ルイス・セプルベダ

2023年9月13日

暑さが少しマシになったので、以前から読もうと思っていたことを思い出したルイス・セプルベダ(Luis Sepulveda)の作品を読みました。日本語訳が出ているのは4冊のみ。それらを1週間足らずですべて読みました。

中南米の作家の本は、40年ほど前に読んだガルシア・マルケスの「百年の孤独」以来、時々読んでみたくなります。1949年にチリで生まれたセプルベダという覚えにくい名前の作家を知ったきっかけが猫がらみの「カモメに飛ぶことを教えた猫(1996)河野万里子訳 白水社 1998」だったので、こちらを最初に読みました。劇団四季のミュージカルにもなっているそうです。

カモメと猫という組み合わせで思い出すのは、佐々木倫子のコミックスの名著「動物のお医者さん [8] 白泉社 1992」で、ハムテルと二階堂がチョビ(犬)とミケ(猫)を海へ連れて行った時の話でした。ミケがカモメを狙って海に落ちてカモメに狙われた(ような)場面です。カモメと猫という、どちらもが相手を自分の獲物として狙う関係の設定が新鮮でした。

一方でセプルベダの「カモメに飛ぶことを教えた猫」はその関係イメージを覆す擬人化ストーリーです。ミュージカルにされそうな展開で、まあ、タイトルそのままです。その点で少し物足りなかった印象でしたが、猫の心象描写はセプルベダの持ち味が現れているようです。

続けて、最初の著作「ラブ・ストーリーを読む老人(1989)旦敬介訳 新潮社 1998」を読みました。タイトルに違和感はありましたが、読み出すと、アマゾンでの生活描写に引き込まれました。普段は2冊以上の本を平行して読む(すべて自炊してiPadに入れてます)のですが、これは中断することなく読みました。まあ、セプルベダの作品はどれも一日はいらないほど短いですけど。

3冊目は「センチメンタルな殺し屋(1996)杉山 晃訳 現代企画室 1999」です。この殺し屋の心的背景はカモメに飛ぶことを教えた猫と共通のものがあるように感じました。殺し屋が心情を語るものの、ハードボイルド風ですが、ちょっとおとなしい描写で、少し退屈でした。

最後に読んだ「パタゴニア・エキスプレス(1995)安藤哲行訳 国書刊行会 1997」はピカ一でした。ポール・セルーがかつて紹介した鉄道の話題とは異なった視点で、パタゴニア一帯を著者が訪ねた話をオムニバス的に並べていて、その一部が「ラブ・ストーリーを読む老人」になったように思える、ある種の紀行文ですが、それぞれのストーリーのエピソードはすばらしく、随所に著者の人間性が出ています。ストーリーごとに涙腺を刺激されました。

ただ、各ストーリーの場所が違うし、南米の地理はわからないので、読み始めて出てきた地名をブラウザーで確認してから読んでいました。アマゾンやパタゴニアに行ってみたくなるのは当然です。ついでながら、タイトルのカタカナ表記はエクスプレスとしてほしかったな、と思いました。

セプルベダはガルシア・マルケスや カルロス・フエンテスのような長編を描くことはありませんでしたが、日本で普通の生活を送る私にはない強さと不思議な心性を示しているように感じます。それは彼が二十代でピノチェト政権によって投獄され、拷問などの迫害を受けたこと、アムネスティによって釈放されてからドイツに渡って作家生活を送っていたこと、などが絡んでいるのでしょう。

残念ながら、ルイス・セプルベダは2020年4月に新型コロナ感染症によって70歳で亡くなっています。

「チャーリーとの旅」はフィクション

2021年4月13日

ジョン・スタインベック(1902-1968)の晩年の作「チャーリーとの旅」(Travels With Charley: In Search of America, 1962)はスタインベックが1960年に愛犬チャーリーと特注のキャンピングカーで3カ月にわたってアメリカを周遊したノンフィクション紀行文で、ノーベル文学賞を受けた年に出版され、ベストセラーになりました。今でも多くの読者がいると思います。初めて読んだのは翻訳本で、1987年にサイマル出版会が出した大前正臣訳(改訂版)でした。

大前正臣訳の「チャーリーとの旅」の初出は1964年(弘文堂)ですから、オリジナルが出版されてから2年後に翻訳が出ています。また、2007年には別の訳者の本(竹内 真訳 ポプラ社)も出版されています。

アメリカの路上文学は好きで、いろいろと読みましたが、この本が特に楽しかったのは、スタインベックと同行した老犬チャーリーがスタンダードプードルだったことです。学生時代に読んだコンラート・ローレンツの「人 イヌにあう」でプードルを知って、「チャーリーとの旅」を読んで、スタンダードプードルを飼うことになりました。昨年亡くなったパスカルJrは我が家で2頭目のスタンダードプードルでした。

さて、サイマル出版会の「チャーリーとの旅」の裏カバーには次のように書かれています。
「ノーベル賞作家スタインベックは、アメリカ再発見を志し、愛犬チャーリーを連れて、自らキャンピングカーを運転するアメリカ一周の旅に出た。この作品は、その時の孤独と模索の旅行記で、文豪一流のユーモラスな筆致で迫る”変わらざるアメリカ”の姿は、凡百のガイドブックにまさる、アメリカの本質への案内でもある。」

また、シカゴ・トリビューン、ボストン・ヘラルド、朝日新聞、毎日新聞などの書評も記載されていて、いずれも旅の記録として見事な筆致という雰囲気で絶賛しています。

私ももちろんノンフィクションとして読みましたし、読後感想として、1983年にアメリカ横断ドライブをする前に読んでいたら、ルートを少し変えていたかもしれないと思ったほどでした。

ところが最近、プードルのことをネットで調べていたら、もちろん「チャーリーとの旅」がヒットするのですが、その中で気になる話題を見つけました。スタインベックはチャーリーと旅をしていなかったという記事です。

最初に読んだのは”Reason”というネット上のフリー・マガジンでした。アメリカのジャーナリストBill Steigerwald氏が2011年春に書いた記事(英語)で、タイトルは「ごめんね、チャーリー(Sorry, Charley!)」となっています。

Steigerwald氏は半世紀前にスタインベックが見聞きしたアメリカ各地での風土・文化を調べるために、自分自身で「チャーリーとの旅」の1万マイルのルートを辿り、日程を確認していったそうです。それで明らかになったのは、スタインベックが描写した場所・場面、人との交流の記述がスタインベックの当時の行動記録とほとんど一致せず、架空の描写であると判断せざるを得なくなったというものでした。

このReasonの記事は、Bill Steigerwald氏自身の著書「Dogging Steinbeck: Discovering America and Exposing the Truth about ‘Travels With Charley’, 2012」(未読)の抄録だろうと思われます。

この話題はWeb版のThe New York TimesにCharles McGrath氏の署名記事(2011年4月)で紹介されています。こちらの記事のほうがカラー写真も入っていて、よりわかりやすく書かれていました。

McGrath氏の記事では、ジョン・スタインベックの息子に確認したところ、父は購入したキャンピングカーでの旅行などしておらず、自宅に置いたキャンピングカーの中で原稿を書いていただけと証言しています。

もう10年も前の記事ですから、これが事実だったら日本でもそれなりの議論と解説が出ているだろうと思って、日本語でネット検索をしてみましたが、何も見つかりませんでした。

友人のアメリカ文学の専門家に聞いてみました。彼はスタインベック研究者ではなく、また「チャーリーとの旅」も未読だったそうですが、日本のスタインベック学会で「チャーリーとの旅」についてのフィクション疑惑の話題は聞いたことがないということでした。でも、フィクションのほうがスタインベックのアメリカ像を表現しているのでは、というご意見でした。

Wikipedia(英語版)にも「チャーリーとの旅」の話題が取り上げられていました。当時のスタインベックは体調も優れず、チャーリーだけを乗せて3カ月のキャンピングカーでの旅行は無理だったようです。未見ですが、原書2012年版にはそういう解説が載っていると書かれています。

ともかく、久しぶりに「チャーリーとの旅」を読み直してみました。上記の情報から私の読書態度が変化しているのは否めませんが、確かに実際の旅をしている時系列での描写という流れはあまり感じられなかった一方、取り上げられているエピソードは具体的で読み応えがありました。最後のテキサスやニューオリンズあたりの話題は、21世紀の読者にとってはステレオタイプ的要素が濃いように思えますが、それは60年を経た昨今でもアメリカ文化の根にあるように感じます。

晩年には作家として行き詰まっていたという批評もあるようで、少し様態を変えた叙述を試みたのかもしれません。その点では、こういうノンフィクションらしいフィクションを書き上げたのがスタインベックだったのだろうと今は感じています。個々の文化論トピックは時系列とは無関係のノンフィクションで、紀行文としての記述の様態がフィクションだったと言えそうです。

フィクションを実話の紀行文であると明記したことが問題なのでしょうね。これはフィクションですと明記すれば、ほとんど実話でもかまわないようですが、逆は許されないのかもしれません。Steigerwald氏がfraud(詐欺)という言葉を使っているのはそのことを示しているようです。

でも、「チャーリーとの旅」での地元民との会話は存在しなかったとしても、スタインベックがいつかどこかで地元民と会話して、それらを整理したものであれば、それはノンフィクションと言ってもいいように思えます。「怒りの葡萄」はフィクションですが、その時代のアメリカを切り取った文化論としてはノンフィクションと言える、というのと同じ構造なのかとも思います。小説にフィクション・ノンフィクションの厳密な区別をつける必要はなさそうです。

スタインベックの「チャーリーとの旅」がフィクションだとわかってから読み直してみても、私の愛読書の位置づけの変化はありませんでした。スタインベックの創作としてそれだけの内容を持っているとあらためて感じました。スタインベック自身がフィクションだと書いておいてもかまわなかったと思いますが、60年前の話ですから、どちらでもいいような気もします。

旅行に連れて行けなくてゴメンネ、となったチャーリーはドライブ好きで利発なスタンダードプードルだったようです。私が「チャーリーとの旅」を読んで選んだ最初のスタンダードプードルのショパン、その後のパスカルJr、どちらもドライブが大好きでした。長距離ドライブはしていませんが、一緒に過ごした長い時間を思い出します。

 

「動きの悪魔」

いろいろな連想が広がっていく、とても興味深い本を見つけました。
ステファン・グラビンスキの「動きの悪魔」(芝田文乃訳 国書刊行会 2015)です。

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ポーランドのポー(エドガー・アラン・ポー)と呼ばれる100年前の作家、グラビンスキ(Stefan Grabiński, 1987-1936)の初の邦訳だそうです。1919年に出版された短編集に、後の短編をいくつか加えた構成になっています。すべて鉄道に絡んだ話ですが、「鉄道・旅行ファン」が広く好むものではないかもしれません。ポーと比較されるように、初期の怪奇小説とかホラーとかに分類されています。私としてはあまりポーと共通点があるようには感じませんでしたが、読者の心を動かす独特の雰囲気を持っています。

出版された時期はちょうど第一次世界大戦が終わり、ポーランドは独立しています。1936年にポーランドは再びドイツに占領されますが、それまではピウスツキ体勢で、しばらくは喜びが多かったのでしょうか。そのような頃合いに出版された本書はそれなりに売れたそうです。

グラビンスキの経歴は中学教師で、鉄道に関する仕事はしていません。しかし、明らかに旅行好きで鉄道好きだろうと思います。それは機関車の構造から信号のシステムまで、よくわかった描き方をしていることから推察できます。

イ ギリスで蒸気機関車が走り出して100年余りで、ヨーロッパ大陸にも鉄道網が張り巡らされました。鉄道は各国の威信をかけた巨大事業であり、すべての鉄道会社は鉄道・車両の維持・管理に官僚的な制度を作り上げていたようです。オリエント急行が走り出したのは1883年ですから、大型の長距離用高速蒸気機関車が作られるようになり、客車内は快適になってきて、国際旅行もゆったりと過ごせるようになりました。

当時にポーラン ドで走っていた機関車はよくわかりません(ソヴィエト製かも)が、ドイツでは王立バイエルン鉄道の名車S3/6(1908~ 当模型鉄道所属の写真)など、高性能の機関車が走っていました。

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かつてない輸送能力を持つ巨大な機械が爆走する鉄道を眺めた一般市民は驚異・畏敬・恐怖・憧れを感じていたのではないでしょうか。でも、巨大さは今も変わらないものの、当時の鉄道システムは、まだすべての装置を人手で制御していました。機関士が機関車を操作するのは当然ですが、すべての安全確認も人の作業です。電気仕掛けの信号は一般的でなく、腕木式信号機、分岐器(ターンアウト・スイッチ)などを手動で動かしていました。電気を使うのは照明と駅間の有線電信くらいだったでしょう。

規則で厳密に決められた手仕事に熟練した鉄道員は誰もが自分の仕事にプライドを持っていたと思いますが、誰か一人でも、与えられた仕事の規則を逸脱してしまうと、それは大惨事に直結します。そして、異常な逸脱に合理的な理由があるとは限らず、そのような逸脱が現実のものとならない保証はありません。

この本に収録されている作品のいくつかは怪奇・怪異な現象を物語っていますし、本のタイトルとなっている「動きの悪魔」は、残忍さではポーを連想させるものの、ポーの多くの作品のように納得させる説明はありません。読み進むにつれて、怪奇・怪異と言うよりは、鉄道員の鉄道への強すぎる愛情がもたらした逸脱を描いた作品が多いような気がします。「音無しの空間」、「機関士グロット」など、怪奇的な印象というよりも、愛情の強さに切なくなるところがあります。

怪奇的と思えたのは「信号」でした。この作品は映画「渚にて」(1959)を思い出させてくれました。「渚にて」は1950年代の米ソ核戦争についての悲劇的シナリオで、怪奇小説(映画)ではありませんが、心の緊張感と切なさは強烈でした。米ソの核戦争が起こり、すでに北半球では人がいなくなった地球で唯一生き残ったアメリカの原子力潜水艦が、無線機に入り続ける、解読できないモールス信号を発する場所を探しに行きます。まだ生きている人がいることを期待したのです。しかし、たどり着いた現場で乗員が見たのは、人ではなく、風にそよぐカーテンに紐で結びつけられたコーラの空き瓶がランダムに押す電鍵でした。

電鍵というのは、手で押してモールス信号を発生させるスイッチです。手持ちの電鍵の写真を入れておきます。手前左が旧日本海軍の電鍵、手前右がアメリカの典型的な電鍵です。いずれも押す時間で短点(トン)と長点(ツー)の長さを調節してモールス信号を作ります。後ろは私が80~90年代に愛用していた、親指と人差し指で側面から押す方式で、電子回路が必要ですが、左側を押すと単点、右側を押すと長点が連続的に出て、とても早く打てて楽ちんです。

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さて、「信号」では、信号の発信源は電鍵で信号を送りながら亡くなって久しい信号手の指の骨です。しかし、それが怪奇的というわけではありません。「信号」が怪奇的だと思うのは、送られていた信号が解読不能ではなく、事故発生の緊急信号だったという点です。そして、半ば白骨化した信号手の死体を運び出した後に、その信号が意味した大事故が起こることになります。読んでいて、このあたりの展開を受け入れる気持ちになるかどうかが、グラビンスキ、さらには怪奇小説を評価するポイントになるような気がします。

翻訳は100年前の世界をイメージしやすく、読みやすいと思いました。一つだけ、「待避線」という作品タイトルの訳語については、訳者も後書きで説明してはいますが、原題は「引き込み線」のようです。「待避線」というタイトルで読み進んでいくと違和感を感じました。訳者は語感を重視したようですが、引き込み線と待避線を区別する人にとってはマイナスだったかもしれません。