー(泥よけ)に白い三角形マークが入って、二人乗りができます。

近所を走っている写真です。国道・府道以外はほとんどが未舗装でした。

スーパーカブはスクーターに近い構造です。ガソリンタンクは座席の下にあり、ホンダが開発した自慢の自動遠心クラッチが付き、左グリップにクラッチレバーはありません。変速(3速)は右グリップのスロットル(アクセル)を戻して左足でギアチェンジペダルを踏みます。左手の操作が無いので、出前で岡持ちを運べますという広告がありました。半世紀以上前ですが、そのゆっくりした加速の感触と音を今でも覚えています。

風防を取り付けてもらっています。まだヘルメット着用の義務や慣習はなく、しばらくは学帽で、その後はお椀型ヘルメットを被っていました。遠出することはなかった高校生活でした。

大学生になってから乗る機会が少なくなったスーパーカブは3年くらいで売却しました。その頃、軽自動車免許が廃止されることになり、1968年までの特例措置として、自動車教習所で何時間かの学科講習を受けると普通自動車免許に変更できることになりました。近所の教習所の夜間特別クラスに通って手に入れた普通自動車免許証を見ると、軽の免許取得日で排気量制限無しの自動二輪免許も付いていて、ラッキー!という気分でした。

この措置で得た自動二輪免許はポツダム免許(ポツダム宣言受諾後の1945年8月15日以降に実績なく士官に進級させてポツダム少尉と呼ばれた例から)と呼ばれました。1965年に決まった免許区分変更によるもので、軽自動車免許保持者は追加講習によって普通自動車免許に変更、また、普通・大型自動車免許保持者は自動二輪免許を受けたとみなされる、という話です。この措置を受ける最後の年齢だったようで、これが20年後に役に立ちました。

「2. CD50とSRX600」へ続く