1991 PA0GO訪問

1991年のオランダ滞在中に、友人の奥様の叔父様がオランダのアマチュア無線家として著名な方だと知りました。アーネム(Arnhem)にお住まいのヘリット・ヴェッヘラール(Gerrit Weggelaar)氏で、コールサインはPA0GOです。

5月と8月にお宅を訪問させてもらいました。奥様のティニさんと並んだ写真です。平屋のきれいな建物の裏に大きなアンテナが立っています。

ヘリットさんは1919年生まれですから、お会いした時は72歳でした。とてもお元気で溌剌としたオランダ紳士でした。

5月にいただいたアイボール・ミーティング(実際に会った)カードです。

当時は月面反射での無線通信の実験をやっているとのことで、自作のヘリカルアンテナが置かれていました。

彼の無線機(特に送信機)はほとんどが手作りでした。受信機はRACALという英国製で、初めて見ましたが、操作は慣れないと難しそうです。

ヘリットさんにフローニンゲンのアマチュア無線家を紹介していただいたら、その方が無線機とアンテナを貸してあげると言われて、アパートにアンテナを置かしてもらいました。

部屋には短波用の送受信機を置きました。

いろいろとトライしてみましたが、オランダ国内のみとの交信だけでした。でも、とても楽しい経験になりました。

8月、帰国直前にご挨拶を兼ねてPA0GOを再訪したときのビデオが残っています。アンテナをアメリカに向けて交信してもらいました。音が出ます。

数年前、ヘリットさんが2009年にサイレント・キー(無線家が亡くなること)になられたことを知りました。彼の無線機器はアーネムにあるオランダ野外博物館(The Nederlands Openluchtmuseum)に遺贈されたそうです。

1990 W1AF 再訪

1990年12月30日、久しぶりにケンブリッジに行く機会があり、W1AFを再訪しました。

顧問を続けているビル氏に案内してもらいました。建物も変わり、アンテナも立派なものになっていました。
(これは2日後、1991年1月1日に撮影した外観です)

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建物は以前のほうが趣がありましたが、無線室に入ると、豪華な部屋で驚きました。

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入口からパノラマ風に撮ってみました。

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並んでいるのは、もはや、古いコリンズではなく、新しい機器ばかりです。メインは日本製のicomです。コンピュータはATARIからIBMに変わっています。椅子も長時間の運用に適した座り心地のいいものです。奥には、すっきりとした工作用テーブルもありました。もう、1982-83年ころの雰囲気はありません。

数年前に、以前の建物から追い出されたものの、改めて部屋を確保し、卒業生から機材を寄付してもらったそうです。その後は部員も増え、活発な活動を続けていると、ビルから説明を受けました。

新しいW1AFのQSLカード(交信証)です。

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このカードの下のほうに書かれているUS1Aというのは、この年の5月に、レニングラード(現サンクトペテルブルク)へ遠征して、ソ連の無線局とジョイントで交信したときのスペシャル・コールサインです。
そのときのQSLカードです。

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こんなステッカーもありました。

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すごい事業をやったものです。Uから始まるコールサインはソ連の無線局ですが、特別にもらったそうです。

以前に滞在していた1982-83年には、ソ連からの若手研究者が招待留学で来ていて、オフィスを彼と共有していました。彼を近郊への家族ドライブに誘ったとき、ケンブリッジ市内を離れる場合は事前にソ連大使館に許可を得なければならないと言っていました。当時は、アメリカとソ連はまだまだ厳しい関係にあると感じていましたが、世界は動いていますね。

W1AFのホームページです。現在の活動や歴史などが詳しく紹介されています。今も同じ部屋のようですが、コンピュータの大型ディスプレイが並んでいて、昔の無線室らしさはなくなっています。これも時代ですね。

1982 W1AF

W1AFというのは、ハーバード大学無線クラブ(Harvard Wireless Club)のコールサインです。1909年に開局した、世界で一番古いアマチュア無線のクラブ局の話です。

別ページに書きましたが、アメリカのアマチュア無線免許はとったものの、無線機を持つ機会はなく、運用はあきらめていました。
1982年のThe Gameの前後あたりだと思いますが、気粉れから、ハーバード大学の電話交換手に、無線クラブはあるだろうかと問い合わせてみました。すると、クラブに登録している学生の電話番号はこれこれという返事が返ってきたのは驚きでした。さっそく連絡して、無線局を訪ねました。

半年ほど通った無線局の建物です。写真の真ん中にあるレンガの三階建てで、屋根の上にアンテナが載っています。となりの建物より低く、あまり条件はよくありません。手前右下には、シャツで有名なJ.PRESSの店のテントが一部写っています。

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無線局の部屋には、古いですが、有名な無線機(Collins)が並んでいます。

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机の下には、1.5KWの送信ブースターがあります。
その横にはATARI 400(当時の家庭用コンピュータ)が置かれており、流行していたゲーム「パックマン」を遊べます。けっこう、はまりました。無線をせずに、パックマンを遊びに来るだけの学生もいます。

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パックマンを遊んでいる横で交信が始まると、画面がゴーストになってしまいます。近所にテレビがあれば、何も写らなくなると思いますが、これまで文句が来たことはないそうです。たぶん、ケーブル・テレビだったのでしょう。
ATARIといえば、こんなコピーがありました。「通勤するより家でコンピュータがいい」というのは、今は当たり前ですね。

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当時のQSLカード(交信証カード)です。この原稿を書くときに取り出して撮影したものです。もう少し鮮やかな赤だったような気がしますが、定かではありません。

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こういう文化財もありました。1925年フランスの無線局との交信証で、Wが入っていません。カードを貼りつけた紙に書いてある解説には、その前の実験局で1XJというコールサインを使ったようですが、それは残っていないとあります。

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この交信証は相手から交信証をもらってから送ったもののようで、フランスで会えるだろうか、というフランス語のメッセージが書かれています。その後に、フランスで会った相手からもらったのでしょうか。

これだけの由緒あるクラブ局ですが、衰退気味で、部員は数人しかおらず、栄光は壁にかかった賞状のみ、という状況でした。ただ、地域の電報を転送するネットワークがあって、熱心に取り組んでいました。また、顧問が実験物理学の若い准教授だったので、少し先行きが明るくなりつつあります。
親しくなった、活動的な部員のボブは、聴覚障害を持ちながら、最上級のExtra免許保持者で、補聴器の飽和ビート音を側頭部への直接振動でとらえて、毎分200字のモールスをこなしていました。普通の会話をモールスでできるくらいの速さです。敬服のみならず、多くのアドバイスをもらって、お世話になりっぱなしでした。

このWlAF局ではヨーロッパとの交信が多かったのですが、日本との交信も何回か出来たのは忘れられない思い出となりました。日本からアメリカ東海岸との交信は、弱小無線局ではとても無理です。交信できた日本の局はいずれも大きなアンテナと大出力を使っていました。それでも音声交信は無理で、モールス音がヒューヒュルヒュルという程度にしか聞こえませんでした。

その中でとてもしっかりした信号で交信できたのはJP1BJRという日本の無線局でした。帰国後に、JP1BJRは戦前からJ2JJというコールサインで活躍されていた大河内正陽氏という著名なアマチュア無線家だと知りました。

おまけの話です。
モールスの送受信練習用に、W1AFにある工具や測定器を借りて、ヒースキット(Heathkit)のキーヤー(µMatic Keyer SA-5010)を組み立てました。このキットはよくできていて、作りがいがありました。小さなモニタースピーカー内蔵で、モールス聞き取り練習用のランダム再生モード、速度調整やメモリーも付いています。コールサインなどをメモリーに入れておけば、ボタン一つで送ることができます。もちろん、普通のパドル・キーをつなぐこともできます。

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キットに付いていた静電スイッチ方式のパドルを前に差し込んでいます。W1AFのみなさんに使ってもらって好評でした。

 

1982 N1CKL

N1CKLとは、アメリカでもらったアマチュア無線局のコールサインです。

ボストンの隣町ケンブリッジには一年ちょっとの滞在でしたが、当時の趣味であったアマチュア無線まで楽しめたのは幸運でした。
アメリカのアマチュア無線の状況に興味があったので、1982年9月8日にボストンで試験を受けました。General Classという中間レベルの資格です。日本での免許も2級アマチュア無線技士という中間レベルなので、順当なところです。

当時のメモを見ると、9:45 試験室入室、9:55 コード・テスト(モールス聴き取り)、10:15 答案提出、その場で採点してもらって合格すれば次へ、10:20 選択式テスト(70問)、11:45 答案提出、その場で採点してもらって合否判定で終了、となっています。同じ試験を受けたのは13人でした。

下は採点結果が付いた応募用紙のコピーですが、普通はもらえないものです。これは9月23日に届いたFCC(連邦通信委員会)からの封筒に入っていて、届いたときは免許証が早く着いたと喜びましたが、当日の記入漏れがあったので、チェックを入れて返送するように、とのことでした。こういうことをしてくれるのは、さすがアメリカのおおらかさと感心しました。ともかく、いい機会だったので、コピーしておきました。

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上の記入漏れ・返送があって遅れましたが、免許証は10月20日に届き、コールサインはN1CKLとなりました。アメリカの無線局コールサインは頭文字がW、K、N、A(Aは一部)となるのですが、慣れ親しんでいたWもKもGeneral Class (国の頭文字1文字+地域の数字+3文字)は品切れだったようです。でも、みなさんにNickel(ニックル)と読んでもらって、覚えやすく、気に入っていました。ニックルは5セント硬貨です。

年末にはク ルマのライセンス・プレートを作ってもらいました。
アメリカでは好みの文字・数字をプレート(Vanity Plate:見栄のプレート)にできますが、けっこう高い料金が毎年かかります。その点、アマチュア無線局のプレート(Ham Plate)は年間10ドルで、2枚もらえます。日本とは違って、車種の違いはないので気楽です。

プレートを取り付けた愛車のポンコツ、マーキュリー・モナーク’75です。しょっちゅう修理工場に持って行きましたが、ガソリンが安かったので、何とか、だましだまし、カナダ往復や大陸片道横断を含めて、13カ月で1万5千マイル(2万4千キロ)くらい走ってくれました。

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1983年6月、帰国旅行間近になって、W1AF局内でARRL(アメリカ無線連盟)が実施しているモールス聴き取りテストを受けて、20 WPM(Words Per Minute)の認定証をもらいました。これは一斉に無線放送されるコードを受信して回答を送るだけの簡易テストです。W1AFメンバーでは最低レベルですが、記念になりました。左下の20と書かれた部分はシールで、10~35WPMがあり、追加で認定されるとシールを横に貼っていくようになっています。

1983年7月1日、ケンブリッジを離れて、サンフランシスコまでの大陸片道横断ドライブの初日、南下して、コネティカット州ニューウィントンにあるARRLの本部に寄りました。ボストンから2時間ほどです。時間があれば、ARRLの無線局W1AWを運用できるのですが、帰りのない旅の始まりなので、あきらめました。
私の局名を聞いて、ARRL会員名簿を出してきてくれました。日本の局名と併記されていました。

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出発の前に、W1AW局の建物と並んで、N1CKL号の記念写真を撮りました。

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帰国時には、このクルマをサンフランシスコで廃車し、プレートは廃止手続きをして、持ち帰りました。

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アメリカのコールサインは、5年ごとの更新をしないと失効し、すぐに別の人に与えられます。帰国後も友人の住所でしばらく更新していましたが、自宅の引っ越しが続いたのをきっかけに無線をやめてしまいましたので、N1CKLも15年後には別の人のものとなりました。でも、その人はすぐに上位の資格を取得して、コールサインが変わったようです。アメリカでは資格に応じてコールサインの文字構成が変わるので、こういうことはよくあります。今はまた別の人がN1CKLとなっています。