本の自炊

これまで引っ越しをするたびに本を詰める段ボールの数が増えていました。大阪に戻るのを機会に、不要となった本や雑誌は思い切って廃棄し、そのまま残したいものを除いて、残りの本や雑誌を電子化して、PCやタブレットで読むことができるようにしました。本の自炊です。

使っているスキャナーは、FUJITSUのScanSnap S1500とEPSONのA3対応のES-7000Hです。600dpiあたりがきれいなのですが、読み込みがかなり遅くなるので、ほとんどを300dpiでスキャンしています。画集などはそれ以上にすることもありますが、とても時間がかかり、印刷本ですから精細度は大して変わりません。

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この写真では、ES-7000Hの上に余計なものが載っていますが、下の手製戸棚のふたをニスで塗った直後でした。左奥にS1500を置いています。

S1500はA4以下のサイズの書籍で、背表紙部分で裁断すれば、とても効率的にPDFファイルができあがります。裁断には丸刃を動かす裁断機を使っています。梃子式の押し切り裁断機のほうが分厚いまま切ることができますが、刃がなまってきたり、歪むことがあったので、刃を交換できる丸刃式でやっています。

先ずカッターで背表紙あたりをばらし、30~50ページくらいに切り分けます。ページの切り分けは裁断機に入る厚さです。裁断する場所は基本的に左右の余白を等しくさせますが、写真などが余白なしに入っている場合は、ぎりぎりに裁断するか、裁断なしで、手で糊を剥がすだけのこともあります。ページの端がギザギザになっても、S1500で読み込むと、まっすぐな端になります。

厚い表紙や表紙カバー、A4を超えるサイズの本や雑誌の場合、さらに、裁断したくない本の場合は、別途にES-7000HでスキャンしてJPEGファイルを作ります。裁断しないでスキャンするのは手間と時間がかかりますが、本を開いてA3に収まるなら、2ページ単位でスキャンして、そのJPEG画像を半分に切って、1ページ単位のファイルを作ります。画像切断の処理はImageDividerという無料ソフトでやっています。大型本は1ページずつのスキャンになってしまいます。

これらのファイルを合わせて1冊の本のファイルを作るときには、S1500に同梱されていたAdobe Acrobat X Standardを使っています。FUJITSUの新製品はAdobeから離れたようで、もうこのソフトは付いていないようですが、時々バージョンアップがあり、とても重宝しています。でも、今年でバージョンアップ終了になりました。

出来上がりの電子本の印象は、さすがにES-7000Hは現物に近い発色(補正はしません)ですが、S1500はかなりの色違いが出ます。でもまあ、画集などでない限り、実用にはS1500で差し支えありません。

外出時はiPadミニで、アプリはi文庫HDを使っています。一時は初期のNexus7にもi文庫HDを入れていましたが、Android版のi文庫HDは別会社が作っていたらしく、これも有料なのにとてもひどいもので、その後、消えました。このアプリに腹を立てた人は多いと思います。Nexus7は画面が小さいこととあいまって、快適ではありませんでした。

PDFファイルに電子化する場合も、適切なサイズという面はあります。文庫本は電子化に最適かもしれません。文庫本は裁断に勇気が不要ですし、iPadミニでもページの表示がかなり大きくなり、画面設定で余白を切り取れば、とても読みやすくなります。もちろん、青空文庫のように文字サイズ変更ができる電子本には及びません。逆に、大型本は画面が小さくなって、迫力がなくなります。PCで30インチ以上の画面が欲しくなります。

自炊することの一番重要なメリットだと思えるのは、Adobe Acrobat X Standardの簡易OCR機能によって、ファイル内の文字検索ができるようになることです。文字認識の精度はかなり低いのですが、索引機能としてそれなりに使えます。

OCR機能に加えて、ページの正立の歪み補正機能があり、不十分ながら、役に立ちます。これはスキャンしたページ画像が少し斜めになってしまっているときに、文字列や枠線などの角度を調べて、ページをまっすぐに補正するというもので、読むときに便利な機能です。文字だけで構成されているページはだいたいきれいになりますが、図や写真、欧文などが入っていると、横倒しや倒立などが起こります。これらはページごとに手作業で回転し直す必要がありますが、それできれいになります。

ただ、時々、斜めになってしまう場合があります。その原因はよくわかりませんが、何らかのバグ(プログラムエラー)なのでしょう。これは手作業での回転が90°単位なので訂正できません。斜めでは困るという場合は、そのページだけ画像を変更しない(非圧縮モード)という手間をかけなければなりません。全体に非圧縮モードでOCR機能だけにするのも一つの方法です。ただ、非圧縮なので、ファイルサイズは元のままで、小さくなりません。

札幌では2年ほど、年に500冊のペースで自炊しましたが、とても間に合わず、かなりの量の本を大阪に運びました。大阪でも自炊を続けて、とうとう、最後のかたまりになりました。コミックスの残り100冊ほどです。

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袋から出して並べていたら、パスカルとトコが遊びにきました。

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「じゃりン子チエ」の最初のほうや、「動物のお医者さん」、「サザエさん」はもう黄変しています。昔のコミックスは紙質が悪いことが多いので、古くなってくると、S1500で何度も重なりが起こります。そのたびにしごいてセットし直します。でも、とても古い文庫本のほうが手強くて、2~3ページずつしか読み込めなかったことがあります。自動原稿送り装置(ADF)には、紙の厚さ、摩擦、柔軟性など、複雑な要因が絡むのでしょうね。

コミックスの自炊では、白黒の絵であっても、ベタ部分に灰色を使っている場合は、白黒モードでスキャンすると、ベタ部分が汚くなったり、飛んでしまったりします。かと言って、グレーモードでスキャンすると、黄ばんだ紙が薄いグレーになってしまい、コントラストがうまく出ません。「じゃりン子チエ」はほとんど灰色ベタを使っていないので、白黒モードで驚くほどきれいな画像になりましたが、「動物のお医者さん」はグレー版と白黒版を2種類作りました。雑誌と同じ簡易製本だった「火の鳥」は特に古くて、カラー版も必要でした。このあたりは、S1500の明度調整が簡易すぎることも関係しているようです。

最近、10年以上使っていたES-7000Hは画像にスジが入るようになり、このコミックスの表紙スキャンで役目を終え、安価なA3用PX-1700Fに置き換えました。ES-7000Hより画像品質は明らかに落ちます。S1500と比べると、色味の違いはありますが、同程度と言えそうです。

これまで5年ほどで自炊した書籍は、薄いものから厚いものまで、3千冊くらいになっています。自炊した後はいつも町内会の紙回収に出していますが、このコミックスを紙袋に入れて玄関先に出しておいた時は、町内会の回収前に無くなっていました。誰が持って行ったかわかりませんが、紙袋から出したら裁断されているのを見て残念がったでしょう。まあ、表紙カバーで包んで、ページの順番はそのままにしているので、丁寧に扱えば読めますし、ヤフオクで裁断本が出ている時代なので、そういうルートもあるのかもしれません。

本が好きな人は、裁断でバラバラにして、最後は廃棄してしまうことに抵抗はあるでしょうね。もちろん、私も裁断したくない本は多く残しています。でも、稀覯本でもない限り、いずれは安い値で古本屋に売却するか、廃棄するしかないと考えると、iPadに数百冊を入れて持ち歩くことができる魅力には負けます。それに、本棚空間を有効活用できます。

自炊するかどうかは、手間+時間をかけることと、便利さ+保管不要ということとのトレードオフでしょうね。仕事をしていた頃は、学術論文のほとんどがネットで取得できていましたし、本を自炊する手間と時間が惜しいので、やる気にはなりませんでした。ただ、用語を検索できる電子辞書や電子ブックの必要性はありました。退職してから仕事のウェイトは低くなりましたが、その一方で趣味のウェイトが高くなり、本の自炊が必要不可欠な作業となっています。

現在、すべての自炊文書(OCR・PDF圧縮加工前のファイルも残しています)をNASに保管していますが、合わせて500GB以下です。家の中ではwi-fi経由で必要な本をタブレットにダウンロードできるようにしています。

最近は、自炊を前提に中古書籍を買うことが多くなりました。市販の電子本は印刷本の新刊と同じくらいの価格ですし、ファイル構造がお粗末な場合が多く、索引機能がない場合がほとんどなので、手を出していません。安い中古書籍を買って、読んでから自炊するのではなく、自炊してから読むほうが多いのです。古書が多少汚れていても、読み込んだファイルは汚れやニオイから無縁になります。

でも、時として印刷本を読んでいると落ち着く気分になるのは、長年の習慣からでしょうか、それとも、スキャン画像は印刷文字の質感がないからでしょうか。また、反射光と発光の違いでしょうか、あるいは、電子機器の持つ硬質で均一な感じとの違いでしょうか。

QNAP NAS更新?

2015年11月3日

(Summary) I tried to renew my NAS environmet from the slow QNAP TS-112 to the brand new TS-231+ that I purchased recently. However, I learned that Logitech Media Server for QNAP NAS is no longer available after QNAP has updated the firmware to the version 4.2. As the result, my favorite Squeezebox Touch can’t be used via TS-231+. After struggling for a week, I decided to keep TS-112 with firmware v4.1x in order to enjoy Squeezebox Touch until either one gets out of order. TS-231+ is surely a good choice for the NAS. Its transfer rate is incredible (5 times faster than TS-112), but the downloadable firmware is only 4.2 or later. I hope Logitech comes back to the NAS market again.

家のLANにつないでいるQNAP製のNAS(ネットワーク用の外部記憶装置)を新機種に更新しようとしたら、思いがけない手間がかかりました。これまでのヒストリーから始めます。

普段、ジャズを中心に音楽を楽しんでいます。ソースはCDがほとんどで、レコードとDVDを時々、という状況です。ライブを楽しむのが一番ですが、日常生活では気軽さが一番というレベルの楽しみ方です。

札幌にいたころは、CDの管理に、SONYから出ていた機械式CDチェンジャー(100枚から300枚入り)を合計3台使っていました。これは2001年、テコの写真をよく撮っていて、その背景に写っていたのですが、手製のラックの右側に、上から古い順番で3台のCDチェンジャーが並んでいます。

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CDがくるくる回って、まさにレコードのジュークボックスのようで、楽しいものでした。でも、CDが増えてくると、CDチェンジャーを買い足さなければなりません。そして、チェンジャーが増えてくると、曲を選ぶのが面倒になってきます。CDのジャケットだけをアーティスト名の順番にクリアファイル・ブックに入れて、CD本体を入れているCDチェンジャーの番号とCD番号を記したラベルを貼って整理していました。
曲を選ぶときは、クリアファイル・ブックを選んで、そのCDがどのCDチェンジャーの何番目に入っているかを見つけ、リモコンか本体を操作します。そのクリアファイル・ブックが20冊以上になりました。検索ができないので、アーティスト名を思い出せないときはたいへんです。チェンジャーに入りきらないCDは結局、棚に並べておくしかありません。こうなると、CDチェンジャーの利便性はなくなってしまいます。

大阪移住を決めた2010年ころ、ネットワーク・オーディオの存在を知りました。大阪ではネットワーク・オーディオにしようと考えて、引っ越しに際して、このCDチェンジャーや古いスピーカーを廃品回収に出してしまいました。

  • TS-112の購入
    2012年に大阪に移ってから、ネットワーク・オーディオ用のNASとして、定評のあるQNAP製のTS-112という家庭用の入門機を購入しました。

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TS-112は内蔵HD(ハードディスク)が1台だけです。HDはWD(ウェスタンディジタル)の赤版2TBにしました。これでCDがWAVフォーマットでも3千枚以上は入るでしょう。しかも、いくつオーディオ・システムがあっても、NASはこれ1台で十分です。壊れることを考えると少し不安ですが、別にバックアップを取っていれば問題はありません。
Twonky Serverという音楽プレイヤーが動くので、PCで再生できますが、オーディオ装置として、やはり、ネットワーク・プレイヤーが必要です。

  • DNP-720SEの購入
    大阪には2組のスピーカーを運んできて、それぞれ別の部屋に置くことになり、ネットワーク・プレイヤーも2台必要です。あまり選択肢がない状態でしたが、1台目としてDENONのDNP-720SEを買ってみました。

DNP-720SEは使い勝手が悪い、と言うか、アプリ(ソフト)がひどいから使い勝手が悪い、ということでしょうね。ハード面では、CDプレイヤーと比べて、WAVファイルからのディジタル出力品質の違いを聴き取れないので、使いやすさがキーになるのですが、DNP-720SEは不合格です。そもそもの問題は、iTunesでCDを取り込み始めたのですが、DNP-720SEがALAC(アップル・ロスレス)に対応していないため、WAVしか選択肢がなかったのです。その後のバージョンアップでFLACに対応しましたが、iTunesがFLACに対応していません。今でもDNP-720SEがメインのシステムに入っていますが、ラックに入れるサイズとしては適当なので、使い勝手のいいリーズナブルな価格のネットワーク・プレイヤーが出てくるまで使い続けるでしょう。

下の写真は現在のメインのシステムで、札幌時代の手製ラックを改造して入れています。札幌でも大阪でも、スピーカー以外のシステム一式は納戸の中に収納しています。
ラックの上にレコードプレイヤーを載せて、ラックの一番上の棚には、上がBDプレイヤー、下がDNP-720SEという二段重ねをしています。よく似ているので、よく間違います。その下の棚にはD/Aコンバータ(McAUDIの古いMD-1300 Mark-II)を入れています。McIntoshの非真空管プリメイン・アンプ(MA6500)とスピーカー(B&WのCDM9NT)は札幌から持ってきました。このシステムの音で十分に満足しています。

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また、リモコンが多くなっているので、SONYの学習機能付きリモコン(RM-PLZ430D )を買って整理しました。McIntoshもコントロールできますので便利です。

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  • Squeezebox touchの購入
    さて、DNP-720SEを買ってから見つけたのが、LogitechのSqueezebox touchです。並行輸入で販売されていましたが、当時(2012年)はアメリカのAmazon価格の円換算と同じくらい(2万5千円)だったので、2台目として購入しました。今は生産終了になっていて、やけに高くなっています。これは小さく、カジュアルなスタイルで、ラックに入れる雰囲気ではありません。しかし、これがとても高機能で使いやすいのです。しかも、ALACにも対応していますので、先にこちらを買っていたら、CDの取り込みはWAVではなく、ALACにしていたでしょう。

QNAP NASに追加アプリ(Logitech Media Server)があって、Squeezebox touchも簡単に設定でき、iPad用の有料アプリiPengを使えば、iPadからの選曲がとても便利です。Squeezebox touchは日本語表示ができないという問題があり、バージョンアップごとにSDにフォントを入れて組み込むなど、手間がかかりますが、iPengでは日本語表示になるので、本体でコントロールする必要がなければ問題ありません。

気軽に音楽を聴くために、アンプのスイッチを入れたら、あとはiPadで選曲や音量調節、これぞネットワーク・オーディオの手軽さ、と満足しています。曲名などの検索が簡単にできるようになったのは、CDチェンジャー時代と比べると革命的な変化ですね。
ただし、これはSqueezebox touchの話です。DNP-720SEのiPadアプリは検索もできないし、タグのないWAVファイルでNASに入れているからでしょうが、アーティストも整理できず、CD単位のフォルダーから曲を選んでいくしかありません。それでもCDチェンジャーよりは楽なので、我慢しています。有料でいいから、iPengのようなアプリが日本の製品用にも出てきてほしいと思います。

今からiTunesでWAVをALACに変換していくのも可能ですが、DNP-720SEのためにはFLACにも変 換しないといけません。後継機DNP-730REはALACにも対応するようですが、アプリが改善されない限りは候補にならないでしょう。いずれにせよ、 近い将来のためには、iTunesであれ、別ソフトであれ、WAVからALACへの変換の手間は必要かもしれません。あるいはiTunesがFLACに対応するようになったら、より喜ばしいことですが。

Squeezebox touchは写真中央の小さなアンプ(TEACのA-H01)の上に置いてあります。このシステムの音もBGMとしては十分です。

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さて、やっと本題のQNAPのNAS機種変更の話題になります。
TS-112については最初から転送速度の遅さを感じていました。無線LANでつないでいるコンピュータとの転送で5MB/s以下です。メインのオーディオ・システムであるDNP-720SEで時々、再生停止が起こります。
そこで、2013年には、無線LANでつないでいる機器を有線接続に変えるため、天井裏にLANの配線をしました。DNP-720SEもコンピュータも有線になって、TS-112とのアップ/ダウンは7MB/sくらいには改善しました。DNP-720SEの再生停止もなくなりました。

  • TS-231+の購入
    という流れがあって、特に不満があったわけではないのですが、つい最近、QNAPからTS-231+が出たことを知りました。使うかどうかはわかりませんが、DTCP-IPをサポートしています。比較表を眺めてみると、TS-112と比べて格段に転送速度が上がっているようです。NASに他のデータも置きたいと思っていたので、つい、出来心的に購入ボタンを押してしまいました。同時に、HDはWDの赤版4TBを2台です。それが4日間にわたる手間の始まりでした。

トラブルの伏線はありました。2013年には、Squeezebox touchが生産終了になったというニュースを読んでいました。時代を先取りしたような、これほど高機能で使いやすい製品が消えるとは、思いも寄らない出来事でした。これが今回のトラブルにつながってくるとは考えていなかったかどうか、なんか、もやもやしていたような気もしますが、後知恵です。

TS-231+が届いて、HDを入れ、TS-112をTS-231+に交換して、ファームウェアのダウンロードをおこないました。ファームウェアのバージョンは4.2となっています。TS-112のファームウェアは4.1.4です。初期化が終わって、4TBあることから、2台でRAID 1の構成(1台のミラーリングによるバックアップ)にしました。

次に、iTunesで整理しているCDファイルをアップロードしました。TS-112では7MB/sくらいだったのが、TS-231+だと70MB/sを超えます。コンピュータ内蔵のHDとの転送では100MB/sを突破しました。とても快適です。

  • Logitech Media Serverが見つからない
    音楽ファイルをアップしてから、TS-231+の管理画面からLogitech Media Serverを入れようとしたのですが、これが見つかりません。そして、もちろん、これまで快適に動いていたSqueezebox touchもサーバーが見つからないので動きません。

ここから原因探しのネット探索の旅が始まりました。グーグルで検索すると、QNAP用のLogitech Media Serverに関する記事は検索リストに出てくるのですが、記事へのリンクがすべて切れています。2日くらい、いろいろと検索した後、QNAPのコミュニティ・フォーラムの中を検索してみると、たくさんありました。

極端な発言は、「Squeezeboxが使えなくなった4.2のバージョンアップで、私はQNAPから離れることにした」というものでした。また、消えている、以前のアドオン・ファイルをここにzipで保管してある、という投稿もありましたが、危険なリンクでした。カスペルスキー(ウィルス防止ソフト)が止めてくれましたし、その次の投稿でダウンロードするなと警告が出ていました。

QNAPはバージョン4.2から、LogitechがやめたSqueezebox関係のソフトを徹底的に切ったようです。現在、LogitechはUE Smart Radioというインターネット・ラジオに方向転換していますので、LogitechがNAS関連製品を見放したと言えるのかもしれません。

  • 2台併用になりました
    Logitechの方針転換は、今後のメディア・ソースはNASなどに保管する個人所有から、インターネット世界に存在するメディア・ソースを利用する世界に変わることを示しているのかと、うがった見方もありそうですが、それはともかく、ここに至っては、選択肢は他にありません。Squeezebox touchあるいはTS-112のどちらかが壊れるまで、この快適なネットワーク・プレイヤーを捨てる気はないので、TS-112を元に戻すことにしました。予定では、TS-112からHDを取り出して、フォーマットしてコンピュータに内蔵しようと思っていたので、危ないところでした。

当然ながら、TS-231+は映像転送に十分対応する高速なNAS環境なので、次の写真のように、2台ともに使うという結果になりました。物置の中に、元に戻したTS-112の隣に、別のローカルIPアドレスに固定したTS-231+を並べています。

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TS-112はSqueezebox touchには不可欠ですが、DNP-720SEは(使い勝手は悪いですが)どちらのNASにも接続できます。
TS-112の設定を元に戻す管理場面での作業では、危うく、ファームウェア4.2へのバージョンアップをしてしまうところでした。今後はバージョンアップの案内が出ないように設定しました。

NASの更新ではなく、追加という結末で一段落となりました。他にいい方法があるような気もするのですが、これ以上に調べるのは面倒なので、打ち切りとしました。10年後には、個人用のNASなんて不要になっているかもしれませんし。

OSやファームウエアのバージョン・アップによるトラブル(副作用)は多いですね。iOS、Android、Windows、さらには、StationTVXまで、最近のバージョン・アップでトラブルが続出して、いくつかは旧バージョンに戻して回復しました。旧バージョンが残されている場合はまだ救われますが、今回のように旧バージョンが完全に消されていると、どうしようもありません。新バージョンが出ても、数ヶ月は様子見をして、ネットでの評価を確認してから行動に移すことが肝要だ、という、わかっていたつもりの教訓ですが、いろんな事情が絡んで、教訓を守るのはなかなかむずかしいですね。

  • 追記
    その後、ルーター以下のLANケーブルやハブを見直した結果、TS-112で25MB/s、TS-231+で120MB/sくらいの転送速度に向上しました。とても快適なネットワーク環境になりました。

1992 Delawhere?

1992年7月の話です。

デラウェア(Delaware)というと、日本ではブドウの品種で有名です。特に大阪府は日本有数の生産地だそうですね。私も昔はデラウェアと聞くとブドウしか思い浮かべませんでした。

アメリカの東部にデラウェア州があります。ロード・アイランド州に次いで2番目に小さな州です。デラウェア大学に勤める友人を訪ねて、一週間ほど滞在しました。ニューアークという、人口3万人くらいの小さな大学町です。彼はデラウェア出身で、ずっとニューアークに住んでいます。

休日に、その友人とドライブしたのですが、デラウェア州内の観光ではなく、隣の州であるペンシルベニア州ランカスターがオススメでした。友人も私も、映画「目撃者(刑事ジョン・ブック)」を観ていたので、映画に出てくるアーミッシュの人たちが住んでいるところが目的地でした。長閑な農地が広がっていました。

ニューアークに戻って、地元で自慢のソフト・シェル・クラブ(脱皮して柔らかい甲羅のカニ)をご馳走になりました。雰囲気は脱皮したてのワタリガニみたいです。

さて、前置きが長くなりましたが、カニをいただいた後、ぶらぶらと町を歩いていて、あるTシャツ・ショップに入りました。そこで目についたのが、このTシャツで、彼と笑いあいながら買いました。

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「デラ・ウェア(どこ)?」という、wareの部分がwhereとなった、もじり言葉と地図が入っています。

デラウェア州は合衆国建国で最初に参加したので、The First Stateと呼ばれていて、化学会社デュポン(DUPONT)がありますが、まあ、あまり特徴のない、アメリカ人も多くが知らない州というので「有名」です。その気持ちがTシャツのDELAWHERE?にあらわれています。

日本人はデラウェアと聞くと、「デラウェアがどこかは知らないけれど、ブドウの産地で有名なところでしょ?」という反応が出てきますし、私も彼にそのことを伝えました。ところが、彼も家族もそんなブドウは知らないと言うのです。デラウェア大学の彼の同僚たちも同じでした。地元のスーパーや果物屋でも見たことがないそうです。

おかしいなあと、滞在中ずっと思っていたのですが、帰国してから調べると、ブドウの品種のデラウェアはアメリカ原産のようですが、その栽培地域はずっと内陸のオハイオ州デラウェア郡(市)あたりだそうです。同じデラウェアでも場所違いなので、デラウェア州の人たちはデラウェア・ブドウを知らないという、広いアメリカの話でした。

 

1992 サウスウェスト・チーフに乗る旅

サウスウェスト・チーフ(Southwest Chief)というのは、ロサンジェルスとシカゴを結ぶアムトラック(Amtrak:全米鉄道公社)の大陸横断列車の名前です。ロサンジェルスから、フラッグスタッフ、アルバカーキ、ラスベガス、ダッジ・シティ、カンザス・シティ、セント・ルイスなどを通って、シカゴまで2,247マイル(3,616km)を43時間ほどかけて走ります。稚内から鹿児島までが3,000kmくらいですから、さらに600km長い距離です。1936年にサンタ・フェ鉄道のスーパー・チーフとして運用されて以来、現在でも毎日運行されています(Amtrakの紹介ページ:英語)。

1992年のサウスウェスト・チーフの停車駅時刻表です。シカゴが上でロサンジェルスが下になっているのは、アメリカの鉄道の歴史なんでしょう。なぜか、ロサンジェルスを夕方に出発してシカゴには朝に着いた記憶イメージが定着していましたが、あらためて時刻表を眺めると、夜にロサンジェルスを出発して、3日目の午後遅くにシカゴに到着しています。

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はじまりのはじまり
1年前の1991年4月、湾岸戦争が終わった頃合いに、滞在していたサンタ・バーバラからオランダのフローニンゲンへと移動することになりました。その後の日本帰国までの航空券を購入するために旅行代理店で相談すると、世界一周航空券が片道航空券の合計と大して変わらない金額でした。これも一興と、アメリカ西海岸から東回りの世界一周航空券を国際線運航の多かったユナイテッド航空に決めて購入しました。世界一周航空券は事前に連続の搭乗区間(後戻りはできない)を決めたオープンの航空券セットです。路線があれば南半球も回ることができますが、当時は余裕がなくて、ほぼ直行便になりました。格安航空券が多い現在ではメリットはないような気がします。

1991年9月にオランダから帰国して、残る航空券は2枚(日本→ホノルル→西海岸)で、ハワイ経由にしていましたが、忘れていました。元は取っているので、使わなくてもいいのですが、有効期限ぎりぎりの翌1992年3月に思い出し、休暇を取って、シカゴの隣町エバンストンのノースウェスタン大学に移った先生を訪ねようと計画し、西海岸からは列車の旅を楽しむことにしました。帰路の片道切符はユナイテッドのマイレージを使います。

シカゴまでの列車を調べて、3月30日発のサウスウェスト・チーフに決めて、札幌の旅行代理店に切符をとってもらいました。今ならネット予約で簡単ですが、東京へ連絡するなど、けっこう手間でした。

西海岸とシカゴを結ぶ列車は他にも、
カリフォルニア・ゼファー(California Zephyr)サンフランシスコ-シカゴ(毎日運行)
エンパイア・ビルダー(Empire Builder)シアトル-シカゴ(毎日運行)
などがあります。飛行機より時間もお金もかかる長距離列車が現在でも定期運行されている余裕はうらやましいですね。

はじまり
大阪に住む母に、ハワイ経由でアメリカに行くという話をしたら、休暇だったらハワイに連れて行ってほしい、前に行けなかったカウアイ島を見たい、と言い出しました。それで、3月25日に先ずは母と一緒にハワイに向かいました。ハワイではカウアイ島まで日帰りしたり、ダイヤモンドヘッドに登ったりして、のんびり観光を楽しみました。
オアフ島ドライブです。

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ハワイを満喫して帰国する母を搭乗ゲートで見送ってから、ロサンジェルス行きにチェックインしました。ホノルルからロサンジェルスへ向かうのはアメリカ国内線ですが、チェックイン・カウンターの手前に植物検疫があって、とても厳しくチェックしていて驚きました。国際線にはなかったからです。理由はよくわかりませんが、本土にさえ持ち込まなければいい、というスタンスでしょうか。

乗車前の散歩
ロサンジェルスに着いたのは3月30日でした。これで世界一周航空券は終わりです。
空港からロサンジェルス駅(ユニオン・ステーション)まではバスで行きました。サウスウェスト・チーフの発車は夜なので、駅に荷物を預けて、ぶらっと市庁舎方面まで散歩と食事に出かけました。市庁舎のあたりで、ある方向に大勢の人が歩いていくのを見つけました。何かイベントがあるんだろうかと、暇を持て余していたので、くっついて歩いて行ったら、なんと、アカデミー賞授賞式です。

授賞式がおこなわれるドロシー・チャンドラー・パビリオンの前は人だかりです。人混みの中を進んで、歩道に設けられた柵の前に立っていたら、警官に加えて騎馬警官がやって来ました。それも1騎だけでなく、2~3騎が目の前に立ちはだかりました。とても威圧的で、前が見えなくなったじゃないか、と思って、周りを見渡したら、プラカードを持っている人たちばかりです。

プラカードの意味が最初はわからなかったのですが、どうもゲイの人たちの抗議のようです。突然、気がつきました。この日のオスカーにノミネートされている「羊たちの沈黙」に対する抗議でした。その人たちの一番前にいたのです。ジョディ・フォスターを見たかったのですが、抗議の動きが激しくなりそうだったので駅に戻りました。

このときの写真や動画がyahoo moviesの記事(英語)に出ています。この記事の最初の写真に自分が写っているのではないかと思いましたが、時間がずれていたか、もうちょっと右にいたようです。「羊たちの沈黙」は帰国してから観て、この光景を思い出していました。さすがに、監督のジョナサン・デミは次の作品「フィラデルフィア」できちんとゲイの世界を描きましたね。

乗車
歩き疲れて、ユニオン・ステーションの広くて立派な待合室でくつろいでいたら、乗り込み開始のアナウンスがありました。他の乗客と一緒にぞろぞろと線路の間の通路みたいな低いプラットホームを歩いて行くと、かなり暗くなった中に2階建て(ダブルデッカー)の客車が見えてきました。スーパーライナー車両です。実物を間近で見るのは初めてで、とっても巨大!というのが第一印象でした。

実際の写真がないので、HOゲージのKATO製、二代目スーパーライナー(1993年以降)の寝台車の写真です。他に、コーチ(座席車)、食堂車、荷物車などがあります。実際に乗ったのは初代スーパーライナーですが、外観にほとんど違いはありません。模型ではサイズがわかりにくいので、フィギュア(ヨーロッパの駅員です)を置いてみました。

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Amtrakは、1983年にボストン-ニューヨーク往復でメトロライナーに乗ったことがあります。

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この写真のように、メトロライナーは日本の車両とあまりサイズが変わらないので違和感はありませんでした。

しかし、スーパーライナーは高さが4.9m(日本の新幹線車両で4.2m)、ほぼ直方体で、低いプラットホームから眺めるとすごい迫力です。1950年代には、シカゴから西の主要路線での車両限界の高さが5mになった結果(その他は4.4mのままで新幹線とほぼ同じ)で、広大なアメリカの長距離列車でしか使われていないことがうなづけます。

列車で2泊するので、別料金不要のコーチではつらいため、2人用の個室を日本で予約しておきました。1人利用なので割高になり、乗車券と合わせると飛行機運賃より高くなりましたが、食堂車での朝昼晩の食事(ファミレス料理レベル)が付いています。
その時の切符の表紙と控えです。

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車掌から渡されて署名した乗車証です。食堂車の利用などに使います。

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乗ったのは最後尾の車両で、2階建てですが、部屋は1階でした。室内は日本の寝台車の2段ベッド個室という感じです。1階には左右に2つずつ、合計4つの個室があり、奥にはトイレが並んでいます。

乗った部屋はフィギュアを置いた右側、ドアに近いところです。近鉄(今もあります)や新幹線(以前はありました)の2階建て車両の1階と似た雰囲気ですが、天井が高いことと、駅のホームが低いので、1階の窓から駅のホームを眺めても、ホームを歩く人の足が目の前に見える奇妙な景色はありません。近鉄では目のやり場に困るときがありました。

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担当の車掌がやって来て、いろいろと説明してくれます。ベッド・メーキングの時間や、シャワーは共同利用なので、時間を予約してほしい、食事も食堂車の時間割が決まっているとのことでした。

食堂車の予約票です。

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ともかく、気楽な長旅のはじまりで、船での旅行と似た雰囲気です。
レターセットのお土産が置いてありました。

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翌3月31日の早朝、小さな駅に停車しました。もうアリゾナ州との州境あたりでしょうか。停止位置の近くにパトカーが停まっていて、一人の制服警官がやって来ました。私の乗っていた車両のドアが開いて、警官と車掌がしゃべっているようですが、よく聴き取れません。しばらくして、警官が若い男を連れてパトカーに乗り込んで走り去り、列車も走り出しました。

列車が走り出したので、通路に出て、車掌に話を聞きました。車掌によると、昨日のロサンジェルス出発前に駅で預かったスーツケースの中に麻薬が入っているのを麻薬探知犬が見つけたそうです。すでにスーツケースは警察が押収していて、持ち主を逮捕するために警官が乗り込んできたとのことです。同じフロアの個室に乗っていたようで、おとなしく連行されていったそうです。暴れたり、撃ち合いになってもおかしくなかった状況ではないかと聞いたら、そうかもね、と言っていました。警官も一人だけでしたし、日常茶飯事で、大きな事件ではないようですね。

サウスウェスト・チーフ乗車中の写真は次の2枚だけです。ずっと曇っていたような記憶もあり、この10年前にアメリカ大陸横断ドライブをしていたので、景色を撮る気がなかったような気もします。食堂車に行くついでに、列車全体を歩いてみましたが、コーチ車両はけっこう混んでいました。

1992 US 001 Southwest Chief

1992 US 002

2枚目の写真を拡大してじっくり眺めると、どうも先頭の機関車(重連)はGEのDash 8というディーゼル機関車のようです。なぜか、EMDのF40PHというディーゼル機関車(すっきりした、好みの機関車)だと思い込んでいました。

たぶん、直前に観たロバート・デ・ニーロとチャールズ・グローディンの映画「ミッドナイト・ラン」に出てきた列車の映像と混同していたのでしょう。二人が乗った列車はニューヨーク(ワシントンDC発着と併結)とシカゴを結ぶ「ブロードウェイ・リミテッド」のようで、F40PHの重連で少ない客車を牽引していましたが、1995年に廃止されました。また、映画の後半で二人が乗った貨物列車がフラッグスタッフに向かうので、今回の路線を逆に走っていたようです。

日本の寝台車とは、設備や景色や距離は違いますが、読書したり、景色を眺めたり、居眠りしたりなど、いつもの寝台車の過ごし方で、退屈もせず、ゆったりとした時間を過ごせました。

4月1日の午後、時刻表通り、間もなくシカゴ(ユニオン・ステーション)到着というアナウンスがあって、高架線路になったあたりで列車が停止しました。雪で遅延が起こっているそうで、結局、1時間以上待たされてのシカゴ到着となりました。先生が迎えに来ていただいているはずなので、この時だけはちょっとあせりました。

エバンストンの先生のお宅です。屋根に雪が少し残っています。車の横に立っているのは奥様です。

1992 US 003 Evanston

数日お邪魔して、楽しく過ごしました。

10日ほどの休暇旅行でしたが、いろいろな意味で長旅でした。1年間をかけた長旅だったと言えるかもしれません。

1991 PA0GO訪問

1991年のオランダ滞在中に、友人の奥様の叔父様がオランダのアマチュア無線家として著名な方だと知りました。アーネム(Arnhem)にお住まいのヘリット・ヴェッヘラール(Gerrit Weggelaar)氏で、コールサインはPA0GOです。

5月と8月にお宅を訪問させてもらいました。奥様のティニさんと並んだ写真です。平屋のきれいな建物の裏に大きなアンテナが立っています。

ヘリットさんは1919年生まれですから、お会いした時は72歳でした。とてもお元気で溌剌としたオランダ紳士でした。

5月にいただいたアイボール・ミーティング(実際に会った)カードです。

当時は月面反射での無線通信の実験をやっているとのことで、自作のヘリカルアンテナが置かれていました。

彼の無線機(特に送信機)はほとんどが手作りでした。受信機はRACALという英国製で、初めて見ましたが、操作は慣れないと難しそうです。

ヘリットさんにフローニンゲンのアマチュア無線家を紹介していただいたら、その方が無線機とアンテナを貸してあげると言われて、アパートにアンテナを置かしてもらいました。

部屋には短波用の送受信機を置きました。

いろいろとトライしてみましたが、オランダ国内のみとの交信だけでした。でも、とても楽しい経験になりました。

8月、帰国直前にご挨拶を兼ねてPA0GOを再訪したときのビデオが残っています。アンテナをアメリカに向けて交信してもらいました。音が出ます。

数年前、ヘリットさんが2009年にサイレント・キー(無線家が亡くなること)になられたことを知りました。彼の無線機器はアーネムにあるオランダ野外博物館(The Nederlands Openluchtmuseum)に遺贈されたそうです。

1991 オランダで

湾岸戦争が終わった1991年の春にアメリカ(サンタ・バーバラ)からオランダに移りました。オランダの北東部にあるGroningenという歴史のある街です。ヨーロッパ訪問は初めてでした。友人(オランダ人)がGroningen大学の研究所長だったので、半年ほど滞在させてもらいました。

日本語ガイドブックにはGroningenをフローニンゲンと書かれているので、ここでもフローニンゲンと書くことにしますが、これだと「不老(浮浪)人間」のようですね。有名なリゾート地のScheveningenという町はガイドブックでスケベニンゲンと書かれていて、これらは日本人だけが笑ってしまう話です。

オランダ語の発音はなかなかむずかしく、Gは軟口蓋の摩擦音と言われていて、いびきに近いようです。オランダ人の発音はこのサイト(Forvo)に出ていますので、興味があれば聴いてみてください。右向き△をクリックすると発音されます。Scheveningenはスケーフェニンゲンという感じです。

宿舎は小さなマンションのペントハウス(持ち主が長期休暇中)で、向かいの建物の屋根より高く、窓からの景色がとても気に入りました。右に教会の時計台がよく見えて、時計要らずです。この時計台は可愛いですが、この教会を誰もあまり知らないようでした。でも毎日、飽きずに眺めていました。

南向きで、駅の方向ですが、その後の1994年に駅北側の運河にフローニンゲン美術館が完成したそうで、今なら美術館の屋根が見えるのかもしれません。評判のいい美術館だそうで、ちょっと残念です。

上の写真の右側の壁です。窓がありますが、西日が強くて、2ヶ月後にはビールの空き缶と空き瓶で覆うことになりました。

ペントハウスなので、部屋の横(東側)に屋上があります。その端から撮った部屋の写真です。この建物はかなりモダーンですが、街の雰囲気を壊していません。

後方(北側)の眺めです。街のシンボルの一つ、A教会(設立は1200年代)が見えています。

オランダ生活では、直前までのアメリカ生活、そしてアメリカ生活的な日本の生活とは違った生活文化に驚きながら楽しみました。30年近く前の話ですから、現在とは状況が変わっているかもしれませんが、そんな話から始めます。

到着初日に近所のスーパーへ日用品を買いに行きましたが、箱に入ったティッシュ・ペーパーやキッチン・ペーパーが置かれていませんでした。翌日、研究所の秘書(女性)に、ティッシュ・ペーパーを買いたいのだけど、どこに売っているのかを聞きました。すると逆に、ティッシュ・ペーパーって何に使うのと聞かれました。こういう切り返しは予想していなかったのですが、鼻をかむし、キッチンやテーブルが汚れたら拭くし、などと答えたら、鼻をかむのはハンカチを使いなさい、テーブルが汚れたら布巾を使いなさい、洗ったら何度も使えるでしょう、と反撃されました。なるほどね、昔は日本でもそうだった、と思いながら、それでも一週間後にティッシュ・ペーパーを置いている店(少し高級な商品を置いているスーパー)を見つけて、後ろめたい気分で買いました。

彼女とはいろいろと話が合いましたが、かなり律儀なところがあって、私が昼頃に研究所に現れて、Good Morning! と挨拶すると、壁掛け時計を見上げて12時1分だったので、Good Afternoon! と真面目な顔で言い返してきます。OK OK と笑っておくだけです。

研究所です。

ヨーロッパの大学らしく、大学関係の建物は街の中に点在していて、同じような年代(フローニンゲン大学の創立は1614年)の建物が多くて、違いがよくわかりません。

オランダの人たちは背が高いですね。男性の平均身長が184cmくらい、女性で171cmくらいだそうです。研究所では、友人の身長がちょうど平均の184cm、私が174cmで下から二番目、一番背の高い研究員は198cmでした。

そういう事情だからでしょうか、トイレも興味深い世界でした。宿舎マンションのトイレは特に気にならなかったのですが、研究所のトイレは大人しか入らないからでしょうが、少々驚きました。男性用が高く取り付けられていて、私でギリギリでした。便座も高く、女性に聞くと、160cm程度の身長だと足が床から浮くそうです。

午後6時が終業時間で、建物から出なくてはなりません。少し早いので、その後は近くのビール・バーでビールを一杯飲んで帰るのが日課になり、ヨーロッパのビールを飲み比べていました。それで困ったのは、スーパーを含めた店舗がすべて午後7時で閉まることでした。ビールを飲んで、おしゃべりをしていたら、夕食の材料を買いそびれて、外食になることがよくありました。

中央広場の横にあるマルティニ教会の塔から眺めた宿舎方向の写真です。右側にA教会、左端がフローニンゲン駅です。今はGoogleの航空写真3Dで簡単に眺められますね。

逆方向から眺めた広場です。オランダらしいファサードが続いています。

京都と同様に、16世紀頃のオランダでは間口の幅で税金が決まったとのことですが、結果として、通りに面して多くの建物が並ぶことになるので、合理的だと思ってしまいます。

オールドタウンは運河に囲まれていて、運河には船のレストランがありました。パンケーキの店です。味はともかく、量は多かったですね。

残念ながら、オランダ料理で好みに合うものはあまりなくて、中央広場のマーケットやスーパーで素材を買って簡単な料理を作るほうが多かったですね。インドネシアが旧植民地だっただけに、米(長粒種)や醤油類はスーパーにも置いてあって、「準」日本食の毎日でした。みんなで食事という場合は、たいていホーム・パーティで、レストランに行くときはインドネシア料理か中華料理でした。

大学構内やオランダの駅構内にはコロッケの自動販売機があって、これは独特のスパイス風味で、唯一のリピート購入品でした。駅弁代わりに列車に乗って景色を見ながら食べたこともあります。

もちろん、オランダ名物のハーリング(ニシンの生マリネ)も食べてみましたが、一口しか無理でした。みなさんはキザミ生タマネギをつけて食べたり、それをパンに挟んだりという食べ方をしていましたが、どうも合いませんでした。買って帰って、タマネギを落としてワサビ醤油で食べてみたら、それなりに刺身みたいで、おかずとなりましたが、一度だけでした。

オランダでは自転車が必需品です。街が小さいからでしょうね。オランダの列車には必ず自転車置き場があります。それに、オランダでは(当時のことですが)ガソリンが高く、友人の所有自動車(ニッサン)は日本のタクシーのようにプロパンガスで走っていました。

当然ながら、私も自転車を早々に購入しました。もちろん中古ですが、店に置かれている自転車のいずれもサドル位置が高く、選ぶのが大変でした。多くあったのは手元にブレーキが無く、ペダルを逆に漕ぐとブレーキが掛かるという昔の方式でした。面白いのですが、咄嗟の場合に危険なので、少し高くつきましたが、ツーリング車にしました。

自転車が多いだけに運転ルールはけっこう厳しく、日本のつもりで一方通行を気にしないで逆行していたら、パトカーに停められて注意されたことがありました。

初めてのヨーロッパだったので、休日にはオランダ国内を中心に物見遊山をしていました。アムステルダムとデン・ハーグ(Den Haag)にはよく行きました。出発・帰着するオランダ鉄道(NS: Nederlandse Spoorwegen)のフローニンゲン駅です。

こういう角度からの写真もあります。

デン・ハーグにあるマドローダム(Madurodam)というミニチュア(1/25)遊園地のフローニンゲン駅の動画です。音は出ません。

フローニンゲン駅に停車中の列車です。これは実物です。

左はフランス型げんこつスタイルの電気機関車1600形式、右はコプローパ(Koploper: 英語でLeaderとかFront runnerというような意味)と呼ばれていた電車です。アムステルダムやスキポール空港へ直行で、アムステルダムまで2時間半です。コプローパはお気に入りの車両で、TRIXのHO模型を購入しましたが、デコーダーが不調で、整備を終えたら紹介記事を書く予定です。

デン・ハーグでの楽しみはマウリッツハウス(Mauritshuis)美術館でフェルメール(Johannes Vermeer)の絵を眺めることでした。絵が置かれているのは小さな部屋で、たいてい誰もおらず、部屋中央のスツールに座って長時間を過ごしていました。

絵に近づくことも写真を撮ることも制限がなく、たまに係員が巡回してくるだけでした。

フェルメールの作品を初めて観たのは1982年で、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館でした。ボストンの絵は1990年に盗難に遭って、現在も行方不明だそうですね。

その後、バッキンガムとアイルランドにある2枚だけは機会がなくて観ていませんが、他の美術館はすべて訪問することができました。

上の写真にあるフェルメールの「デルフト(Delft)の眺望」の場所が今でも残っているらしいと聞いて、暑い最中にデルフトまで行ったこともありました。

ここらしいのですが、絵とはアングルと広がりがかなり違います。フェルメールが描いている景色は、眺める高さが10m以上で、かつ両眼が数十m離れていなければ無理なようですね。興味深い違いでした。

アマチュア無線の世界も少し眺めることができましたが、その話は別稿(PA0GO訪問)にします。

半年ほどの滞在でしたが、ヨーロッパでの日常生活を堪能することができました。帰国前日の夜に花火大会がありました。日本の花火とは違って単純ですが、音だけはすごかった記憶があります。この動画は音が出ます。

 

1990 W1AF 再訪

1990年12月30日、久しぶりにケンブリッジに行く機会があり、W1AFを再訪しました。

顧問を続けているビル氏に案内してもらいました。建物も変わり、アンテナも立派なものになっていました。
(これは2日後、1991年1月1日に撮影した外観です)

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建物は以前のほうが趣がありましたが、無線室に入ると、豪華な部屋で驚きました。

1990-12-30_w1af

入口からパノラマ風に撮ってみました。

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並んでいるのは、もはや、古いコリンズではなく、新しい機器ばかりです。メインは日本製のicomです。コンピュータはATARIからIBMに変わっています。椅子も長時間の運用に適した座り心地のいいものです。奥には、すっきりとした工作用テーブルもありました。もう、1982-83年ころの雰囲気はありません。

数年前に、以前の建物から追い出されたものの、改めて部屋を確保し、卒業生から機材を寄付してもらったそうです。その後は部員も増え、活発な活動を続けていると、ビルから説明を受けました。

新しいW1AFのQSLカード(交信証)です。

1990-12-30_w1af-2

このカードの下のほうに書かれているUS1Aというのは、この年の5月に、レニングラード(現サンクトペテルブルク)へ遠征して、ソ連の無線局とジョイントで交信したときのスペシャル・コールサインです。
そのときのQSLカードです。

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こんなステッカーもありました。

1990-12-30_w1af-4

すごい事業をやったものです。Uから始まるコールサインはソ連の無線局ですが、特別にもらったそうです。

以前に滞在していた1982-83年には、ソ連からの若手研究者が招待留学で来ていて、オフィスを彼と共有していました。彼を近郊への家族ドライブに誘ったとき、ケンブリッジ市内を離れる場合は事前にソ連大使館に許可を得なければならないと言っていました。当時は、アメリカとソ連はまだまだ厳しい関係にあると感じていましたが、世界は動いていますね。

W1AFのホームページです。現在の活動や歴史などが詳しく紹介されています。今も同じ部屋のようですが、コンピュータの大型ディスプレイが並んでいて、昔の無線室らしさはなくなっています。これも時代ですね。

1983 USA横断 3

最終回です。
1983年7月20日、ユタ州を通り抜けます。

1983 07 102

7月21日、昔、TVドラマでよく観た「ルート66」に入ってみました。

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7月22日、カリフォルニア州デス・ヴァレーに入っていきます。

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真夏のデス・ヴァレーは最高気温が摂氏50度を超えます。N1CKL号には危険な場所なので、前夜は近くに宿をとって、午前中には抜けることにしました。エアコンは切ったままです。
デス・ヴァレーの一番低いあたりは海抜マイナス80m以上だそうです。午前9時ですが、38度になっていました。
この写真の後ろの崖に白い四角い表示が見えますが、そこが海抜0mです。

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昼前に、デス・ヴァレーからロサンジェルスに向けて、裏道を走っていたところに、次のような看板を見かけるようになりました。

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ここから25マイルの間、Burroが道を渡るよ、という注意書きです。
Burroって、カタカナ読みで逆に読むとロバになるなあ、と話しながら走っていたら、いました!

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道を渡っている、のではなく、道にたたずんでいます。

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近づいても逃げない、どころか、窓に顔を突っ込んできました。

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どうも、食べ物をねだっているようでした。
昔、このあたりで飼っていたロバが野生化したらしいです。通りかかるクルマから食べ物をもらっているのでしょう。

この原稿を書きながら調べてみたら、1987年までに、デス・ヴァレーに生息していた野生のロバ6,000頭を多額の費用をかけて、どこか別の養育センターに移動させたという記事を見つけました。理由はよくわかりませんが、人には迷惑だったのでしょうね。もう、このような姿を見ることはできなくなったようです。

7月22日、フーバー・ダムを経由して、夜、ロサンジェルスに到着しました。
7月23日、終日、市内見物です。UCLA、美術館・博物館、ハリウッドを巡りました。
7月24日、ロングビーチでクイーン・メリーを眺めてから出発です。

7月25日、セコイア国立公園を訪ねました。

1983 07 145

昔の写真集で眺めた、木の根元の空洞をクルマが通り抜けるトンネルは、ここではなくて、ヨーセミテだったそうですね。でも、樹齢2000年以上の巨大樹が林立していました。

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7月26日17:10、金門橋を渡りました。サンフランシスコ到着です。定番の写真撮影です。

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20:18、無事に友人(右端)の実家に到着して、歓迎を受け、29日の出発まで、泊めていただきました。
中央のクルマは父上の愛車、新車のキャディラック・エルドラドです。少し運転させてもらいましたが、路面の凹凸を感じさせませんでした。いわゆるアメ車の頂点だったクルマです。

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7月28日、N1CKL号は、100ドル+Tシャツ1枚でレッカー会社に売却され、スクラップになることが決まりました。

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このクルマの最終マイレージは、99,004マイルでした。
旅行開始時は、91,156マイルだったので、今回の横断ドライブは、7,848マイル(12,556キロ)でした。
昨年の入手時は、84,063マイルでしたので、1年で1万5千マイル(2万4千キロ)を走ったことになります。
トラブルは多くありましたが、多くの楽しい思い出を作ってくれました。

(完)

1983 USA横断 2

1983年7月16日、テキサス州エルパソに向かっている途中、ハイウェイの休憩所です。
何人かが休憩所の外壁の下を見ていたので、近寄ってみると、大きいクモがゆっくり動いていました。見ていた人に聞くと、タランチュラ(オオツチグモ)だそうです。誰かが小枝で触っています。

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毒を持っているけど、おとなしいよ、と言われたので、その横にタバコを置いて、サイズを調べてみました。

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その後、洗面所で横にいた人に、タランチュラを初めて間近に見た、と伝えたら、このあたりには多くいて、ジャンプしてくるから近くに寄ると危ないよ、と言われ、苦笑いをするしかありませんでした。人を死なすほどの毒はないらしいですけど。

7月18日、ニューメキシコ州を過ぎて、アリゾナ州に入り、OK牧場(the O.K. Corral)を見学。

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中に決闘の場所はありましたが、「牧場」という日本語のタイトルはちょっとミスマッチでしょうね。

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これから先は、グランド・キャニオンまでの長い道のりです。
ダブルのタンク・ローリーを追い抜き、

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長編成貨物列車(ディーゼル機関車の四重連)とすれ違い、

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老馬ロシナンテならぬ老車N1CKL号はがんばります。このところ、トラブルはありません。

ニュー・ メキシコ州からアリゾナ州にかけて、道ばたでロードランナーを時々見かけるようになりましたが、写真に撮ることはできませんでした。昔のアニメ「ワイリー・コヨーテとロード・ランナー」が好きだったので、見るのを楽しみにしていました。わりと地味な色合いでしたが、かわいくて、走り方はトットトットと速いですね。その後、インディアン・ジュエリーでもよく見かけました。

このあたりには大型サボテンが多くて、特徴的な景色になっています。でも、そばに寄ってよく見ると、道ばたのものには小さな穴がいっぱい空いています。走りながら銃で撃っているようです。地元の食堂でハンド・ガンを着けている人がいた り、ハイウェイでビールを飲みながら走っている人を見たり、ちょっと危ない雰囲気もありました。

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7月19日、グランド・キャニオンには夕方に到着です。日没に間に合いました。

1983 07 099

3(最終回)に続きます。

1983 USA横断 1

1983年7月1日朝10時、お世話になった人たちにお別れの挨拶をして、ケンブリッジを離れました。帰国の飛行機予約は7月29日サンフランシスコ空港発です。

5月頃には西海岸までクルマで片道横断旅行をしてから帰国しようと決めて、航空券はサンフランシスコ発にしていました。当時は東海岸から西海岸に帰省する人の多くがクルマを使っていて、話を聞くと、インターステート・ハイウェイ(無料)の最短距離を走れば、3千マイル強(5千キロ)くらいなので、4泊5日がゆっくりのペースだそうです。元気な学生は、友人や同行者と一緒に交代で昼夜連続運転をしたら、2日ほどで着くことができると言っていました。確かに、大学の掲示板には、どこそこまでの同乗ドライバーを募る、というメモをよく見かけました。まだ格安航空会社がなかった時代です。

その距離を一カ月ほどかけて、観光しながら、アメリカ片道横断ドライブを楽しみます。それも、最短距離ではなく、できるだけ南端(メキシコ湾・メキシコ)近くを通るルートです。宿泊はすべて予約なしで、モーテルを探します。AAAで全ルートに関係する地図やガイドブックをもらってきました。30冊くらいになりました。夫婦二人旅です。

出発して、コネティカット州にあるARRL(アメリカ無線連盟)を訪ねたり、途中の大きな街を散策したりで、南下を続けました。

7月2日、フィラデルフィアです。もちろん、「ロッキー」で有名なフィラデルフィア美術館正面に向かいます。

1983 07 019

7月3日、チャールストン(サウスカロライナ州)に着くころから、愛車N1CKL号の不充電ライトが消えなくなりました。バッテリーの充電ができなくなっているようです。
7月5日、なんとかフロリダ州まで到着し、調べてもらって、バッテリー交換となりました。レギュレータ交換あたりが正解ではないかと思いましたが、それは後ほど判明しました。
まあ、これくらいはマイナーなトラブルと考えて、定番の観光地ディズニー・ワールドを楽しみます。

7月6日、フロリダ州オーランドのマジック・キングダムです。子供のときに観たディズニー映画「海底二万哩」のノーチラスに会えて感激です。

1983 07 040

夜は、お城の上空の花火です。0時まで楽しんで、モーテルに入ったのは、翌0:50でした。

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その後、エプコット・センターやケネディ・スペース・センターなどを見学し、キーウェストまで走って、ヘミングウェイの家の猫と遊んだり、港で対キューバ用の巨大な水中翼の軍艦を眺めたりしました。

7月9日、キーウェストへの水上ハイウェイです。

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7月10日、フロリダ半島の南には湿地帯が広がっています。エバーグレーズ国立公園です。
暑い盛りで、あまり観光客はいません。自動車禁止なので、貸自転車を借りて走っていくと、看板がありました。

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アリゲーターに気をつけて、というか、そういう湿原保護地域です。
巨大なアリゲーターに出会ったらどうしようと、ちょっとドキドキしながら、自転車道の横の水面を眺めていると、いました!

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小さくて、わかりにくいですが、赤ちゃんワニが向こうのほうに泳いでいます。
見つけたワニは、メモによると、この1匹を含めて、赤ちゃん4匹でした。
戻ってから係員に聞くと、暑い夏場の昼、大きなワニは日陰に入り込んでいて、見ることはほとんどない、とのことでした。こちらも、大きなワニを見たら逃げるしかないと、期待と同じくらい怖さも強かったので、まあ、結果は笑うだけでよかったとしましした。

これからはどんどん西に向かいます。

7月12日、ルイジアナ州ニューオリンズに到着しました。
フロリダ以降、N1CKL号は、ラジエータ・ホース破損、レギュレータ交換、バッテリー・ケーブル交換など、「マイナー」なトラブルが続いていました。
でも、ニューオリンズは楽しい町です。

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フレンチ・クオーターなどの旧市街を散歩してから、ジャンバラヤ、なまず料理などを楽しみました。また、「欲望という名の電車」に乗りに行きました。後に、LGBでGゲージの模型が発売されたときは大喜びで手に入れました。

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車内の様子です。

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7月13日、ニューオリンズを出発して、すぐ北にあるポンチャートレーン湖を横断する橋です。世界一の橋と名付けられていました。キーウェストの水上ハイウェイと似ています。

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7月13日夜にはテキサス州に入り、14日はヒューストン見物です。
スペース・センターを見学してから、夕方からアストロ・ドームで、Expos(モントリオール)対Astrosの試合を観ることができました。

1983 07 075

しばらくテキサス州内で、15日はサンアントニオでアラモなどを訪ねました。

2に続きます。