「チャーリーとの旅」はフィクション

2021年4月13日

ジョン・スタインベック(1902-1968)の晩年の作「チャーリーとの旅」(Travels With Charley: In Search of America, 1962)はスタインベックが1960年に愛犬チャーリーと特注のキャンピングカーで3カ月にわたってアメリカを周遊したノンフィクション紀行文で、ノーベル文学賞を受けた年に出版され、ベストセラーになりました。今でも多くの読者がいると思います。初めて読んだのは翻訳本で、1987年にサイマル出版会が出した大前正臣訳(改訂版)でした。

大前正臣訳の「チャーリーとの旅」の初出は1964年(弘文堂)ですから、オリジナルが出版されてから2年後に翻訳が出ています。また、2007年には別の訳者の本(竹内 真訳 ポプラ社)も出版されています。

アメリカの路上文学は好きで、いろいろと読みましたが、この本が特に楽しかったのは、スタインベックと同行した老犬チャーリーがスタンダードプードルだったことです。学生時代に読んだコンラート・ローレンツの「人 イヌにあう」でプードルを知って、「チャーリーとの旅」を読んで、スタンダードプードルを飼うことになりました。昨年亡くなったパスカルJrは我が家で2頭目のスタンダードプードルでした。

さて、サイマル出版会の「チャーリーとの旅」の裏カバーには次のように書かれています。
「ノーベル賞作家スタインベックは、アメリカ再発見を志し、愛犬チャーリーを連れて、自らキャンピングカーを運転するアメリカ一周の旅に出た。この作品は、その時の孤独と模索の旅行記で、文豪一流のユーモラスな筆致で迫る”変わらざるアメリカ”の姿は、凡百のガイドブックにまさる、アメリカの本質への案内でもある。」

また、シカゴ・トリビューン、ボストン・ヘラルド、朝日新聞、毎日新聞などの書評も記載されていて、いずれも旅の記録として見事な筆致という雰囲気で絶賛しています。

私ももちろんノンフィクションとして読みましたし、読後感想として、1983年にアメリカ横断ドライブをする前に読んでいたら、ルートを少し変えていたかもしれないと思ったほどでした。

ところが最近、プードルのことをネットで調べていたら、もちろん「チャーリーとの旅」がヒットするのですが、その中で気になる話題を見つけました。スタインベックはチャーリーと旅をしていなかったという記事です。

最初に読んだのは”Reason”というネット上のフリー・マガジンでした。アメリカのジャーナリストBill Steigerwald氏が2011年春に書いた記事(英語)で、タイトルは「ごめんね、チャーリー(Sorry, Charley!)」となっています。

Steigerwald氏は半世紀前にスタインベックが見聞きしたアメリカ各地での風土・文化を調べるために、自分自身で「チャーリーとの旅」の1万マイルのルートを辿り、日程を確認していったそうです。それで明らかになったのは、スタインベックが描写した場所・場面、人との交流の記述がスタインベックの当時の行動記録とほとんど一致せず、架空の描写であると判断せざるを得なくなったというものでした。

このReasonの記事は、Bill Steigerwald氏自身の著書「Dogging Steinbeck: Discovering America and Exposing the Truth about ‘Travels With Charley’, 2012」(未読)の抄録だろうと思われます。

この話題はWeb版のThe New York TimesにCharles McGrath氏の署名記事(2011年4月:読むにはアカウントが必要)で紹介されています。こちらの記事のほうがカラー写真も入っていて、よりわかりやすく書かれていました。

McGrath氏の記事では、ジョン・スタインベックの息子に確認したところ、父は購入したキャンピングカーでの旅行などしておらず、自宅に置いたキャンピングカーの中で原稿を書いていただけと証言しています。

もう10年も前の記事ですから、これが事実だったら日本でもそれなりの議論と解説が出ているだろうと思って、日本語でネット検索をしてみましたが、何も見つかりませんでした。

友人のアメリカ文学の専門家に聞いてみました。彼はスタインベック研究者ではなく、また「チャーリーとの旅」も未読だったそうですが、日本のスタインベック学会で「チャーリーとの旅」についてのフィクション疑惑の話題は聞いたことがないということでした。でも、フィクションのほうがスタインベックのアメリカ像を表現しているのでは、というご意見でした。

Wikipedia(英語版)にも「チャーリーとの旅」の話題が取り上げられていました。当時のスタインベックは体調も優れず、チャーリーだけを乗せて3カ月のキャンピングカーでの旅行は無理だったようです。未見ですが、原書2012年版にはそういう解説が載っていると書かれています。

ともかく、久しぶりに「チャーリーとの旅」を読み直してみました。上記の情報から私の読書態度が変化しているのは否めませんが、確かに実際の旅をしている時系列での描写という流れはあまり感じられなかった一方、取り上げられているエピソードは具体的で読み応えがありました。最後のテキサスやニューオリンズあたりの話題は、21世紀の読者にとってはステレオタイプ的要素が濃いように思えますが、それは60年を経た昨今でもアメリカ文化の根にあるように感じます。

晩年には作家として行き詰まっていたという批評もあるようで、少し様態を変えた叙述を試みたのかもしれません。その点では、こういうノンフィクションらしいフィクションを書き上げたのがスタインベックだったのだろうと今は感じています。個々の文化論トピックは時系列とは無関係のノンフィクションで、紀行文としての記述の様態がフィクションだったと言えそうです。

フィクションを実話の紀行文であると明記したことが問題なのでしょうね。これはフィクションですと明記すれば、ほとんど実話でもかまわないようですが、逆は許されないのかもしれません。Steigerwald氏がfraud(詐欺)という言葉を使っているのはそのことを示しているようです。

でも、「チャーリーとの旅」での地元民との会話は存在しなかったとしても、スタインベックがいつかどこかで地元民と会話して、それらを整理したものであれば、それはノンフィクションと言ってもいいように思えます。「怒りの葡萄」はフィクションですが、その時代のアメリカを切り取った文化論としてはノンフィクションと言える、というのと同じ構造なのかとも思います。小説にフィクション・ノンフィクションの厳密な区別をつける必要はなさそうです。

スタインベックの「チャーリーとの旅」がフィクションだとわかってから読み直してみても、私の愛読書の位置づけの変化はありませんでした。スタインベックの創作としてそれだけの内容を持っているとあらためて感じました。スタインベック自身がフィクションだと書いておいてもかまわなかったと思いますが、60年前の話ですから、どちらでもいいような気もします。

旅行に連れて行けなくてゴメンネ、となったチャーリーはドライブ好きで利発なスタンダードプードルだったようです。私が「チャーリーとの旅」を読んで選んだ最初のスタンダードプードルのショパン、その後のパスカルJr、どちらもドライブが大好きでした。長距離ドライブはしていませんが、一緒に過ごした長い時間を思い出します。

 

春の庭作業

2021年4月12日

1.モッコウバラのアーチ
門扉の横に5年ほど前に植えた白のモッコウバラがとっても繁茂しています。

毎年よく伸びるので切っていましたが、もったいないので、アーチを作ってみようと思いつきました。4月2日、百均ショップで園芸用ポール(16mm径)や継ぎ手を、DIYショップでアーチを買ってきました。ステンレスの取り付けサドルなども含めて1,500円くらいでした。

アーチ(11mm径の5本セット)は一番大きなものですが、それでも少し狭いので、門扉の幅に合わせて拡げ、4本をスペーサーで固定しました。

両側の壁面にサドルでポールを固定し、アーチを結びつけました。0.8mm径のステンレス針金で補強しています。これはモッコウバラが生えている側です。

翌3日に完成しました。作業時間は延べ5時間ほどでした。その後に両側のポールを短く切り、壁面の色に合わせて塗装しました。モッコウバラの枝先はアーチの半分以上に届いています。来年には全体を覆うことを期待しています。

2.樹木伐採
4月7日、アーチを作ってから前庭を眺めていたら、狭い場所なのに高い木が2本そびえています。引っ越してから数回枝払いをしましたが、10年ほどで2倍くらいの高さになっています。

右はマキ(イヌマキ)ですが、左側は名前もわかりません。左側の木を思いきって根元近くまで伐採しました。小さな電動のこぎりを使って枝と幹を徐々に切り分けていく方法です。伐採作業時間は30分くらいでした。

これでやっと後ろにあった乙女椿が外から見えるようになりました。まだ少し花が残っています。

3.マキの切断
こうなるとイヌマキが巨大に見えてきます。4月9日、伐採作業に慣れてきたので、玄関屋根くらいの高さに切ることにしました。

このマキの幹は太くて枝が多いので、切り取る場所から上の枝を下から順番にすべて切っていきます。

葉のある枝をすべて切り取ってから、幹を上から40cmくらいずつ切り落としていきました。

1時間足らずで切り取り完了です。一週間ほどですべての作業が終わりました。

すっきりして夏を迎えることができそうです。

 

PCの電池交換

2021年3月8日

10年くらい前のデスクトップ・パソコンを模型室に置いています。クラフトロボでの紙の切り取り、DCCの設定確認作業、工作中にNASにアップしている写真や図などのチェック、そしてNASからのBGM用です。

去年の2月にWindows 7を10に更新しましたが、今日、マザーボードのボタン電池を交換しました。これまで何回かやっている簡単な作業ですが、数年に一回くらいの頻度で普段と違うコンピュータの画面が出ると、「あれ!なにこれ?」と驚いてしまいます。

電源を入れると、最初にASUS(マザーボードのメーカー)のロゴ画面が出ます。

普段は数秒するとWindows 10のロゴに変わってWindowsが立ち上がります。でも今日はUEFI (Unified Extensible Firmware Interface)という機器構成などの設定編集に入る画面が出て、そのままで止まってしまいました。これは最初のASUSロゴ画面の状態でF2を押したときと同じです。

あれ!なにこれ?、何かトラブル発生かと思って、F1を押すと、UEFI(BIOS) 編集の画面が出ます。

画面の左上に時刻と年月日が出ていて、2009年1月1日の0時0分38秒となっており、時刻の秒は進んでいきます。初期状態で電源が入ってからの時間で、要するにマザーボードがリセットされたことを示しています。

これはたいていの場合、マザーボードのボタン電池が消耗したというサインですね。ボタン電池を交換しても症状が治らなければ、いろいろ面倒なことが起こっている可能性があります。

ボタン電池へのアクセスがいいかどうかを調べるために横の蓋を開けると、CPUファンの下に見えていました。常備しているCR2032なので、すぐに交換しました。このPCで電池交換をしたことがあったかどうか記憶にないので、今回は電池にマジックで年と月を書き入れておきました。

交換してから電源を入れたら、いつものようにWindowsが立ち上がりました。念のため、いったん電源を落として、十分に内部の電荷を無くしてから、再度電源を入れて、BIOS編集画面を出したら、日時はネット上から取り入れられて、キープされていました。

この段階の日にちはWindows 10の更新があった3月4日になったままですが、Windowsの設定で同期させると実際の日時になりました。

ボタン電池交換はデスクトップ(ミニタワー)PCなので簡単な作業ですが、それでも、PCケースの蓋を開けたことのない人にはそれなりのトラブルになるでしょうね。

このボタン電池はコンピュータの電源を切っても、日時やUEFI BIOSの変更状態を保持するために使われていて、3年以上は持つようです。最新のPCでもこういう電池が入っています。

電池を外した段階で、そのままWindowsを立ち上げる操作(BIOSの変更無しで編集から出る)をやってみたのですが、Windowsは問題なく立ち上がって動きます。ということは、このPCはBIOSが初期状態に戻ってもかまわない構成になっているわけで、変更状態を維持するための電池は不要な気がします。にもかかわらず、UEFI編集画面をスキップしてWindowsを立ち上げる方法を見つけることはできませんでした。スキップできれば、日時の同期(取得)はWindowsで設定可能だと思います。

ノートPCの場合は主電源としての内蔵バッテリーがあるので、内蔵バッテリーが完全に消耗しない限り、ボタン電池は不要だと思いますが、それでもやはりたいていのノートPCにもボタン電池は入っていて、その交換はとても面倒なことが多い(手間・費用)ようです。Macにもボタン電池は入っているようですね。

テレビやクルマのリモコンにも電池が入っていますが、電池が消耗したらリモコンが効かないのですぐにわかります。でも、電源を入れて動くコンピュータに使い捨てのボタン電池が使われているのを知っている人は少ないにもかかわらず、その消耗を知らせる明示的なメッセージが出てこないのは不思議(不親切)です。

現在は3台のPCを使っていますが、すべて待機電流を流さないように、使用を終えたら電源を完全に切っています。これはどちらがいいか議論があるようですが、待機電流を流しておけばボタン電池の寿命は長くなるようです。それでも何年か経てば必ず寿命が来てしまいます。

百均で2個入りが売られているボタン電池のために、数年に一回、忘れた頃に「あれ!なにこれ?」と驚かせ、交換の手間をかけさせるのはやめてほしいなと思います。マザーボードからボタン電池を無くしてもらいたいのですが、今でも何か乗り越えられない半導体技術の壁があるのでしょうかね。交換不要の充電池でもよさそうで、マザーボードの追加コストが千円くらいならかまわない気がしますけど、充電池にも寿命はあるので、PCを長く使うと同じことかもしれません。

サクランボが満開

2021年3月3日

今年も庭のサクランボ(桜桃)が満開になりました。昨日は春一番で少し散りましたが、今日が一番の盛りのようです。

メジロがやって来ました。

蜜を吸っているようです。

ここ2年はサクランボの実が(ヒヨドリに食べられずに)多く残り、ジャムを作ることができました。庭のサクランボはこれ1本だけなので、自家受粉する品種だと思いますが、今年は虫が少ないようで、メジロだけではどれくらい受粉して実になるのかわかりません。風だけで自家受粉できるのか、受粉の仕組みはよくわかりませんが、5月に確認できそうです。

 

4. TDM850

2021年3月3日

1995年、オートバイから5年ほど離れていましたが、その間も「西独 MOTORRAD Katalog」の日本版「日本と世界のオートバイ最新カタログ」(成美堂出版)は毎年買っていました。

春になって、中古バイクショップで見つけたヤマハ TDM850(1992年に日本登場の初期型4EP)を手に入れました。SRX600と同様に、1年落ちで走行5千キロ以内くらいの中古車がいろいろな面でリーズナブルと思ってしまいます。

初めての水冷エンジンで、4サイクルDOHC 2気筒849ccという大きめのオンロード・バイクですが、ラリー仕様っぽく作られています。

360度クランクの2気筒エンジンはなかなかトルクフルで力強い吹き上がりでした。

SRX600に続いてのヤマハですが、TDM850に決める伏線はいくつかありました。次に乗るオートバイとして、SRX600で寒い思いをしたので風防がほしかったし、キックスターターだったので、右折するときにエンストして道路の真ん中でキックしていて恥ずかしかったことがあり、セルフスターターがほしかった、という2つの装備が基本条件でした。

別の伏線としては、パリ-ダカール・ラリーが好きだったので、1991年にサンタバーバラのバイク用品店に入ったら、ライダー用の革ジャケットで有名なドイツのハイン・ゲリッケ(Hein Gericke: 2016年に倒産)製のダカール仕様が格安でサイズがぴったりだったので衝動買いしたこと、1994年の大晦日に家族とスペイン旅行でグラナダの夜を散歩していて、その年(翌1995年1月1日スタート)からダカール・ラリーのスタート地がパリからグラナダに変わっていて、前夜祭に遭遇したこと、そしてTDM850の原型となったヤマハ YTZ 750 スーパーテネレのダカール・ラリー仕様(YZE 750Tと850T)がパリ-ダカール・ラリーで前年を除いて連勝していた(その後も連勝が続いた)こと、などがありました。

1994年の大晦日、ダカール・ラリーのグラナダ出発の前夜祭で何とか撮れたスナップです。周りには人がいっぱいいました。ヤマハを見つけるのは無理でした。

TDM850はSRX600より50kg以上重く、重心が少し高いようで、押したり引いたり回したりには体力と用心と慣れが必要でしたが、立ちごけはしなくなっていました。足付きもそれほど悪くなく、とても楽で安定していました。2本出しマフラーは初めてです。

セルフスターターは楽で気持ちいいですねえ。これ無しのオートバイには乗れない気分になりました。でも、2気筒のTDM850では路上でエンストした記憶はありませんし、このころはフルフェイスのヘルメットと革ジャケットなどで武装していて、高速道路には乗らないので、風防・カウリングの効果はよくわかりませんでした。SRX600で走った日本海オロロンラインをTDM850で再体験したかったのですが叶わず、今でも残念に思っています。

時々の通勤と定番の当別町ワインディング・ロードを楽しんでいたTDM850ですが、5年目の2000年春の初ライドで、いつものカーブでいつものライン取りができない感覚を持つようになりました。走行不足と運動不足だったと思います。前年くらいから仕事が忙しくなり、家では犬(パスカルSr)と遊ぶ時間を持つのが精一杯で、オートバイに乗る機会がめっきり少なくなっていました。当分は忙しさが続く予定だったので、大事を取って、しばらくオートバイをやめることに決めました。

TDM850は乗ってもらえる友人に業者の買取価格で買ってもらいました。彼は自分で整備もやって、10年くらい乗ってくれたようです。

TDM850はヨーロッパで人気が高かったようです。ヨーロッパ仕様(型式3VD)はエンジン特性が少し違いますが、基本は同じです。YouTubeでTDM850の動画を観ていて、ぶっ飛ばしている動画が多い中、初期型で一番穏やかな走りをしているイギリスの映像を共有リンクさせてもらいました。車載カメラ(オーディオ)のテストのようです。音が出ます。

オートバイはいずれまた再開すればいいと思いつつ、年月が過ぎていきました。10年ほど経って大阪に戻ってからは混雑した道路をオートバイで走る気にならず、いつの間にかオートバイから離れて20年が過ぎてしまいました。ライダーとしての楽しみは終わったようです。

オートバイに乗っていたのはトータルで10年くらい、走行距離は延べ2万キロくらいでしょうか。幸いにも走行中の車両トラブルや事故は一度もありませんでした。もっと長くいろいろなオートバイに乗ってみたかったものの、遊びの時間は限定予算の配分ゲームみたいなもので、オートバイへの配分はこれが限界だったのでしょう。

今でもオートバイの話題はインターネット上で眺めています。クイックシフターが出てきて、とうとうホンダがDCT(Dual Clutch Transmission)を搭載した大型オートバイを出しました。現在乗っているクルマと同じ構造の自動変速機ですが、さて、オートバイでオートマを選ぶかな?と不要な悩みを持ちながら観ていました。

オートマといえば、ハーレーも電動オートバイを出してきました。電動ではギア・クラッチのみならずガソリンタンクも不要なので、ニーグリップはどうなるかと気にしていたら、ガソリンタンクそっくりの充電ポートカバーが付いています。

また、前二輪なのにリーン(傾斜)できる高機能の三輪モーターサイクルも出てきました。ヤマハのNIKEN(二剣だそうですが、ナイケン)です。ちょっと武骨な感じを受けますが、気軽にツーリングを楽しめそうです。三輪(Three-wheeler)なので、和製カタカナ英語のオートバイ=Auto-Bi(cycle)は使えなくなります。バイクかトライク(trike=tricycle)かで区別するのも面倒なので、やはりこれからはモーターサイクルと呼ぶのがよさそうですね。

時代は変わりつつありますが、モーターサイクルへの興味は続くでしょう。でも今後は映像を観るだけにして、地道に自転車を楽しむことにいたしましょう。

(完)

3. アメリカのM1免許

2021年3月2日

1990年8月、カリフォルニア州サンタバーバラでフィエスタ(スペイン祭)の警備に来ていた白バイ隊員にいろいろと話を聞いていました。

この頃のカリフォルニア州の白バイはカワサキのKZ1000Pでした。このシリーズのオートバイは日本でも放映されたテレビドラマ「CHiPs:白バイ野郎ジョン&パンチ」でお馴染みでした。もちろん彼も観ていて、交通警察官になったのはその影響もあったと笑って言っていました。

アメリカでの長期滞在では中古車を買うため(保険に入るため)に自動車免許を取らなければなりません。10年前と同様に自動車免許をすぐに取得して、ホンダ・シビック・シャトルを購入して乗っていました。

翌1991年3月、仕事が一段落して1週間ほど休めることになり、オートバイの免許を取っておこうと思い立ちました。アメリカでオートバイに乗る予定はなかったのですが、好奇心と後学のためです。オートバイ免許には2種類しかなく、クラスM2が150ccまでのモペッドやスクーターなど、クラスM1が日本の大型自動二輪免許に該当しますので、M1を受けます。

近所にあるDMV(Department of Motor Vehicles:自動車の登録と免許を扱う役所)に行って、自動車免許と社会保障番号(Social Security Number)を見せて申請し、その場で簡単なペーパーテストを受けて合格したらオートバイの仮免許をもらえます。これで路上運転練習(夜と高速道路はダメ)して技能(実技)試験を受けることができます。国際免許でも可能だと思います。技能試験は予約制です。

自動車免許と同様に、オートバイ免許でも技能試験を受けるためには自分でバイクを用意しなければなりません。レンタルバイク店を探しましたが見つからず、住んでいたゴレタ(Goleta:サンタバーバラの隣町)にあったゴレタ・ホンダ(ホンダオートバイ専門店)を訪ねて、店主のおじさんにM1免許取得のためにバイクをレンタルさせてもらえないか、と尋ねてみました。すると、レンタルはしてないけど、スクーター(ホンダのフリーウェイ 250cc)を無料で貸してあげるよ、とびっくりするような返事をいただきました。技能試験にはヘルメットも必要だから貸してあげるとのことでした。

ご好意に甘えて、ヘルメットとフリーウェイ 250を4日ほどお借りしました。

アパートの駐車場でシビックの前に駐輪した後ろ姿です。ホンダが並びました。

これで技能試験を受けることができます。自動車の技能試験は一般道路上で試験官が同乗して行われますが、オートバイの技能試験はもっと簡易です。カリフォルニア州ではDMVの一角に、円と直線が描かれたオートバイ技能試験用コースが設置されています。

下調べのときの写真です。オートバイ技能試験コースの上に駐車しています。試験をしていない時間は自由に立ち入りできて、試験(受験者)は少ないので、ほとんど空いています。シビックの後方にあるのがDMVの建物です。

DMV発行の冊子に載っているコース図の模写です。二重直線の間隔は1フット(=30cm)、二重円(同心円)の間隔は2フィート(=60cm)、円の外側の直径は24フィート(=7.3m)です。2つの二重直線の間にある丸はコーン置き場です。

技能試験では最初にオートバイのスイッチ類(エンジンの始動・停止や灯火・ホーン)の機能(知っているかどうか程度の)チェックがあり、それから走行します。2つの二重直線の中央に立てた5本のコーンの間をスラロームしてから二重円の線内を2周してスラロームで戻ってくるのを左右1回ずつ、一方の二重直線の線内からスタートして二重円の線内を2周して別の二重直線に戻ってくるのを左右1回ずつ、以上だけです。どれをするかはその場で指示されます。何も免許を持っていない場合は観察テストというのが加わって、試験官が見える範囲で、一旦停止などのあるDMVの敷地内外を周回させられます。

前輪が二重線をはみ出す、足を着く、コーンを動かす、観察テストで一旦停止ルールを守らない、などで失格になります。失敗しても、一回の試験費用(30ドルほど)で日を変えて3回受験できます。それでもダメならまた試験費用を払うことになります。

簡単なコースなのですが、お借りしたスクーターは無段変速でクラッチが無く、ニーグリップもできないので、正確に円を回るのはけっこうむずかしく思いました。スーパーカブに乗っていた頃なら簡単だったかもしれません。試験前日にコースで30分くらい練習したら、まあ問題なく回ることができました。

技能試験の動画はYouTubeにいろいろとアップされていますので、短いものを共有リンクさせてもらいました。この動画はカリフォルニア州の走行試験の一部だけですが、なかなかカジュアルな雰囲気の試験官で、楽しそうです。音が出ます。

技能試験の方法は州によって異なります。かつて住んでいたマサチューセッツ州のテスト風景(共有リンクしたYouTube動画)を観ると驚きます。基本は同じようですが、内容はずっと大まかだし、場所はショッピングモールの駐車場で、固定のコースではありません。駐車場内の一般車両や通行人が通る場所です。それに受験者のバイクがハイ・ハンドルというのも大したものです。各州の独立性とアメリカ合衆国のおおらかさを感じます。これも音が出ます。

さて何とか、1回の受験で合格しました。DMV事務所でM1免許を取得したという紙を免許証の裏にホチキスで止めてくれました。

ホチ止めの証明書は有効2カ月なので、その間に免許証を作り直してもらいます。その後の免許証には普通自動車Cと合わせて「CLASS: CM1」と記載されるようになりました。免許証の上の部分だけの写真です。

すぐにゴレタ・ホンダまでワインを持参して無事に合格できた報告とお礼に行きました。記念撮影です。大感謝です。残念ながら、この店は現在はなくなっているようです。

この時にしていたベルトとバックルが今回のレザークラフト入門の素材でした。

「4. TDM850」へ続く

2. CD50とSRX600

2021年3月2日

1980年に札幌に移りました。オートバイには乗っていませんが、好みのオートバイを見かけると近寄ってしまいます。これは1982年、アメリカ滞在中に撮ったスナップです。ボストンPDの白バイで、ハーレーのロードキング(Harley-Davidson Road King)ですね。

1987年、北海道の道路は二輪で走ると楽しそうで、そろそろオートバイを、という気分になっていました。雪解け時期に立ち寄った小さなバイクショップで古いビジネス用オートバイ(ホンダのベンリィ CD50)がありました。古いけど手入れが行き届いていたので、これは売り物ですか、と聞いたら、店主のおじさんが、自分が使っているのだけど、売ってもいいよ、という返事で、昔にスーパーカブを売った値段より安かったので衝動買いしてしまいました。二輪車操縦の基礎を練習しておきたかったのです。

20年ぶりの原チャリ(第一種原動機付自転車)ですが、スーパーカブと違ってCD50にはクラッチがあり、ガソリンタンクも前にあります。クラッチの操作とニーグリップ(ガソリンタンクを膝で挟む)というオートバイの基本を練習できます。スーパーカブと同様にパワーはありませんが、それがかえって気楽なので、解説書を読みながらいろいろな乗り方を練習しました。

自宅が新規宅地造成地にあり、造成区域内には舗装道路があっても住宅のないブロックが多く残っていて、見晴らしが良く、オートバイの練習にはぴったりでした。

CD50を1年(北海道では4月から10月まで)乗り回して慣れると、大きいサイズのオートバイが欲しくなってきます。まあ、大きいサイズに乗りたいから練習したのですけど。翌年の春にいくつか中古バイクショップに入ってみました。

一目で気に入ったのが1年落ちのヤマハSRX600(1985年登場の初期型1JK、車体のロゴ表記はSRX6)でした。単気筒でキックスターターはこれまでの原チャリと同じですが、10倍以上の排気量で、前後とも油圧ディスク・ブレーキ(前はダブル)です。

1988年、CD50(右)は若い後輩に譲ることになって、お別れの日です。SRX600のサイズはCD50より一回り大きいくらいです。

通勤するようになりました。職場で着替えます。

608ccの空冷4バルブOHC単気筒エンジンは独特の音と振動があり、加速も原チャリとは比べものになりません。軽量で取り回しも良く、オートバイに乗っている楽しみを存分に味わうことができました。軽量といっても、車重はCD50の2倍(170kg)あるので、最初の1週間だけですが、数回、車体を支えきれない立ちごけ(エンジン停止中の不注意による転倒)はありました。

この頃に使っていたベルトをレザークラフト入門で取り出してきました。自作スマホホルスターと相性はとても良さそうです。

休日には、自宅からアクセスしやすい石狩川河口へ、国道231号に乗って浜益から山に入り、当別町の山林地帯のワインディング・ロード(現在の道道28号の旧道)を走って、山奥に見つけた喫茶店でコーヒーを飲んで帰るという、150kmほどで4時間程度のコースを定番にしていました。

遠出は一度だけ、夏のある日の午後、「利尻島に沈む夕陽を見たい」と唐突に思い立ち、石狩湾から日本海沿いでサロベツ原野(稚咲内)まで走りました。今は「日本海オロロンライン」と名付けられています。自宅から約270km、5時間ほどのルートです。日差しが強く、薄いジャンパーで爽やかな風を楽しめました。

海岸線を走る国道231-留萌-239-232-天塩町-道道106号線は自動車の往来や信号が少なく、ゆるい起伏やカーブが多く、留萌からは草原のワインディング・ロードの印象です。定番コースの山林地帯と違って見晴らしが良く、長い直線区間では速度に注意しつつも、利尻島に沈む夕陽に間に合いました。でも、カメラを持ってくるのを忘れました。

しばらく夕陽を眺めていましたが、北海道の夏は日の入りが遅く、午後7時を過ぎます。そして、日が沈むと急速に気温が下がってきます。夜にネイキッドのオートバイで30分ほど走ると、薄いジャンパーだけでは寒さで身体がガタガタ震えてきました。耐えられずに、途中の小さな町で雑貨店を見つけて農作業用のビニール合羽上下を買って何とかしのぎました。

寒さに加えて、真っ暗なカントリー・ロードでは、ヘッドライトめがけて大量の羽虫が飛んできます。ヘルメットのシールドスクリーンに当たって前が見えなくなり、何度も停まって拭く必要がありました。留萌からは内陸に入り、疲れ切って帰宅できたのは深夜12時を回った頃でした。

一般道540kmを休憩・食事も含めて12時間ほどで走ることができる北海道でのツーリングは昼間はとても快適ですが、夜の寒さや虫への対策が必要だと身に沁みてわかりました。あるいは、日暮れ前に帰宅することです。

1990年夏から再びアメリカに長期滞在することになり、2年ちょっとしか乗っていませんが、いったんSRX600を手放すことに決めて、バイク好きの学生さんに譲りました。

アメリカでSRXを見かけたことはありませんが、サンフランシスコ近郊で1986年式のSRX600を最近まで乗っていたという動画がYouTubeにアップされていたので、共有リンクさせてもらいました。金門橋が見える夕陽の道です。日本海オロロンラインを思い出しました。音が出ます。

「3. アメリカのM1免許」に続く

1. スーパーカブ C105

2021年3月1日

レザークラフト入門実習で古いベルトやバックルを触っていたら、オートバイに乗っていた頃を思い出しました。オートバイが好きで、ポツダム免許をもらって楽しんだというだけの話ですが、思い出話は長くなるので、4回ほどに分けます。

オートバイに興味を持ち始めたのは小学生時代です。父が大阪・周防町(現在はアメリカ村)の店でオートバイを使っていて、そのメカニカルな構造が見えるのが好きで、遊びに行くたびにまたがって、早く運転してみたいと思っていました。

この写真(1960年頃)に写っているオートバイを調べてみると、山口自転車のビジネス用オートバイ「ヤマグチ スペシャルスーパー330(120cc)」のようです。右手前のスクーターはシルバーピジョンですね。左手前の自転車の後輪に排気管が見えています。これはタイヤを回す小さなエンジンが付けられたモーターバイク(モペット)で、牛乳配達などによく使われていました。向かいの事務所の前にもオートバイがあります。

戦前からあった大型オートバイの陸王やメグロ(目黒製作所→カワサキ)などは高価で、商品配達の用途には適さなかったようです。戦中まで航空機などの製造に携わった会社が戦後の生き残りのために手がけたのがオートバイだったそうで、川西飛行機のポインターから三菱のシルバーピジョン、中島飛行機のラビットなどが加わり、一時期は日本の二輪車メーカーが乱立(120~150社くらい)していたようですが、その後に世界レベルで残ったのは現在の4社だけでした。

中学生の頃、おやつのチキンラーメンを食べながら観ていた「テレビ名画座」でジャン・コクトーの映画「オルフェ(Orphée, 1950)」をやっていました。ストーリーはよくわからないまま、死神の助手を務めていた2人のオートバイ・ライダーの姿に魅せられました。

今はYouTubeにオートバイが出てくるシーンがアップされているので、共有リンクさせてもらいました。音が出ます。

THE VINTAGENT によると、2台のオートバイはインディアン(アメリカのオートバイ・メーカー:Indian Motocycle)の1937年のChiefと1940年のSport Scoutだそうですが、違いはなかなかわかりません。どちらも変速は右手のマニュアル(クラッチは左足)で、自動車と同じですね。

日本でも2人のように振動から脊椎や内臓を守る幅広のキドニーベルト(Kidney belt)を付けて乗っているライダーがいました。今はオフロードくらいでしょうが、当時は未舗装の道路が多く、エンジン振動も大きくて、上下動がひどかったのでしょう。高校1年のクラス担任の先生がそんな姿でメグロのZ7に乗って通勤していて、ヘルメットは飛行機乗りのような革製でゴーグルが付いていました。ずっと後にアニメ映画「紅の豚」を観て、失礼ながらそっくりでした(太さではなく雰囲気が、です)。

16歳になった高校1年修了後の春休みに軽自動車運転免許を取りに行かせてもらいました。軽自動車免許で軽四輪のみならず、250cc以下のオートバイに乗ることができたからです。

その頃の自動車学校は2週間ほどの連日講習で、10人ほどのクラス単位になっていました。現在の合宿制みたいです。毎日顔を合わせるので、みんな仲良くなり、教習内容を教え合っていました。運転練習車は初代マツダ・キャロルでした。技能試験は免除で、学科試験は京阪・古川橋までみんな一緒に受けに行きました。全員が合格して、自動車学校近くの大鳥大社で一緒にお祓いを受けたことを覚えています。

免許取得までの日程が高校2年次の授業開始に少し食い込んだので、新しいクラス担任に免許取得のために数日欠席すると伝えて叱られましたが、待望のオートバイ通学を実現することができました。当時は通学に自転車でもオートバイでもかまわなかったというおおらかな時代でした。

免許を得て最初の愛車となったのは現在も生産・販売が続いているホンダのスーパーカブ55(Super Cub 55)でした。1958年発売の初代C100(50cc)をボアアップ(排気量を増加)したC105(54cc)で、OHVエンジン最後のモデルだったと思います。50ccを超えるので第二種原動機付自転車の枠になり、後輪のフェンダー(泥よけ)に白い三角形マークが入って、二人乗りができます。

近所を走っている写真です。国道・府道以外はほとんどが未舗装でした。

スーパーカブはスクーターに近い構造です。ガソリンタンクは座席の下にあり、ホンダが開発した自慢の自動遠心クラッチが付き、左グリップにクラッチレバーはありません。変速(3速)は右グリップのスロットル(アクセル)を戻して左足でギアチェンジペダルを踏みます。左手の操作が無いので、出前で岡持ちを運べますという広告がありました。半世紀以上前ですが、そのゆっくりした加速の感触と音を今でも覚えています。

風防を取り付けてもらっています。まだヘルメット着用の義務や慣習はなく、しばらくは学帽で、その後はお椀型ヘルメットを被っていました。遠出することはなかった高校生活でした。

大学生になってから乗る機会が少なくなったスーパーカブは3年くらいで売却しました。その頃、軽自動車免許が廃止されることになり、1968年までの特例措置として、自動車教習所で何時間かの学科講習を受けると普通自動車免許に変更できることになりました。近所の教習所の夜間特別クラスに通って手に入れた普通自動車免許証を見ると、軽の免許取得日で排気量制限無しの自動二輪免許も付いていて、ラッキー!という気分でした。

この措置で得た自動二輪免許はポツダム免許(ポツダム宣言受諾後の1945年8月15日以降に実績なく士官に進級させてポツダム少尉と呼ばれた例から)と呼ばれました。1965年に決まった免許区分変更によるもので、軽自動車免許保持者は追加講習によって普通自動車免許に変更、また、普通・大型自動車免許保持者は自動二輪免許を受けたとみなされる、という話です。この措置を受ける最後の年齢だったようで、これが20年後に役に立ちました。

「2. CD50とSRX600」へ続く

ちょっとレザークラフト

2021年2月15日

いきさつ
これまでスマホをズボンの後ろポケットに入れる習慣になっていました。そのせいかどうかわかりませんが、2017年春、2年ほど使っていたアンドロイド機が連絡先に登録していた数人に次々と電話を発信するという事件が起こりました。勝手に発信してすぐに切るという異常でした。何人かから何事かという電話をもらって判明しました。

本当の原因は結局わからなかったのですが、そのスマホを使い続ける気にはならず、SIMフリーのiPhone SE(初代)を翌5月に購入しましたが、後ろポケットに入れる習慣は変わりませんでした。その結果(かどうかわかりませんが)、2年後にバッテリー不調によりバッテリー交換となり、そして購入後3年半の今年に入って、画面の一部に青い色が出て消えなくなり、同時にバッテリー不調が再発しました。

今回のバッテリー不調はとてもひどく、1週間後には充電がほとんどできなくなりました。画面の一部に色が出る症状は古いバッテリーが膨れてきた場合が多いようですね。画面を押してみると色の変化は拡がります。後ろポケットに入れて圧力がかかり続けた結果のような気がしてきました。

急いでスマホの買い換えが必要になり、ネットで調べてみました。外出時はiPad miniをバッグに入れているので、スマホは小さいほうがいいという選択肢です。新しいiPhone 12miniが魅力的でしたが、高価すぎたので、穏当なiPhone SE2(第二世代)に決めてから、某MVNOで2割引になるのを見つけて、注文(MVNOの乗り換え)しました。

ギリギリのタイミングでSE2が届いて、瀕死のSEからアプリ・データを引っ越しすることができました。以前のスマホの誤作動、3年半で壊れたSEを考えると、これからはスマホを後ろポケットには入れないで、同じような位置にベルト装着のケースで携帯することに決めました。

本題です。
ベルト装着用のスマホケースはいくつか出ていて、SE2(iPhone 8サイズ)専用ではないものの、軽くてサイズが合うもの(700円ほど)を買ってみました。縁の綴じ糸は白だったのですが、マジックで赤く塗りました。

フラップが磁石による接着なので、開閉はとても軽くていいのですが、少し縦に長く(1.5cmほど)、そして一番の問題はベルト装着の帯が真ん中に付いていることでした。1週間ほど使ってみてわかったことですが、スマホが数センチほどベルトより上になってしまいます。スマホを取り出すために肩と肘を大きく曲げなくてはなりません。

ということで、レザークラフト入門の始まりです。余っていた革でベルト装着用の帯を元の帯の上に取り付けてみました。ポンチで穴を開けて、2つのカシメで固定しました。カシメの内側には薄い革を貼っています。

これでスマホがベルトより下になり、スマホの出し入れがずっと楽になりました。ただ、革が薄くて柔らかすぎるので、厚い革でやり直してみたくなりました。

その一方で、普段使いのベルト(3cm幅)が穴1つ分ほど短くなっている(胴囲が延びている)こと、ベルトの革もくたびれていること、バックルは好みであること、などから、この古いベルトでスマホのホルダーを作ってみようと思い立ちました。

レザークラフトは亡くなった義母の趣味で、材料や工具がたくさん残されています。その中にベルト用の皮革もあったので、バックルに合わせたベルト作りを入門作業としました。

新しい革ベルトと古いバックルです。

このバックルは30年ほど前、アメリカにいた頃に買いました。ベルトの留め具(prong)がバックルの裏から飛び出しています。こういうバックルはアメリカ文化らしいですね。

アメリカで買ったバックルは他にもあります。これはスーパーマンで、幅45mm以上のベルト用です。オートバイに乗っていた頃に使おうかなと思っていましたが、しまい込んだままでした。

こちらはインディアン・アート(銀製)で、ベルトを取り付けてもらいました。磨かないといけません。

ベルト作りはわりと簡単でした。現在の胴囲に合った長さに切ってから、水で濡らして染色し、革の切り口(コバ)の処理、コーティングによる仕上げ、などです。この写真は染色が終わった状態で、乾くまで一晩かかりました。

革を薄く削いでいく工具もあって、重ね合わせたり曲げたりするときに使います。

完成です。染料の乾燥に一晩かかりましたが、作業時間そのものは2時間くらいでしょうか。初心者らしく、カシメの位置が少しずれて、へこんでいます。革は柔らかいので、カシメの位置決めがむずかしいですね。見えない場所なのが幸いです。

そして本番です。スマホケースの製作に取りかかります。
古いベルトを切って作りますが、イメージは昔の学生が持っていた十字型ブックバンドです。スマホのホルスターですね。ベルトの穴のない部分の長さがあれば十分なようです。

事前に9mm厚の板でモックアップを作っておきましたが、実物で合わせることができたので、出番はありませんでした。SE2の色は赤ですが、黒いSpigenのケースに入れているので、前から見ると真っ黒けで、上下がよくわかりません。

下絵を描くこともなく、イメージのままに鋏で切って、カシメで留めていきました。下の合成写真では上が表で、フラップはホックで留めます。フラップ側のホック(凹部)の取り付け方法で悩みましたが、専用取り付け工具があるのを見つけて、OKでした。裏のカシメはかなりずれています。これも見えないからいいや、という判断です。

残ったベルト部分です。

ベルト装着用の帯も取り付け、内張やコバ処理も終えて完成しました。カシメだらけになりました。糸で綴じるとカシメだけの無骨さが減るでしょうが、手間は何倍にも増えるし、きれいに綴じるのはむずかしそうなので、入門編はカシメだけの世界です。染色・乾燥がなかったので、作業時間は3時間くらいでした。

ベルト装着用の帯のカシメの状態です。

スマホを入れた状態です。

再生したベルトに装着したスマホホルスターの姿です。左が前方で、左の後ろポケットに入れている感覚です。

スマホのカメラレンズ周りの赤が少し見えています。そのあたりにも革を回したほうが防御性が高くなるかもしれませんが、今回はベルトの革が足らないようです。いかにも初心者らしい歪みと無骨さですが、スマホの位置は予定通りで、とても出し入れが楽です。ホックもそれほどかたくありませんし、勝手に外れることもありません。これでスマホがポケット内部に固定されて圧力がかかることはなくなります。

この方式の弱点を挙げれば、トイレなどでバックルを外すとスマホの重みでベルトごとスルリとホルスターが床に滑り落ちることがあるので、注意が必要なことでしょうか。ベルトにホックで留める方法も考えましたが、バックルを外す時はホルスターを後ろポケットに入れると問題ありません。

幅広(43mm)で裏(床面=トコメン)がざらついたベルトではまったく滑りません。

このベルトは30年以上前にオートバイ用に買った市販品(L.L.Bean)です。当時はL.L.Beanで手作り感のある商品が多く並んでいました。このベルトに合わせたカービングを入れたホルスターも作ってみたくなりました。

作りたいものがあると、レザークラフトも楽しい趣味になりそうです。

追記(2021年3月15日)
ベルトの残っていた部分を下側に後付けしました。バックル用の穴が見えるのはご愛敬ですが、このあたりはヨレヨレになっていたので、使っていませんでした。かなりの色づけなどで合わせてみました。

使い勝手は同じで防御性が高まりました。革の余りはこれだけになりました。

 

WordPress 5.6でフリーズ・回復

2020年12月11日

このブログを作っているWordPressのバージョンアップはいつも躊躇せずにやってきて、これまで何のトラブルもありませんでした。昨日も案内メールがあったので、最新の5.6–ja に更新しました。そのまま数時間ほったらかしにしていて、思い出してブログ画面を選ぶと真っ黒になりました。

左がブログの正常なトップページ、右がブラックアウトしたトップページです。

最初は何が起こっているのかわかりませんでした。いろいろと症状をチェックすると、マウスでブログ画面を左クリックするとブラックアウトして、フリーズしてしまいます。それはリンクのある場所だけでなく、画面のどこでも同じです。URLでページを表示させることはできますし、右クリックは問題なく、左クリックでフリーズです。

他のコンピュータやタブレットなどの別のブラウザーでも同じ症状になるので、ブログが崩壊していくような気分になりました。最悪はWordPressのバージョンを以前に戻す作業になるのでしょうが、手間はかかるし、それに、この1年ほどバックアップを取っていませんでした。

昨夜は手間省きの報いが来たような気持ちで寝てしまいましたが、今朝からあらためてトラブル事例の検索を始めました。左クリックでフリーズするという具体例は見つけられなかったのですが、WordPressは5.6でかなりの変更があり、どうも利用しているプラグインが対応しなくなった可能性が高いようです。

ヒントはブラックアウトしたページの右上に出ている×印でした。これは写真などを左クリックで拡大するためのLightboxと呼ばれているプラグインです。これまで使っていたLightboxは「Responsive Lightbox & Gallery」で、このプラグインを無効化してみると、あっさりとブラックアウトの症状が消えました。その後に「Responsive Lightbox & Gallery」のサポートサイトを眺めると、同一症状が報告されていて、現在対応中とのことでした。

Lightbox機能は必要なので、「Easy FancyBox」というプラグインを入れました。ポップアップする雰囲気は上品ではありませんが、わかりやすくなりました。

半日の模索で何とか回復することができました。もちろん、現状のバックアップを取っておきました。この半日ほど、当サイトを訪ねていただいた方にはご迷惑をおかけしました。

(追記 12月16日)
Responsive Lightbox & Galleryの改訂版が出たのでアップデートしましたが、当分はEasy FancyBoxを続けます。