1982 W1AF

W1AFというのは、ハーバード大学無線クラブ(Harvard Wireless Club)のコールサインです。1909年に開局した、世界で一番古いアマチュア無線のクラブ局の話です。

別ページに書きましたが、アメリカのアマチュア無線免許はとったものの、無線機を持つ機会はなく、運用はあきらめていました。
1982年のThe Gameの前後あたりだと思いますが、気粉れから、ハーバード大学の電話交換手に、無線クラブはあるだろうかと問い合わせてみました。すると、クラブに登録している学生の電話番号はこれこれという返事が返ってきたのは驚きでした。さっそく連絡して、無線局を訪ねました。

半年ほど通った無線局の建物です。写真の真ん中にあるレンガの三階建てで、屋根の上にアンテナが載っています。となりの建物より低く、あまり条件はよくありません。手前右下には、シャツで有名なJ.PRESSの店のテントが一部写っています。

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無線局の部屋には、古いですが、有名な無線機(Collins)が並んでいます。

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机の下には、1.5KWの送信ブースターがあります。
その横にはATARI 400(当時の家庭用コンピュータ)が置かれており、流行していたゲーム「パックマン」を遊べます。けっこう、はまりました。無線をせずに、パックマンを遊びに来るだけの学生もいます。

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パックマンを遊んでいる横で交信が始まると、画面がゴーストになってしまいます。近所にテレビがあれば、何も写らなくなると思いますが、これまで文句が来たことはないそうです。たぶん、ケーブル・テレビだったのでしょう。
ATARIといえば、こんなコピーがありました。「通勤するより家でコンピュータがいい」というのは、今は当たり前ですね。

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当時のQSLカード(交信証カード)です。この原稿を書くときに取り出して撮影したものです。もう少し鮮やかな赤だったような気がしますが、定かではありません。

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こういう文化財もありました。1925年フランスの無線局との交信証で、Wが入っていません。カードを貼りつけた紙に書いてある解説には、その前の実験局で1XJというコールサインを使ったようですが、それは残っていないとあります。

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この交信証は相手から交信証をもらってから送ったもののようで、フランスで会えるだろうか、というフランス語のメッセージが書かれています。その後に、フランスで会った相手からもらったのでしょうか。

これだけの由緒あるクラブ局ですが、衰退気味で、部員は数人しかおらず、栄光は壁にかかった賞状のみ、という状況でした。ただ、地域の電報を転送するネットワークがあって、熱心に取り組んでいました。また、顧問が実験物理学の若い准教授だったので、少し先行きが明るくなりつつあります。
親しくなった、活動的な部員のボブは、聴覚障害を持ちながら、最上級のExtra免許保持者で、補聴器の飽和ビート音を側頭部への直接振動でとらえて、毎分200字のモールスをこなしていました。普通の会話をモールスでできるくらいの速さです。敬服のみならず、多くのアドバイスをもらって、お世話になりっぱなしでした。

このWlAF局ではヨーロッパとの交信が多かったのですが、日本との交信も何回か出来たのは忘れられない思い出となりました。日本からアメリカ東海岸との交信は、弱小無線局ではとても無理です。交信できた日本の局はいずれも大きなアンテナと大出力を使っていました。それでも音声交信は無理で、モールス音がヒューヒュルヒュルという程度にしか聞こえませんでした。

その中でとてもしっかりした信号で交信できたのはJP1BJRという日本の無線局でした。帰国後に、JP1BJRは戦前からJ2JJというコールサインで活躍されていた大河内正陽氏という著名なアマチュア無線家だと知りました。

おまけの話です。
モールスの送受信練習用に、W1AFにある工具や測定器を借りて、ヒースキット(Heathkit)のキーヤー(µMatic Keyer SA-5010)を組み立てました。このキットはよくできていて、作りがいがありました。小さなモニタースピーカー内蔵で、モールス聞き取り練習用のランダム再生モード、速度調整やメモリーも付いています。コールサインなどをメモリーに入れておけば、ボタン一つで送ることができます。もちろん、普通のパドル・キーをつなぐこともできます。

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キットに付いていた静電スイッチ方式のパドルを前に差し込んでいます。W1AFのみなさんに使ってもらって好評でした。

 

1982 The Game

1982年11月20日、好きなフットボールの話です。

ハーバード大学とイエール大学とのアメリカン・フットボールのゲームは、”The Game”と呼ばれています。フットボールの最初のゲームが1875年に両校で行われたからだそうです。

ゲームの2日前ころから、ハーバードのスタジアム周辺には、高級リムジーンが何台も停まっていて、初老の人たちがテントの下でテーブルを囲んで、ワインを飲みながら談笑しています。同窓生の集まりです。このゲームを観戦するために、世界中からやってきているそうです。

この年くらいまで、フットボールのアイビー・リーグは単独リーグで、このカードがいつも最終戦に設定されていました。今回が99回目の対戦だそうです。入場券も、普段のリーグ戦はIDを見せると2ドルなのに、全席指定で15ドルにはねあがります。当時、プロ・フットボールのニューインクランド・ペイトリオッツのゲームや、野球のボストン・レッドソックスのゲームでも同じくらいの料金でした。それでも観客は満杯です。

ゲームはハーバードが有利な展開で進みました。白がビジターのイエール、赤(クリムソン)がハーバードで、イエールの攻撃です。

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ハーフタイム・ショーの様子です。両チームのマーチング・バンドがそれぞれ、HとYを作っています。

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試合結果は、ハーバードが前年の雪辱を果して、アイビー・リーグ同率優勝となりました。終了直前のカウントダウンから観客が興奮してグラウンドに降りて、ゴールポストを引き倒す程でした。スコアボードは45:7でハーバードの勝利を示しています。

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しかし、この試合のハイライトは、第2クオーターでのハプニングでした。
ボールデッドとなったとき、突如、目の前のハーバード側の芝生が盛り上がり、土の中からシューという音をたてながら、黒い風船が大きくふくらみだしたのです。その風船にはMITと書かれていました。

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しばらくして、破裂しました。これを見て5万人の観客は大喜びです。もちろん、試合は中断で、警察もやってきました。

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MITの学生がリモート・コントロールでイタズラを仕掛けたのです。警察がチェックした後、グラウンドは整備されて、試合は続行しました。

MITも同じケンブリッジ市内にある、世界的に有名な大学ですが、残念ながらアイビー・リーグに入っていません。ハーバードとイエールという二大アイビー・スクールに対するアピールというところでしょう。

翌週、このイタズラの感想をハーバード、MIT双方の学生に聞いてみると、どちらもニヤリと笑い、同じようにアイディアを賞めていました。数日後のMITの学内新聞には首謀者の学生とのインタビューが載りましたし、その興奮は半年後まで続き、MITの卒業式当日、集まった同窓生に説明するため、MITの芝生上で再現して見せたほどでした。

テロの脅威が現実的な今のアメリカでは考えられないイタズラですが、いろいろな意味でのMITらしさが際だったハプニングでした。
ともかく、そこに居合わせて、目の前で一部始終を見ることができ、写真も撮ることができたのはとてもラッキーでした。

このイタズラは当日夜のTVニュース全国版でも報道されていました。この原稿を書いてから、試しにネット検索をしてみると、Boston Magazineに動画付きの記事がありました。

 

銅の取り分けスプーン 1

2015年10月9日、金工も2年目に入りました。次の課題を考えなければなりませんが、前回までの銅のアヒルでは、自分で設定した目標に対して、あまりに技術が伴わなかったという実感があります。そこでしばらくは、基礎技術の再勉強をすることにしました。

以前にアルミのおたまを作りました。
実用的なのですが、アルミという素材がちょっと好みではありませんでした。
そこで、もう少し小ぶりのおたま(取り分けスプーン)を銅で作ることにしました。

アルミのおたまより小さめのサイズで型紙を画用紙で作ってみました。
長さは28センチ、椀部分は幅7センチ長さ5.5センチです。
素材の銅板は大きなアルミのおたまを作ったサイズです。厚さは1.5ミリです。

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これだと、ぎりぎりで3枚分とれそうです。

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教室にある大型のバンド・ソー(帯鋸盤:帯状の歯がループになって回ります)でカットします。

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2枚分を切り取って、1枚を30分ほど叩きました。

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鍛金作業は2カ月ぶりくらいで、すでにコツというかポイントを忘れはじめていました。
再勉強という課題は適切でした。

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でも、アルミより質感は好みです。

(続く)

1982 N1CKL

N1CKLとは、アメリカでもらったアマチュア無線局のコールサインです。

ボストンの隣町ケンブリッジには、1982年から83年まで一年ちょっとの滞在でしたが、当時の趣味であったアマチュア無線まで楽しめたのは幸運でした。
アメリカのアマチュア無線の状況に興味があったので、1982年9月8日にボストンで試験を受けました。General Classという中間レベルの資格です。日本での免許も2級アマチュア無線技士という中間レベルなので、順当なところです。

当時のメモを見ると、9:45 試験室入室、9:55 コード・テスト(モールス聴き取り)、10:15 答案提出、その場で採点してもらって合格すれば次へ、10:20 選択式テスト(70問)、11:45 答案提出、その場で採点してもらって合否判定で終了、となっています。同じ試験を受けたのは13人でした。

下は採点結果が付いた応募用紙のコピーですが、普通はもらえないものです。これは9月23日に届いたFCC(連邦通信委員会)からの封筒に入っていて、届いたときは免許証が早く着いたと喜びましたが、当日の記入漏れがあったので、チェックを入れて返送するように、とのことでした。こういうことをしてくれるのは、さすがアメリカのおおらかさと感心しました。ともかく、いい機会だったので、コピーしておきました。

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上の記入漏れ・返送があって遅れましたが、免許証は10月20日に届き、コールサインはN1CKLとなりました。アメリカの無線局コールサインは頭文字がW、K、N、A(Aは一部)となるのですが、慣れ親しんでいたWもKもGeneral Class (国の頭文字1文字+地域の数字+3文字)は品切れだったようです。でも、みなさんにNickel(ニックル)と読んでもらって、覚えやすく、気に入っていました。ニックルは5セント硬貨です。

年末にはク ルマのライセンス・プレートを作ってもらいました。
アメリカでは好みの文字・数字をプレート(Vanity Plate:見栄のプレート)にできますが、けっこう高い料金が毎年かかります。その点、アマチュア無線局のプレート(Ham Plate)は年間10ドルで、2枚もらえます。日本とは違って、車種の違いはないので気楽です。

プレートを取り付けた愛車のポンコツ、マーキュリー・モナーク’75です。しょっちゅう修理工場に持って行きましたが、ガソリンが安かったので、何とか、だましだまし、カナダ往復や大陸片道横断を含めて、13カ月で1万5千マイル(2万4千キロ)くらい走ってくれました。

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1983年6月、帰国旅行間近になって、W1AF局内でARRL(アメリカ無線連盟)が実施しているモールス聴き取りテストを受けて、20 WPM(Words Per Minute)の認定証をもらいました。これは一斉に無線放送されるコードを受信して回答を送るだけの簡易テストです。W1AFメンバーでは最低レベルですが、記念になりました。左下の20と書かれた部分はシールで、10~35WPMがあり、追加で認定されるとシールを横に貼っていくようになっています。

1983年7月1日、ケンブリッジを離れて、サンフランシスコまでの大陸片道横断ドライブの初日、南下して、コネティカット州ニューウィントンにあるARRLの本部に寄りました。ボストンから2時間ほどです。時間があれば、ARRLの無線局W1AWを運用できるのですが、帰りのない旅の始まりなので、あきらめました。
私の局名を聞いて、ARRL会員名簿を出してきてくれました。日本の局名と併記されていました。

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出発の前に、W1AW局の建物と並んで、N1CKL号の記念写真を撮りました。

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帰国時には、このクルマをサンフランシスコで廃車し、プレートは廃止手続きをして、持ち帰りました。

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アメリカのコールサインは、5年ごとの更新をしないと失効し、すぐに別の人に与えられます。帰国後も友人の住所でしばらく更新していましたが、自宅の引っ越しが続いたのをきっかけに無線をやめてしまいましたので、N1CKLも15年後には別の人のものとなりました。でも、その人はすぐに上位の資格を取得して、コールサインが変わったようです。アメリカでは資格に応じてコールサインの文字構成が変わるので、こういうことはよくあります。今はまた別の人がN1CKLとなっています。

パスカルJrの成長 2

2010年の春、雪解けの時期から、本格的な訓練が必要になりました。しかし、パスカルの訓練はむずかしいものでした。

飼い主の立場から言えば、パスカルの「問題行動」は、外で犬や猫を見つけると、異常なほどの興奮状態になることです。北海道弁では、「おだつ」と言いますが、ワンギャンと叫びながら、リードを全力で引っ張り、収拾がつきません。

パスカルは喧嘩に行こうとするのではなく、遊びたいのです。相手が驚かずに挨拶を受けてくれると、パスカルもそれなりに落ち着きます。でも、がむしゃらに向かってくるパスカルを見ると、ほぼ例外なく、相手の飼い主がびっくりしてしまいます。相手の犬の大小を問いません。獣医に連れて行くときも、待合室で順番を待つことはできず、外で呼ばれるのを待ちます。

パスカルの体重は20キロを超えましたので、この行動には困って、初めてプロの訓練士に依頼しました。普通の歩行訓練あたりは問題ありません。ご褒美もよく効きます。しかし、他の犬を見かけた途端、ご褒美のおやつなど見向きもしなくなります。これは訓練期間を通じて変化なしで、結局、ベテランの訓練士もお手上げでした。

パスカルの興奮が受け容れられたことがあります。札幌郊外に大型犬が多く来ている広大なドッグ・ランがあり、そこでの出来事です。パスカルが向かっていっても、その犬が自由に逃げたり、かわしたりできる環境であれば、一緒に追いかけっこをしながら、両方の犬が楽しめたのです。

そのときの写真(2010年11月6日)です。シベリアン・ハスキーと一緒に遊び回っています。

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パスカルは2時間以上、走り続けていました。

しかし、このドッグ・ランに行こうが行くまいが、普段の散歩での興奮は変わらないので、訓練にはなりません。パスカルには理想の環境での息抜きでしたが、そういうドッグ・ランの中で生活することはできません。

この興奮は、個体差か、幼少時の発育不良・非接触の結果か、訓練の仕方か、それはよくわかりません。訓練士も獣医も「1歳くらいで落ち着くでしょう」と話していましたが、1歳を超えても変化なく、「3歳くらいで落ち着くでしょう」というセリフに変わりました。でも、6歳を超えた今も変わりはありません。

原因はいずれにせよ、パスカルは「自然に」そうなってしまうわけですから、そういう犬を街中で飼っているという飼い主責任を自覚するしかありません。いつも散歩では、他の犬が来るのを見かけると、進む方向を変えて避けますが、パスカルが先に見つけるとたいへんです。そのため、散歩のときは首輪と「ジェントル・リーダー」という口元のコントロールが必需品となっています。

2010年11月12日、去勢手術を受けました。
エリザベス・カラーを付けて、おとなしくしているように見えますが、これではカラーが小さくて、鼻先と長い舌が手術跡に届きました。

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そこで、パスカルSrが使っていたカラーが残っていましたので、外側に付けました。

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かなり大きくて、いろんなところにぶつかっていましたが、いつもの「ヘソ天」スタイルで寝ています。

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パスカルJrの成長 1

パスカル(2009年6月20日生まれのスタンダード・プードル、オス)は、札幌時代、2009年10月にやって来ました。
事情があって、親犬と離された後、犬にとって一番大事な時期、4月齢まで縄でつながれ、散歩も一切させてもらっていませんでした。トコとは違った形ですが、レスキューしました。

色合いが最初の愛犬パスカル(ゴールデン・リトリーバー)と同じ雰囲気なので、パスカルJr(ジュニア)と名付けました。その結果、2002年に亡くなったパスカルはパスカルSr(シニア)と呼ぶことになりました。

でも、パスカルジュニアという名前は呼ぶには長すぎるし、ジュニアと呼ぶのも、じゃりン子チエを思い出してしまうので、結局はパスカル、あるいは愛称として、パースケと呼ぶことになりました。

やって来て間もなくのパスカルです。軽くカットしました。体重は9.6キロで、スタンダード・プードルの4月齢の体重は15キロくらいですから、発育不良と言える軽さです。

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ブラッシングをしていて見つけたのが、ヒゼンダニによるひどい疥癬(かいせん)です。全身にまわっていて、両耳はともに先端の皮膚が1センチ近くに肥厚していて、ボロボロです。過角化型疥癬のようです。知人の獣医に相談すると、人にもうつるので、殺処分を考えたほうがいいとまで言われましたが、とりあえずは、北大動物病院で治療を受けることになりました。イベルメクチン投与による治療です。(ちょうど、この記事を書いているときに、2015年ノーベル医学・生理学賞受賞者として、イベルメクチンの元を発見した大村智氏の名前が発表されました。パスカルも感謝しないと!)

その頃は、先住犬のショパンがいましたので、疥癬がうつらないように、パスカルを隔離しながら、治療と訓練を始めました。

急遽、日曜大工で、開閉できる柵を作りました。当分は、模型鉄道の周回はできません。さらに、本棚に入れてあった本がかじられてしまいました。

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ジャンプしたので、耳がダンボです。

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よく寝ます。でも、今は目を開けています。

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その後、2010年2月に、先住犬のショパンが急死しました。同じスタンダード・プードルでも、いろいろと大きな違いがあります。比べないように心がけていますが・・・。

2010年4月ころには、イベルメクチンの効果で、疥癬もほぼ治癒して、体重は19キロを超え、家の中ではそれなりにおとなしくできるようになりました。
カットはショパンで練習したので、自分でやりますが、パピーカットしかできません。

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テコには本気で叱られています。

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シャンプーです。パスカルは水が大嫌いで、「シャンプーだよ」と言った途端に伏せてしまいます。浴室の近くまでおびきよせて、そこからは後ろから上半身を抱えていきますが、下半身は大股開きで抵抗します。浴室に入ると覚悟して、おとなしくなります。

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2010年4月17日。階段を下りたいけど下りられないパスカルです。

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銅のアヒル 12 完成

今日(9月18日)、完成しました!

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くちばしをハンドグラインダーなどで磨いて錫の付着を取り除き、硫黄で薄く色づけしました。
その後、全体を軽く磨いて、槌目がよく見えるようにしています。
目を入れるとまったく違った作品になるので、入れないままにしました。
イメージしていた雰囲気がまあまあ出ています。これで完成としました。

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作品作りというのは、いつ作業を終えるか、という判断がむずかしいですね。
経験・技術があれば、その判断は容易なのかもしれません。
初心者でもアラはいっぱい見つけられます。でも、そのアラを修正できるかどうかは別の問題です。首筋に穴を空けたり、錫を引き直したり、作業のむずかしさがよくわかりました。
まあともかく、「完成!」と宣言するときが、完成のときですね。

今回の課題は、4月10日に始めて、9月18日に完成ですから、半年近くで、延べ60時間くらいかかりました。いろいろな作業工程を経験できましたし、鍛金というものがおおまかに理解できました。すべて指導員のKさんのおかげです。

パスカルと記念写真を撮りました。

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さて、次の課題を考えなくっちゃ!

10月25日開催の大阪市立クラフトパーク「クラフトパーク・フェスタ」に出品しました。

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ショーケースに入れてもらうと恥ずかしいものですね。

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(完)

 

銅のアヒル 11

今日(9月11日)の成果です。
今日で完成か、と思いつつ、錫がのっていない個所が多く、個別に修復を試みました。しかし、技術の無さで、かえって濃淡がひどくなり、結局、あらためて全体に錫を引き直しました。これらの作業で3時間が過ぎました。
定規を置いて撮影しましたが、色がいろいろ反射してしまいました。

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くちばしあたりは、錫が多くついてしまいました。

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来週、くちばしを磨いて、軽く硫黄で色づけをしたら、完成!になるかな?

(続く)

銅のアヒル 10

今日(9月4日)の成果です。
仕上げに入りました。
仕上げは、くちばし以外を錫(すず)でコーティングすることにしました。
先ずは、全体を重曹で磨きました。

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次に、錫がかからないように、くちばしに砥の粉(とのこ)を塗ってカバーします。

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さて、本番の錫コーティングです。錫引きと呼ぶそうです。銅製のコップなどでよく使われる技法です。
本体をバーナーであぶりながら、錫をちょっとずつ溶かして、布を巻いた棒や、布きれで延ばしていきますが、これがなかなかむずかしい作業です。半分くらいは指導員の方に手伝っていただきました。この写真は、指導員の方に手直しをしてもらっているところです。

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結果は次の通りです。

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砥の粉でカバーしても、くちばしに錫がついてしまっているとか、錫がついていないところがあるとか、いろいろと修正が必要です。
次回で完成かなあ・・・・・。

(続く)