駅拡張

2013年11月、基本工事が完了したばかりですが、HOの駅構内の拡張工事をはじめました。プラットホーム製作も含めて、11月中に終えました。

この拡張工事には、二つのきっかけがありました。
一つは、基本工事のころから考えていた、ターンテーブル(転車台)の設置計画です。HOの車両には、Big BoyやT1などの大型機関車があり、両手でつかんで方向転換するのがたいへんです。そのためには転車台、加えて扇形庫がほしい!
もう一つは、複線の外側をメルクリンの三線式線路にしていましたが、今後のメルクリンの走行をあきらめたことです。これはけっこう悩んだ選択です。それまでに、メルクリンのターンアウトで複線をクロスオーバーさせる実験をしていました。かなり苦労した結果、メルクリンをあきらめれば、すべてが簡単になる、という結論になりました。大げさでしたが、メルクリンのHO動力車は2両しか持っていませんので、大きな問題ではありません。

ということで、HOの駅をNの駅と同じように、複線それそれに待避線を設けます。さらに、駅の両端あたりに、相互乗り入れのための片渡りのクロスオーバーをそれぞれ設置します。

先ずは、駅部分を拡張する板を付け加えて、線路設置の案配を調べます。

DSC05514

線路を敷く前に、板にニスを塗りました。

DSC05524

敷設を始めました。右の奥には、すでに、ターンテーブルに行く線路を予定しています。
駅周辺のターンアウトやクロスオーバーはすべて非選択式にしています。

DSC05526

駅の右側です。左に分かれて、ターンテーブルに進む線路があります。定番となったBachmannのクロスオーバーが手前に写っています。このあたりからプラットホームが始まります。

DSC05549

駅の左奥です。こちらにも逆向き片渡りのクロスオーバーがあります。
この工事と平行して、板材と厚紙でプラットホームも作りました。

DSC00565

できあがった全景です。

DSC05936

淀川:淀川市民マラソン2013

10月31日午前8時、河川敷にトラックが停まって、テントを張り始めていました。
去年は気がつかなかったのですが、淀川市民マラソンが11月3日(文化の日)に開催されるそうです。
今年で17回目だそうです。

DSC05462

11月1日です。テントがたくさん張られています。
(パスカルはオスワリで記念写真です)

DSC05477

テントに囲まれた芝生は少し緊張感があります。

DSC05476

スタート/ゴールのポストができていました。

DSC05474

11月3日、マラソン開催日の午前10時前です。多くの人が走っていました。

DSC05490

散歩は土手を横走りになりました。

DSC05493

11月4日午前8時、昨夜から雨で、まだテントは残っていました。

DSC05495

 

10 基本工事完了

2013年10月15日

10月になって、1・Gの駅近くの余白部分に、市電か小型機関車を留置できる線路を置きました。

DSC05276

これで基本工事が終わったことになります。
昨年(2012年)9月の工事開始から1年が過ぎました。突貫工事の連続でしたが、何とかなりました。

レイアウトの全景です。

D7T_3058

別の角度からです。

D7T_3064

棚の下のトンネル部分です。ベニヤで囲って、トンネル・ポータルを貼ってあるだけで、中は空洞です。1・Gのトンネル手前には、いずれ橋を作りたいと考えていて、板をテキトーに置いたままです。このあたりの工事がいつになるかはわかりません。

DSC04999

制御台です。札幌時代に車両を飾っていた棚を切って作りました。

K20D1652

上段はN用で、NはDC制御ですから、カトーのコントローラを2台(複線の内側と外側)使っています。
中段はHO用で、BachmannのE-Z Command Dynamis Pro Box(リモコン付き)です。
下段が1・G用で、ESUのECoS 50000です。
HOと1・GはDCCなので、いずれもECoSを使うことが多いですね。
お客さんが見えたときは、三段を同時に走行させることもあります。

上段に置いた図は、ECoSで作ったHOのレイアウト図です。裏には1・Gのレイアウト図を印刷しています。
N、HO、1・Gいずれも、問題なく走行していて、一段落です。シーナリーは今後の課題とします。

 

淀川:増水

2013年9月16日

台風18号の影響で、桂川が嵐山あたりで氾濫しているというニュースがあり、下流の淀川はどうなっているのだろうと、散歩がてら、見に行きました。

上流方向です。冠水した水面は堤防の高さの1/3くらいでしょうか。
いつも散歩している河川敷公園は水没しています。

DSC05141

下流方向です。
ゴミがわんさと漂着しているのがわかります。

DSC05146

DSC05148

動画です。下流から上流の方向で撮影しました。

 

09 番線表示

1・GとHOのヤードを選択式のターンアウトで作りましたが、問題は、一見して、どの番線に通電されているかがわからないことです。そこで、ヤード操作のために、簡単にわかる番線選択表示ボックスを製作しました。

枠は厚紙です。各番線から配線し、その通電状態でLEDを点灯させるという原始的な仕組みです。この方式は非選択式では使えません。HO用が7番まで、1・G用が6番までのものを作り始めました。一つずつLED用の回路を組み込みました。

DSC05023

番線表示板は、インクジェット・プリンター用のトラペ・シートに、数字を鏡映反転させて、抜き文字(文字を白に指定)で印刷しました。裏返して貼ると、表面はツルツルです。

DSC05034

1・G用は左側を1に、HO用は右側を1にしています。これはレイアウトの中心が作業場なので、そこからの番号という意味です。
1・Gは最初6番までだったのですが、この作業をやっている途中で、車両修理用の留置線を1本増やしたので、HOと同じ7まで延ばしました。
できあがりの表側です。

D7T_3011

裏側です。線路からの配線はLAN用のケーブルを使っています。

D7T_3016

1・G用を据え付けた状態で、1番が点灯しています。

DSC05325

2つとも、一番上のNの基板下に取り付けています。
左側がHOのヤード用で、右側が1・Gのヤード用です。視認性はとても高いです。ただ、この写真では点灯していない状態です。

K20D1666

 

08 HOのヤード

2013年6月、運転するときに、車両を箱から出したり、編成を作ったり、さらには、しまったりするのが面倒です。HOもレイアウトの奥のほうにヤードを作ることにしました。
置きっぱなしだとホコリが付きますが、それは便利さとのトレードオフです。が、別の編成を楽しもうと思うと、やはり面倒なことは変わりありません。

板を現物合わせで切りながら調整しています。

HO_yard01

HOのターンアウトはすべてBachmannの製品です。メルクリンあたりと比べるとちゃっちいですが、DCC仕様(ソレノイドとデコーダー組み込み)があって、アメリカの通販ショップで安価に手に入るので、気楽に加工できます。信頼性はよくわかりませんが、3年以上使っていて、これまで気になったことはありません。

HO_yard02

DCC方式では非選択式(すべて常時通電)のターンアウトが普通ですが、ヤード内の留置列車の客室が点灯してしまうので、選択式(スイッチの方向のみ通電)に加工しています。客車にも点灯用デコーダーを入れるといいのですが、高くつくし、面倒なのでやっていません。これは好みの問題と言うか、あるいは手間省きの性分と言うか、ですね。

線路をどのように配置できるかを検討しているところです。

HO_yard03

手持ちの線路で不足しないかどうかをチェックしているところです。

HO_yard04

なんとか、7本の留置線を持つヤードが完成しました。
ヤードの入口付近です。橋を渡りきったところにヤードへのターンアウトを置くのが唯一の選択肢でした。
紙にメモしている数字は、ECoSで制御するときに使うDCCのID番号です。

HO_yard05

相変わらず、各社製の線路を使いまわしているので、見た目の統一感はありませんが、実用的にはなりました。ターンアウトまで2.1m以上ありますので、機関車と客車7・8両くらいは留置できます。

HO_yard06

その後、基板にニスを塗り、すべてに列車を入れました。

DSC06316

ヤードの場所は制御台から一番遠いところになるので、左側に鏡を置いて、停止位置が見えるようにしました。でも、ちょっと遠すぎるので、いずれは、監視カメラでも置こうかと考えています。

大阪市営地下鉄100形

堂島の歯医者に行って、帰りは淀屋橋駅から地下鉄に乗ろうと歩いていたら、大阪市役所前に地下鉄100形105が展示されていて、びっくりしました。1970年の大阪万博の前くらいまで走っていたので、とてもなつかしい車両です。

SN3R0023

「大阪市営地下鉄開業80周年」と書かれた横断幕が前にあります。そういう記念事業の一環のようです。普段はどこかに静態保存しているようですね。カメラを持っていなかったので、携帯電話のカメラで写しました。

上の写真は南側から撮っているので、行き先表示板が心斎橋となっていますが、北側の行き先はちゃんと梅田になっています。梅田-心斎橋は大阪市営地下鉄開業時の区間です。

両面に折りたたみ式の転落防止柵が付いていて、連結部分では両側の車両から延ばしていました。昔のエレベータのドアみたいで、この雰囲気はとても気に入っていました。

次のようなサボ(車両横の行先標)があったのは記憶にありませんが、サボ受けがちゃんと付いていますね。

SN3R0021

初めて乗った頃の御堂筋線営業区間は梅田-西田辺か我孫子(あびこ)だったように記憶しています。その後は毎年のように延長されていました。

SN3R0018

SN3R0019

御堂筋線では、梅田、淀屋橋、心斎橋駅の高いドームが開放的でした。特に淀屋橋駅の北側(京阪淀屋橋駅に向かう)階段部分は、今は中二階ができて、面影は隠されましたが、「ゴジラ」の第二弾「ゴジラの逆襲」でゴジラとアンギラスが付近で暴れまわって、土佐堀川の水が流れ込んできた映像を覚えています。子供心には実物のように思えました。

映画では電車は出てこず、たった3人が誰もいない淀屋橋駅に逃げ込んで、水に呑まれてしまいます。今時のパニック映画なら、電車とともに大勢の人が逃げ込んでいる場面になるでしょうが、そういう光景にせずとも、十分に核心をついた迫力がありました。

鴨川のヌートリア

2013年4月30日

京都・五条に用事があって、時間調整に京阪祇園四条駅(いつの間にか、祇園が付いたのですね)から鴨川遊歩道をぶらぶら歩いていました。河原で何か動いているものが目に入ったので、よく見ると、巨大なネズミ、「ヌートリア」という名前が浮かんできました。実物を見るのは初めてです。

写真を撮っていたら、散歩していた人が近寄ってきて、ここはよく歩いているけど私も初めて見た、とおっしゃっていました。

しっぽも含めた全身写真です。

DSC04244

あとで調べてみると、鴨川にはヌートリアがかなり繁殖しているようですね。知る人ぞ知る、です。日本・世界の侵略的外来種ワースト100に選ばれているくらいで、日本ではアライグマと並ぶ存在のようですが、ネット上では給餌している人や、可愛いと喜んでいる人の動画や写真が多くありました。

確かに、同じ仲間で、もっと大きくて鼻先が平坦になると、動物園の人気者カピバラですから、見ている限りは可愛いと言えそうです。侵略的外来種は既存の生態系を壊すほどの繁殖力を持つ外来生物ということですが、可愛い・珍しいと見られて、人への直接的危害が及ばないと、なかなか解決のむずかしい課題ですね。オオサンショウウオも鴨川まで下りてくるようですが、中国産との交配種が多いそうです。

ヌートリアをいつもの淀川河川敷で見かけたことはまだありませんが、「河川水辺の国勢調査」によれば、近畿全体の水系で、もっと下流の淀川でも見つかっているようです。淀川には、オオクチバスやブルーギルの釣りを楽しんでいる人もいるようですし、アカミミガメも多くて、こちらは河川敷でも時々見かけます。在来種の防衛と外来種の駆除は簡単ではなさそうです。

淀川:堤防からの眺望(と歴史)

(この記事は折々に加除訂正をしています 最終:2021年1月7日)

天気がいいので、いつも河川敷に降りる堤防の上からの展望写真を撮りました。

まずは下流(大阪市街地)方向です。豊里大橋の向こうに高いビルが多く見えます。

D7T_2883

次は正面(対岸は大阪市東淀川区)です。このあたり、平安・室町時代には「味原牧(あじはらのまき、あじふのまき)」という乳牛の放牧地があって、蘇(チーズ)などを製造して京に運んでいたそうですね。

D7T_2884

最後は上流(枚方・京都)方向です。左側(右岸)に見えるマンションの先、煙突のあたりには、西行と遊女の歌問答伝説で有名な江口の港がありました。

D7T_2885

江口は8世紀後半の長岡京造営の頃に神崎川(旧名・三国川)と淀川がつながれて、瀬戸内海との航路拠点になりました。明治初期(1878年)に江口からの神崎川は直線化されて安威川に直結し、流路が素直になったようですが、淀川そのものは同じ流れでした。

明治後期まで、江口から下流、この河川敷あたりで淀川が大きく東(左岸の方向)に蛇行していて、現在の京阪守口市駅近くに残っている文禄堤が左岸でした。

文禄堤というのは、秀吉の命によって、文禄年間(1593-1596)に枚方から大坂・長柄までの淀川左岸に造られた堤防です。文禄堤ができる前は守口から枚方まで低湿地帯が続いていて、枚方と大坂の間は淀川を舟で上下するか、枚方から生駒山の麓を四條畷まで迂回するか、という選択だったようです。

文禄堤ができて、守口から枚方までの京街道はほとんど堤の上となり、大坂と伏見・淀との往来が楽に安全になったわけですが、当時の文禄堤は低く、現在の淀川の堤防(一部はスーパー堤防)とは比較になりません。明治18年の大洪水まで、何度も堤が切れた水害がありました。

江戸期には幕府の意図として、西国からの参勤交代の行列を京に入らせないため、右岸の西国街道(山陽道)を通らせず、大坂から京街道を経由させて、山科追分で大津に向かわせたと言われています。そのため、東海道は京三条を終点とせず、大坂・高麗橋までの五十七次(大津から、伏見・淀・枚方・守口の四宿)となっていたそうです。

でも、西からの行列は遠回りになるわけですから、少なからず西国街道を使っていて、京に入らないように、西国街道の山崎から伏見に向かう山崎道が参勤交代のルートになっていたとも聞きました。

明治43年(1910年)完工の淀川改修工事で流路を変更した結果、現在地まで左岸が移りました。記録誌「淀川改良工事(1913年 内務省土木局発行)」付属地図の一部です。変更予定流路が赤線で記入されています。

淀川周辺に多くの水路があったことがよくわかります。

流路変更工事の結果を眺めるため、明治18年の陸軍測量地図(黒)と現在の国土地理院地図(カラー)とを大まかに重ね合わせてみます。(淀川流路全体の地図は別記事に載せています。)

地図の中央上あたり、文禄堤から離れた京街道が南に進んで、守口で再び文禄堤に戻っているのがわかります。京街道は守口を過ぎると今市あたりでまた文禄堤から離れて、大阪城(京橋)に向かっています。

yodogawa_map01

この重ね地図を眺めると、上の3枚の写真を撮った場所(左岸の堤防)は、昔の右岸(旧・橋寺村)の土手あたりということになります。橋寺村や天王寺庄村などは淀川の流路変更で切り離されてしまいました。

流路変更工事が行われている時期(明治41年)に測図された地図があります。堤防はできていて、外側に水場が多く残っています。堤防に沿って橋寺村が切り取られた状態で、まだ建物が残っているように見えます。京阪電車(開業は明治43年)の路線が記されていますので、少し後の改訂版ですね。

この地図は、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」((C)谷 謙二)により作成したものです。

現在の大阪市旭区(左岸)に残った橋寺町と豊里町は昭和46年に一緒になって旭区太子橋と名前が変わりました。お隣の守口市には新橋寺町として名前が残っています。太子橋地域の堤防には「橋寺廃寺」の碑があります。

dsc00809

昔の淀川流路の中心線が境界なので、現在の大阪市と守口市の境界線は、このあたりの堤防を横切り、住宅地を複雑に区切っています。

住宅地の道路に石を敷いた境界線がありました。斜めになった境界線の手前が大阪市で、向こう側が守口市です。

その後、下水道工事後に再舗装されて境界線は消えましたが、マンホールができていて、手前は大阪市の蓋、その向こうの蓋は守口市のものです。

昔は守口あたりの淀川には島(中州)がいっぱいあったようで、現在の町名にも、下島(しもじま)町、外島(とうじま→そとじま)町、八島町などが残っています。

残っていたら楽しいけれど、残らなかった地名として、文禄堤に近い場所に、摂津国西成郡の属地であった「狼島(おおかみじま)」という中州がありました。狼島は昭和14年まで守口町の大字の地名でした。上の重ね地図で文禄堤のそばにある島です。

狼島は流路変更のずっと前、明治7年に守口に編入移管されたようです。摂津から河内への属国変更です。廃藩置県が明治4年ですから、この時期は変更が多かったのかもしれません。

狼島は江戸期の絵図では、大神島、大亀島、猿島・サルシマ、中之島などとバラバラに表記されています。小さな社(渦神社:大隅神社の末社?:現在は守居神社に合祀)があったので、「大神島」が江戸期の意味・名称だったのかもしれません。猿島は「狼」と「猿」という漢字の間違いだったのではないでしょうか。

狼島地区は現在も住宅地が周囲より少し(1m以上)盛り上がっているので、歩くか自転車に乗ってい るとよくわかります。

守口市史によると、狼島の面積は6町1反ほど(約6万㎡:甲子園球場総面積の1.5倍くらい)で、上の明治の地図では小さな橋がかかっているように見えます。拡大してみます。

狼島は昔の淀川流路中心線より守口寄りなのに摂津国でしたが、日本歴史地名大系(種本は「大阪府全志」のようです)によれば、もっと昔、江戸時代の貞享三年(1686年)にも淀川改良工事があって、その時にできたようです。ということは、文禄堤のすぐ横には江戸初期までは本流があり、西側の浚渫土砂で狼島ができたのか、広がったのか、いずれにせよ、摂津国の領地となったようですね。狼島と右岸との間が新川と呼ばれていたそうです。

それでも、なぜ廃藩置県の明治4年ではなく、明治7年に属国変更なのか、そのずれが少し気になりました。単なる行政手続きの遅れなのかもしれませんが、明治7年には、狼島と同様に、上流の摂津国島上郡磯島も河内国交野郡(現・枚方市磯島)に移っています。磯島も文禄堤より淀川の内側ですが、かなり昔に地続きになっていたようです。

この時期の属国変更は、ひょっとしたら、明治 5年の学制発布が関係しているのではないかと推測しています。学制発布で小学校は町村単位で運営されることになり、数戸しかないとしても、狼島の子どもは淀川渡しの舟に乗って通学しなければならないわけです。そうであれば、淀川本流を渡るよりも、狭い水路の(橋のある?)守口に行くほうが便利です。明治5年開校の守口小学校(開校時は河内国第九区郷小学校で難宗寺内に設置)はすぐ近くですが、当時の右岸(西成郡)の小学校はかなり遠かったようです。

昭和11年(1936年)調査による「旭区(附守口町)」の地図(大大阪区政地図:夕刊大阪新聞社 1938年発行)があります。このあたりだけを抜き出しました。

この地図には、区画整理された狼島や橋寺町の地名が載っています。狼島の右上に「守口第一校」と書かれているのは現・守口小学校のようです。地図の左には、狼島ができた頃に始まった平田(平太:へいた)の渡しが点線で示され、その横に内環状線(うちかんじょうせん)の計画道路が赤の破線で描かれています。

内環状線の豊里大橋が完成したのは、大阪万博の開幕に合わせた昭和45年(1970年)3月で、同時に平田の渡しは消えました。昭和46年(1971年)、淀川と平行して描かれている用水路(江野川)の上に阪神高速12号守口線が建設され、昭和49年(1974年)に江野川は全体が暗渠となり、阪神高速の下は「江野川筋自転車歩行者専用道路」になっています。

これは別の日の写真ですが、堤防の上に、淀川河川管理事務所の管理境界の案内板があります。ここから上流が枚方出張所、下流が毛馬出張所となっています。

DSC01033

上の写真のちょっと上流側に「淀川距離標」が埋め込まれています。これは200m毎に置かれているものですね。

DSC02437

アップしました。河口からの距離は14.6kmだそうです。

DSC02438

このあたりの眺めが江戸末期に発刊された「淀川両岸一覧(上り舩之部上)」に描かれています。

淀川両岸一覧の中でのタイトルは「守口驛・新川」とあります。右岸(旧・橋寺村あたり)と中州の水路です。長閑な景色で、背景の山は生駒山のようですね。このあたりは、上の重ね地図で、右岸に近い大きな中州だろうと思います。守口大根が植えられていそうな中州です。今はすべて左岸・旭区の住宅地になっています。

淀川両岸一覧の絵と同じ角度のつもりで写真を撮ってみました。京阪守口市駅の方向です。右端に写っている高層マンションが文禄堤の遺っている守口市駅あたりです。阪神高速の高架の上、マンションの隙間にちょっとだけ生駒山が見えます。

DSC01035

対岸(東淀川区)の堤防から写真を撮ったことがありますが、こちらのほうが生駒山などの雰囲気が似ています。

DSC02776

両岸一覧の絵と同様に、円山應挙の「淀川両岸図巻」(ハラ ミュージアム アーク:群馬県)でも、上り船が帆を張って守口宿と狼島の間を上流に向かっていますが、これらは旅客用の三十石船ではなさそうです。三十石船の上りは新川沿いに船頭たちが陸から綱で曳き、下り船は流れに任せて棹でコントロールしていたようです。広重の有名な絵(国立国会図書館デジタルコレクションにあります)を見ると、三十石船には短い柱が描かれていますが、これは曳き綱を固定する柱のようです。

河川敷に降りると、あべのハルカス(開業準備中)が遠くに見えます。直線距離で12キロくらいです。

D7T_2889

07 Nの駅

札幌時代、Nは島式のホームが一本だけでした。
今回は三階建てのトップになり、部屋に入って最初に見える光景になりました。

N_station00

これではちょっとさみしいので、複線の両方に本線と待避線を作ることにしました。
手前半分だけですが、こういう感じです。駅部分の板を広いものに替え、駅手前の曲線部も位置を変更しました。

N_station00a

全体を作るには、出入口の施工も必要なので、別室で作業しました。

N_station01

出入口部分です。

N_station02

ほぼ完成したので、パスカルの入室を許しました。

N_station03

三階に載せて、最後の調整です。カトーのプラットホームを使っています。

N_station04

本線の走行テストです。

待避線の走行テストです。待避線のカーブは京阪車両なら問題ありませんが、N700だとクネクネが目立ちます。