YS-11には乗りました

紫電改の話題は手回し式計算器の思い出にしかつながらなかったのですが、YS-11には何度か乗りました。初めてYS-11に乗ったのは、初めて飛行機に乗った経験でもありました。小学生の頃に飛行機に憧れていたものの、実際に乗ることができたのは大学生になってからです。

敗戦後に7年間の航空機関連事業の禁止があり、それが終わって、1956年(昭和31年)に国産輸送機(後にYS-11となる)の開発が開始されました。初期設計は菊原氏ら戦前・戦中の軍用機設計で有名な人たち5人が行い、1958年にモックアップ(木製の実物大模型)も作られましたが、それは製作予算獲得のためのデモンストレーションだったようです。1959年に官民共同の日本航空機製造株式会社ができてから再設計され、1962年(昭和37年)に試作機の初飛行がありました。このあたり、「YS-11 国産旅客機を創った男たち」(前間孝則 講談社 1994)やプロジェクトX「翼はよみがえった」(NHK 2000)で詳しく紹介されていました。

上野の国立科学博物館に、零戦の下にひっそりと展示されているYS-11の風洞実験用模型がありました。

誰も気づかないようなところです。左に見えているのは零戦の車輪です。

零戦(零式艦上戦闘機)の設計は、後にYS-11初期開発に携わった5人の一人である堀越二郎氏ですが、零戦設計当時の部下だった東條輝雄氏が日本航空機製造でYS-11再設計のチーフとなっています。

YS-11は試作機2機を含めて、1973年までに合計182機が製造され、日本航空機製造はその10年後に解散しました。YS-11に続く輸送機の開発計画もあったようですが、航空機産業の営業を知らない赤字経営だったようです。日本の民間航空路線でのYS-11最終飛行は2006年の奄美線でした。

その奄美線が最初の思い出です。1969年(昭和44年)6月に一人で奄美地方を旅行しました。往復は船で、大阪・天保山から関西汽船の浮島丸に乗り込みました。2,600トンの小さな貨客船です。沖縄航路は当時は外国航路と同様のシステムになっており、運賃に食事が含まれていました。沖縄本土復帰が1972年(昭和47年)ですから、直前です。那覇まで行きたかったのですが、パスポート(身分証明書)が必要だったので、手前の奄美にしました。奄美群島の本土復帰は1953年(昭和29年)です。

時刻表です。1972年1月号なので、少し時間などが変わっているかも知れません。

食事付きと言っても、2等船客の食事はさみしい内容でした。食堂の入口に食事の案内が出ますが、「焼き飯」と出ていたのは、まさに焼き飯で、ご飯を油で炒めただけで他に具材は見つかりませんでした。なぜか沖縄に帰る若者がいっぱい乗っていて、床で寝るときは互いに身体がくっつくくらいでした。

甲板でイルカを眺めながら、隣にいた人と話をしていたら、この人が無線局長でした。親しくなって無線室に招いてもらい、和文モールスの送受速度に感心しながら長い時間を過ごしていました。無線室は楽しかったものの、食事と混雑に懲りたので、下船した奄美大島の名瀬で、帰りを1等にグレードアップしました。

2日ほど大島観光をして、徳之島に向かうことにしましたが、この旅行の目玉商品を思いつきました。奄美大島から徳之島までという短距離(直線距離で100kmほど)ですが、奄美線の飛行機の切符を買ったのです。飛行機、それも就航して間もないYS-11に乗りたかった、空から海を眺めたかった、短距離で運賃が安かった、それでも船より高いけれど船なら半日かかるところが30分で着く、というたくさんの「合理的理由」からです。

YS-11が民間航空路線に就航したのは1965年で、1966年に松山沖で墜落する事故がありましたが、1969年というのは初期トラブルが解決されて、パイロットも慣熟して安定してきた時期だったと思います。

当時の時刻表を残していないので、次の時刻表は1972年1月号の掲載です。搭乗した1969年は東亜航空(TAW)でしたが、1971年5月に日本国内航空(JDA)と合併したので、時刻表は東亜国内航空(TDA)になってからのものです。発着時刻は同じようなものだったと思います。

離陸時に写真を撮っています。初めて乗った飛行機のフラップの動きが新鮮でした。このプリント写真をよく眺めると、機体記号はJA8684と読めます。

JA8684は型式YS-11-128で製造番号が2045(45機目)、1967年9月の製造・登録です。初期型(2049まで)の最終に近い製造で、1967年11月にアルゼンチン航空にリースされ、1年後の1968年11月に東亜航空に登録されています。その後、1971年6月に東亜国内航空に登録されて「ほたか」と命名されました。1983年12月にハワイのMid Pacific Air(1995年に廃業)に売却されたようで、別の機体記号になり、1991年に抹消されています。

乗り込んだ機内は真新しく、乗客は少なく、効かないと言われていた冷房がよく効いていました。梅雨前の南国で乗り込んだからかもしれません。プロペラ機(ターボプロップ)とは言え、初めての離陸時の加速は電車や自動車では味わえない快感でした。ロールス・ロイス製ダート・エンジンのタービン回転音はなかなか迫力がありましたが、それは音がダイレクトに聞こえるという意味でもありました。

私の初フライトは曇り空で、空から眺めた海はポスターに出ているような鮮やかな群青色とは言えませんでした。

この楽しい初飛行の出費が後で効いてきました。徳之島から沖永良部島に船で移って、知名(ちな)の国民宿舎に滞在し、親しくなった人と鍾乳洞探検や釣で楽しく過ごしましたが、手持ちのお金がなくなってしまいました。急いで帰りの船を2等に戻して国民宿舎の支払いを済ましたら、和泊(わどまり)港までのバス代もなくなり、ヒッチハイクでトラックに乗せてもらって船までたどり着きました。神戸港では自宅への電話代が残っていただけです。その後も一人旅はたいていこんな結末になっていました。

次にYS-11に乗ったのは、1972年に札幌で1年を過ごしていた秋です。東亜国内航空が札幌(千歳空港)から羽田経由で大阪へと深夜便を運航していました。YS-11が飛ぶ路線は通常は札幌市内の丘珠(おかだま)空港発着なのですが、この深夜便だけは千歳発着でした。

この深夜便は日本航空の運航で始まり、便名に名前が付いていたように記憶しています。札幌-東京便はオーロラ、札幌-東京-大阪便はポールスターでした。他に、福岡行きのムーンライトというのもありました。昼間の大阪-札幌便(ジェット機DC-8)はユーカラという名前でした。昼のジェット便だと片道19,700円ですが、深夜便は13,900円で、格安運賃がなかった時代には魅力的でした。でも、大阪で買う北海道均一周遊券が学割で8,900円でしたから、相当の覚悟が必要でした。

搭乗機の写真がないので、当時の千歳空港です。搭乗の翌月に人を迎えに行ったときに撮りました。手前も離陸しているのもDC-8のようですね。

送迎デッキ(ターミナルビル屋上)には、御役御免になった自衛隊機F86Dが展示されていました。

前年の1971年7月には、丘珠発函館行きのYS-11「ばんだい」の墜落事故があったので、ちょっと気になりましたが、千歳から羽田、そして伊丹に向かうルートなので、離着陸の周辺に山はないだろうと、忘れることにしました。

座席は徳之島便の時とほぼ同じ場所でした。深夜の千歳空港離陸では、まばらな街の灯りがなかなか去って行きません。ジェット機と違って、離陸してからの上昇角度が浅く、ゆっくり旋回しながら上昇するので、前に進んでいるのか、ひょっとしたら後ろに下がっているのではないか、という不安を持ちました。

離陸してから羽田までの3時間、外は真っ暗で、常にすぐ横のエンジン音が大きく響いていて、ほとんど眠ることができませんでした。まだ暗いうちに羽田に着陸しました。

羽田で多くの乗客が降りて、残っている乗客は10人ほどになっていました。1時間ほどの休憩があり、明るくなってきて離陸しました。しばらくして、寝不足の目に、雲の上に見える富士山の頂上に朝日が当たっている景色が入ってきました。YS-11の巡航高度は5,000mくらいで、太平洋岸を飛んでいましたので、朝日に輝く富士山が真横に見えます。この時ほど、右の窓側に座っていたことを喜んだことはありません。カメラが手元になかったのがとても残念でした。

1980年には札幌に移住しました。15年ほど住んだ厚別区では、風向によって、家の上空から丘珠空港に向かうYS-11をよく見かけました。数回、函館往復にYS-11に乗って、藻岩山から羊蹄山、駒ヶ岳を眺めることがありましたが、なんか、YS-11にも北海道の景色にも慣れてしまったような感じで、写真を撮ることはありませんでした。

そして、最後のYS-11搭乗になりました。
2002年7月20日、YS-11が来年には北海道内定期路線から引退するという話題が出ていたので、函館への出張で空路を選びました。

エアーニッポンJA8744による往路は雨で、景色はプロペラとエンジンだけでした。ちらっと、「ばんだい」の記憶が戻りましたが、この時期にはオートパイロットなどの装備が追加されているらしいので、安心していました。

以下の動画では大きな音が出ます。

かつでの深夜便で眠ることができなかったのは、この音でした。これでもレシプロエンジンのDC3より静かだったと言われましたが、知らない比較です。

JA8744は型式YS-11A-213で製造番号が2116、1969年8月に製造され、全日空に登録です。YS-11Aというのは初期型を改良した型式で、1967年の終わり頃以降の生産です。さらに、A-500型(エンジンを強力型に換装)に改造されています。

雨の函館空港に着陸します。音が出ます。

到着しました。

タラップでは傘の貸し出しサービスがあります。

この飛行機は搭乗した翌年、2003年にタイのプーケット航空(今は運航していない)に売却されて、2005年に廃止されたようです。

翌朝、雨が止んで曇り空の帰りはJA8735でした。

JA8735はJA8744と同じ型式で、製造番号が2108、1969年5月に製造され、全日空に登録です。この飛行機は搭乗した翌年2003年1月にフィリピンのアジアンスピリット航空(今は運航していない)に売却されて、別の機体記号になりました。

内浦湾上空から北上します。

この機体は事故に遭う運命だったようで、ネットを調べていると、「YS-11A型JA8735に関する航空事故報告書」がありました。1980年(昭和55年)12月24日、八丈島線で羽田に引き返す途中、木更津上空2,400mで機首に落雷があり、右機首部に損傷を受け、垂直尾翼の一部が飛散したが、乗客・乗務員に怪我はなかったとのことです。そして、2008年1月2日、フィリピンのマスバテ空港への着陸時、風の影響でオーバーランして、コンクリートのフェンスにぶつかり、右脚部と右エンジンを損傷した結果、廃止されたようです。

ところどころ雲の切れ目を見ながら巡航中です。以下の動画は音が出ます。

札幌・丘珠空港への着陸は石狩湾からのルートで、厚別時代の自宅上空からではありませんでした。

フルフラップで降下です。丘珠空港周りもけっこう人家がありますね。

フラップを戻しながら着地しました。

これでYS-11の搭乗も終わりです。最後の搭乗が最初の搭乗や深夜便と同じ座席位置になりました。

これまで飛行機は国内・国際・国外線で数え切れないくらい乗りましたが、YS-11以外はすべてプロペラのないジェット機でした。その中で、YS-11は「気に入った飛行機」と言うより、「思い出深い飛行機」と言うべきでしょうね。YS-11のパイロットだった人が書いた本(坂崎 充 「惜別! YS-11 イカロス出版 2003」)を読むと、客室以外の装備はほとんど戦時中の軍用機レベル、オートパイロットもなく、操縦は体力勝負、たいへんだったようです。

シデンカイと手回し式計算器

2017年8月4日

40年ぶりの大阪生活で、学生時代の友人たちとの飲み会に参加できるようになりました。昔のままの関係で今の話題の会話を楽しんでいますが、当然ながら、昔話になることがよくあります。

今年の飲み会で、久しぶりに会った同窓生(女性)から突然、「シデンカイって知ってる?」と尋ねられました。シデンカイなんて、小学生の頃以来ほとんど聴いていない響きで、市電を復活させようとする会か、ひょっとしたら紫電改のことか、そういえば、育毛剤の名前にもあったような。いずれも彼女とはミスマッチの感じで、「えーと、日本の戦闘機のこと?」「そう」「まあ知ってるけど」と答えながら、酔った頭の中で記憶が途切れ途切れに出てきました。

飛行機が好きで、プラモデル作りに熱中していた小学生の頃、紫電改は日本海軍最後の優秀な局地戦闘機という程度の知識は持っていましたが、それ以上に詳しく調べた記憶がないのは、まだ紫電改のプラモデルが出ていなかったからでしょう。

1980年代にスミソニアン博物館をじっくり回ったことがありますが、紫電改は見かけませんでした。その後にリストアされた紫電改が現在は別館に展示されているようです。

「なんで紫電改なの?」と聞いたら、彼女の叔父さんが紫電改を設計した菊原静男氏で、YS-11開発にも参加したという話です。私が鉄道などのメカ好きだと知ったので、尋ねたそうです。紫電改についてもう少し知っていたら、楽しい話になったでしょうが、残念ながら、お互い紫電改について詳しいわけではなく、私も「へえ、そうだったんだ。」と言う以上の会話にはなりませんでした。

そんなことがあって、ちょっと気になったので、紫電改についての本を読んだり、ネットで調べたりしてみました。さすがにたくさんの情報がありますね。菊原氏は川西航空機(現・新明和工業)に入り、海軍の九七式大型飛行艇、二式大型飛行艇から戦後のPS-1まで、主に飛行艇を設計していたそうで、紫電改も水上戦闘機「強風」を改造して「紫電」を作り、その改良型が紫電改となっています。戦後に押収された数機がアメリカでテストされて、優秀性が確認されたそうです。

あらためて知った紫電改そのものに、今となっては格別の興味を持ったわけではありませんが、当時の背景事情や個別のエピソードにはいろいろと面白いものがありました。

若い頃だったら、紫電改に採用されていた自動空戦フラップの構造に興味津々であっただろうと想像するのですが、今回のお勉強で一番面白かったのは、本筋ではない、手回し式計算器の話でした。「日本の名機をつくったサムライたち -零戦、紫電改からホンダジェットまで-」(前間孝則 さくら舎 2013)を読んでいると、菊原氏が川西航空機に入社して間もなく(1930年頃)、ある機体の強度計算を指示されて、タイガーの手回し式計算器を使って2カ月かかったという話が紹介されていました。

少し引用します。
「(菊原氏は)一二元一次連立万程式の解を求めるため、川西社長にねだってタイガーの卓上手回し式計算機を買ってもらって挑んだ。『朝、出社して、夜、退社するまでの一日中、タイガー計算機を手回しし続け、おおよそ二カ月近くを要して方程式を解いて、答えを出した』のだった」

タイガー計算器(日本のメーカー)は大正12年(1923年)の創業で、1970年まで手回し式計算器を製造販売していました。現在の(株)タイガーのHPに「タイガー手廻計算器資料館」という案内があり、社史や使い方が出ていますが、そこに、「大正13年3月 改良を重ねた3台がすぐさま呉海軍工廠へ1台545円の価格で納入された」とあります。菊原氏が使ったのはその6年後くらいですから、当時としては最新の機械だったのでしょうね。

航空機の設計については何も知らないのですが、この話を読んで、学生時代に統計計算で手回し式計算器を使ったことがあったので、菊原氏が連立方程式を解いてから40年近く経った頃に私もそう遠くない世界を追体験していたことがわかりました。

菊原氏が計算した多元連立一次方程式は工学系や気象予測など、多くのシミュレーションで使われています。変数が2個の2元連立一次方程式は中学校で習いますね。これくらいであれば、紙と鉛筆の手計算で解を出すことはむずかしくありませんが、変数が12個もあると、手計算で解くのは絶望的です。当時は「やるしかない!」ということだったのでしょう。

上野の国立科学博物館に「九元連立方程式求解機」という機械が置いてあります。以前に訪れた計算機の歴史コーナーで撮った写真に入っていました。右端に写っている黒い棚のように見えるものです。

1936年に米国MITのウィルバー(John B. Wilbur)が土木の構造解析や経済学上の計算を行える計算機械を考案・製作したという情報を元に、戦時中の1944年に東大の航空研究所で作られたそうです。精密に測定しながらバーの角度を調整すると、9個の変数までの方程式が1%程度の誤差で解けるそうです。手動のアナログ計算機です。それだけの需要があったんですね。コンピュータが使われるようになると、シミュレーションも巨大化して、何万個もの変数の連立方程式が使われるようになりましたが、そういう時代ではありません。

これはタイガー計算器の10桁の手回し式計算器です。現在、本棚の飾りとして置いています。

1960年頃の製品で、職場で廃棄備品になったので、もらっておきました。学生時代に使ったものではありませんが、ほぼ同じ製品です。

固いですがまだ動きます。ホコリまみれで、分解掃除と注油をしようかと思うのですが、掃除したとしても使うわけではないし、元に戻せない可能性が高いので、なかなかその気になりません。1ゲージの機関車並みに、とても重い(5.6kg)ので、扱いが大変です。

手回し式計算器は加算と減算しかできません。乗除算は桁移動で加算か減算を繰り返して計算します。数値をセットしてから、右側奥のハンドルを回す(加算は時計回り、減算は逆)のですが、指先と腕がすぐに痛くなります。1時間くらいが限度でした。それでも、5桁以上の乗除算をする場合は、紙の上での手計算より速くて正確でした。平方根を出す手順もありましたが、忘れました。

使った時の擬音(割り算の場合)は、カチカチ(数値入れ)とカチン(数値セット)が2回(被除数と除数)の後、ジャージャージャー(減算回転)→チーン(回しすぎの合図)→ジャー(回転戻し)→コトン(桁移動)、を繰り返すという雰囲気です。

これを少なくとも一日8時間、それを2カ月近く続けるというのは大変な作業です。1950年代に、因子分析(主成分分析)という統計手法を手回し式計算器でなさった先生がいましたが、それも2カ月くらいかかったと聞きました。

12元連立方程式の解に至るまで、どれだけの加減乗除が必要だったのか、2カ月という期間から、おおまかに逆算できそうです。5桁の乗除算は慣れない私で1個が1~2分かかります。加減算は20秒くらいです。桁数が上がれば時間もかかるし、毎回の計算結果をメモしておくことも必要です。仮に、慣れた人の所要時間が1個あたり1分だとしたら、1日8時間で480個、2カ月50日勤務で24,000個になります。手回しの回数は数十万回になるでしょう。

1940年代のアメリカでは、手回し部分がモーターになった電動計算器が普及していたようです。アメリカのモンロー(Monroe)製の電動計算器を一日だけ使わせてもらったことがあります。実感としての速さは手回しの十倍以上で、数値設定もボタンだし、桁送りも自動だったので、計算開始のボタンを押すだけでした。ただ、古かったからか、音がとてもうるさかった記憶があります。タイガー計算器も戦前に電動の試作品を作っていたそうですが、日本でどれくらい使われていたのかはわかりません。

私が手回し式計算器を使ったのはちょっとした統計計算だけでした。すでに大学に計算機センターが出来ていて、因子分析のような計算は、紙カードか紙テープにプログラムとデータをパンチして渡すと、翌日に結果を受け取ることができました。バッチ処理と呼んでいました。

1980年代にはPCが普及してきました。今では、自宅PCに入れているSPSSという統計ソフトを使うと、手回し式計算器で2カ月かかったらしい主成分分析の100倍以上のデータで、かつ手間のかかる因子分析手法での計算であっても、実行ボタンをマウスでクリックすると即座に結果が表示されます。時間を測定している暇はありません。手回し式計算器でやるとすれば、毎日8時間で何年かかるかわかりません。研究者の時間の使い方がすっかり変わりました。

紫電改が設計・生産された戦争の時代あたりまでは、手回し式計算器で象徴されるように、人力の世界でした。それでも、「最強戦闘機紫電改 -甦る海鷲-」( 「丸」編集部編 光人社 2010)を読むと、菊原氏自身が書いた「設計者の回想:最強戦闘機の生涯」という記事で、「設計開始が昭和十八年二月で、その年の末に試作一号機が初飛行を行ったから、ちょうど十一ヵ月間である。」とあります。改良型の設計とは言え、初飛行までが1年足らずの短期間だったというのは驚異です。戦時下の急務ということで、機体強度などの計算には多くの人が手分けして、手回し式計算器を使っていたのでしょうか。

夏祭浪花鑑

7月24日、第三部のサマーレイトショー「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」を観てきました。

舞台となっているのは高津宮の夏祭ですが、今日はちょうど天神祭の宵宮で、時節はぴったりです。

天神橋筋六丁目で乗り換えた地下鉄堺筋線で、ドアがヒョウ柄になっているのに気がつきました。「大阪名物」のデザインかと思いましたが、天王寺動物園のPR列車だそうですね。

いつものプログラムとミニ床本です。

夏祭浪花鑑は、大坂歌舞伎の「宿無団七」を元に、並木千柳、三好松洛、竹田小出雲の合作で、1745年に竹本座での初演です。当時実際に起こった殺人事件を取り上げて作られたとされていて、大阪(語りでは大坂:おおざか)の暑い夏を描いています。

元来は全九段という長編のようですが、今回のように、「住吉鳥居前の段」、「釣船三婦内(つりふねさぶうち)の段」、「長町裏の段」の三段だけが上演されるのが普通だそうです。解説を読むと、かなり複雑な人間関係なので、1/3だけで理解できるかな、と思っていましたが、まあ、語りだけでそれなりにわかりました。でも、文脈がわからないまま、山場だけを観るのは、面白いものの、気分はすっきりしません。結局、観劇後に文脈を調べることになります。

開幕で、太夫、三味線、人形遣いは夏らしい薄青の着物姿です。
住吉鳥居前の段は、よく知っている住吉大社が舞台で、今は阪堺電車の住吉鳥居前停留所のある道路あたりです。舞台上手に反橋(そりばし)が描かれ、中央に髪結床があります。髪結床の両側に立て札が1本ずつ立っています。夏の御田植と大祓の案内です。その横には「曾根崎心中」と書かれた札(浄瑠璃公演のCM?)が置かれています。こういう細かな設定が楽しいですね。

この段で、多くの情報が与えられ、記憶するのが大変でした。
妻のお梶と子供、親しい老侠客・釣船三婦(つりふねさぶ)がやって来て、主人公・団七九郎兵衛(だんしちくろべえ)が牢から釈放される日であることがわかります。団七が恩を受けた武家がいて、その放蕩息子・磯之丞が駕籠に乗ってきて降ろされ、駕籠かきにいたぶられますが、三婦に救われ、お梶らが休憩している昆布屋へ会いに行きます。

団七が縛られたまま連れてこられて、鳥居前で縄を解かれます。三婦から着物をもらって髪結床に入ると、磯之丞が入れ揚げている遊女・琴浦がやって来ます。横恋慕している大鳥佐賀右衛門に連れ去られそうになったところに、団七が有名な柿色の格子「団七縞」の姿で現れて、琴浦を助けます。

その後、佐賀右衛門の指図で、三婦にやっつけられた駕籠かきの助っ人として現れた一寸徳兵衛(いっすんとくべえ)と団七は、どちらも例の立て札を引き抜いて実力伯仲の取っ組み合いをしますが、お梶が曾根崎心中の札を取って、仲裁に入ります。お梶の説明で事情が分かった徳兵衛は団七と義兄弟になります。

釣船三婦内の段で面白かったのは、三婦の女房が夏祭の食事を準備しているのですが、それが焼き魚だということでした。鱧(はも)かと思っていましたが、そうではなく、あじの焼きものが大阪の夏祭料理のメインだと知りました。

最後の長町裏の段が有名ですね。
長町というのは、堺筋(紀州街道)の日本橋から南側の旧地名で、日本橋も高津宮も現在の文楽劇場のすぐ近くです。団七の義父(お梶の父)義平次が大鳥佐賀右衛門のために、団七に頼まれたと嘘をついて、三婦の家から琴浦を駕籠で連れ出し、それを追いかけた団七が最後に長町裏で義平次を殺し、逃げていくというストーリーです。

以前から、「団七走る」というキャッチコピー?は聞いていましたが、なぜ走るのかは知りませんでした。この段の最後の語りが「八丁目(さして)」で、団七が走って逃げて下手に消えますが、ここが「団七走る」のようですね。しかし、八丁目がよくわかりませんでした。なぜか、地獄の八丁目か(そんなところがあるのか?)と思ってしまいましたが、省略された次の段「田島町団七内の段」を調べると、上本町あたり(の昔の地名)に団七の家があったんですね。

観終わった感想は、団七の動きは人形とは思えない迫力で、桐竹勘十郎の実力を堪能したという気分です。歌舞伎役者の所作との相互作用が大きいと感じました。長町裏の段は特に、太夫が二人で掛け合い、囃子方による祭の鉦・太鼓の洗練された背景音がとても効果的で、すばらしい演出でした。

このストーリーは、庶民の生活情景の中での悲劇ではなく、いわゆる渡世人・侠客の事件物語です。最初の二段が省略されているために、団七が牢から釈放される日から始まります。やくざ映画の雰囲気で、三婦は「江戸を知らぬ者と牢へ入らぬ者とは男の中の男ぢゃないと言ふ」と言っています。

団七が殺した義父の義平次は強欲で、敵味方関係なく単純な儲け話に乗ってしまうようですが、長町裏の段で、団七が義平次に琴浦を戻してほしいと懇願する場面では、浮浪児だった団七の若い頃から、義平次がいかに団七を世話したかを伝えながらなじります。

このなじった内容はすべて事実のようで、団七は「サアそれは皆、お前様のお世話」、「段々の仰せ、一つとして返す詞もござりませぬ」と認めています。でも、どうしても恩義ある人の放蕩息子の女を取り戻したいため、「ここに三十両ござりますれば」と嘘をついて、琴浦を三婦の家に帰させます。

この嘘がばれて、義平次は団七を打擲し、団七は額を割られたことに逆上し、それから後は「はずみ」で義平次を斬ってしまいますが、最後には「ム、コリヤモウ是非に及ばぬ。毒食はゞ皿」と言いつつ、とどめを刺します。

粋な着物で喧嘩して、仲間内の男だて・女だてを大事にし、男が立つかどうかで是非を判断するので、一見、「カッコええなあ」と言いそうです。釣船三婦内の段で、徳兵衛の女房・辰が磯之丞を預かるという場面で、三婦が辰に色気を感じるので問題が起こるのではと言うと、辰は顔に火鉢の焼き金を当てて、火傷で色気を無くし、それで三婦は安心して磯之丞を預けるのが象徴的です。

でも、挙げ句の果て、団七は義父を殺めてしまい、その後、(省略された段では)団七は仲間たちにかばわれるというストーリーになっています。

三婦、徳兵衛、それぞれの女房たちの強さに対して、団七だけは強がりと裏腹な弱さを見せているように感じます。あまりすんなりとわからない渡世人の世界でしたが、舞台は圧倒される迫力でした。

IKEAの引き出しユニット

今年は模型の塗装を始める計画を立てていて、工作室の塗装ブースを置いた下に塗料などを入れる引き出しがほしい、と思いつつ、引き出しを自作する自信はないので、ネットでIKEAの商品を眺めていたら、良さそうなサイズを見つけました。

7月になった土曜日の夕方4時過ぎですが、IKEA鶴浜まで行きました。5年前の家のリフォーム直後にはIKEAに連続して何度も行きましたが、その後は時々です。日差しが強い時間帯で、高速は使わずに1時間のドライブです。

けっこう店内は混雑していました。かなり歩いて、目的の引き出しユニットを見つけました。普通は品番をメモするのですが、面倒なのでスマホで撮影しました。

買うのを決めた後は、百均ショップと同じで、目的のものだけで帰ることはできません。通路を歩きながら小物を黄色いバッグに入れていました。
最後の買い物です。

帰りのIKEAの駐車場から見えた夕日です。大阪の暑い夏の始まりですが、海風は涼しく感じました。

帰りは阪神高速に乗って、それでも40分かかりました。
玄関で箱を開けました。いつもながら、うまくパッキングされています。

翌7月2日、相当に重いので、何回かに分けて、2階の工作室に運んで組み立てました。

引き出しユニットを置く予定の場所です。周りはすべて手製の作業台や棚で取り囲まれています。

説明書の通り、後ろと両脇の板から組み立て始めます。紙箱に取り付けパーツを入れています。説明書にはマイナスのドライバーも必要工具になっていましたが、不要でした。

こういうパーツをねじ込んでネジを固定する工夫はいつも感心します。サイズが2つあります。小さいのは引き出し用です。

木のダボも入れて、天板を取り付けます。

底板を取り付けます。底のネジだけは付属の専用工具でねじ込みます。

外枠ができあがったので、設置予定の場所に入れてみると、あまりにぴったりで驚きました。

安心して、引き出しを組み立て始めます。引き出し用の部材一式です。

引き出しの後ろを固定するのはプラスチックの留め具で、金槌を使うように説明されていましたが、周りを傷つけないように、ゴムのハンマーを使いました。

引き出しを入れてから、内側でスライダー金具にネジ止めします。

一番上の引き出しができました。

同じ作業を続けて、完成です。

さすがに、自作とは違う仕上がりです。スライダーにベアリングが入っていないので、引き出しが少し重いめですが、問題はないでしょう。

残ったパーツです。写真上の樹脂パーツは天板を載せて机にするときのクッション材で、今回は使いませんでした。下の左は底板を取り付けるネジを回す工具です。中央は木のダボ、右は引き出しを固定するプラスチックで、いずれも予備品だと思うのですが、取り付け忘れの可能性を完全否定するわけではありません。

組み立て作業に要した時間は、ゆっくりペースで1時間15分でした。

組み立てる作業が必要だと、なんか自作したような気分になるのは、模型のキットと同じですね。スクラッチ・ビルディング(素材の加工から自作するDIY)は究極の工作でしょうが、それなりの知識と技術が必要です。でも、組み立てキットでも、楽しさの基本は同じだろうと思います。それに、完成品に不満があった時に文句を言う相手が、スクラッチ・ビルディングだったら自分自身でしょうが、キットだったらキット・メーカーなので、気楽なものです。

引き出しユニットは工作台の一部になりましたが、工作コーナーを整理している最中で、どういう風に片付けようかと悩んでいるところです。引き出しユニットが入ったので、これで整理整頓が捗る、かな?

 

本の自炊 パートⅡ

2年前に本の自炊を集中してやりました。それで片付いたつもりでいましたが、すべて段ボール箱に入れていた本だけでした。あらためて本棚を眺めていたら、自炊しておきたい本がたくさん残っていることに気がつきました。ちょっとした大物もありました。

使うスキャナーは相変わらずScanSnap S1500ですが、快調のようです。自炊の基本は前回の記事と同じです。

久しぶりだったので、まずは古い文庫本から始めました。綴じている部分を裁断した状態です。

これは1970年(昭和45年)の印刷で、比較的新しい?と言えます。もっと古いのは2年前に処理しました。それでも周囲に黄変が広がっていて、この状態で実物を読もうという気にはなりません。

これをS1500で読み取り、Adobe Acrobatで処理した結果(同じ見開きページ)です。黄変した紙をスキャンしたときの特徴として、点々が現れますが、実物の状態から比べると、それほど気になりません。このあたりはスキャン濃度を薄くすれば、点々はなくなりますが、文字が少し薄くなるので、バランスの問題のようです。

もう少し新しい1995年印刷の場合です。

これだと、ほとんど点々は出ません。

S1500で何度かに分けてPDF化したスキャン文書をまとめて、ページ落ちの有無を調べてから、上下左右を全体にトリミングします。ScanSnapでPDF化しただけでは、周辺の黄変部分が少し黒くなって残り、それが文字認識に悪影響を与えますし、それに、読む際には、周辺の白い部分が少ないほうが読みやすくなります。

スキャン文書をまとめ、トリミングや文字認識の処理をするには、以前はS1500に付属していたAdobe Acrobat X Standardを使っていましたが、サポートも終わったので、Adobe Acrobat Pro DCに買い換えました。Proと言うくらいで、値段もそれなりにしているから、機能改善が図られているだろうと期待したからです。でも、結論から言えば、こと「本の自炊」に関しては、期待はずれでした。

設定をカスタマイズしていないし、慣れていないからかもしれませんが、Pro DCの画面はアイコンが多用され(過ぎ)ていて、目的の機能を選ぶまでのマウスのボタン押し回数が増えて、直感的ではない印象です。自炊する目的で使うことはない機能が数多くあって、自炊だけに使うには「もったいない」と言えるのでしょう。

気落ちしたのは、自炊で重要な文字認識(OCR)と回転補正機能がX Standardと変わらないことでした。文字認識可能な漢字は同じ程度(旧字体はほぼ全滅)です。さすがに、英語の本は文字セットが少ないため、ほぼパーフェクトと言えますが、これはX Standardでもそうでした。

たとえば、気になっていた、文字認識+回転補正をかけると画像が斜めになることがある、という症状は同じように出ます。元の画像が斜めに描かれていると、水平を調節してしまうような処理をしています。ページの外枠を基準にして回転補正をかけるのが常識じゃないですか、とツッコミたくなります。

文章だけのページならほぼ問題はありませんが、短い文字列だけのページだと、こんな結果になることがあります。

90度単位で回転補正(補正ではなくエラー?)がかかった場合は簡単に修正できますが、このような角度になった場合は修正できません。Pro DCでは、こういう変な回転補正にならないこと、あるいは、任意の角度で修正できたらいいな、と期待していました。

また、A4以上の写真集の場合、文字認識をかけると、すべてのページに縦にスジが入ってしまうことが多々あります。この画像をクリックで拡大するとわかると思います。

いずれも、元の画像のままにしておきたい場合は、ファイルサイズは小さくなりませんが、画像を圧縮しないオプションを選ぶ必要があります。写真集では、そのモードで文字認識をかけるようにしています。これらの症状と対策はStandard Xとまったく同じです。

今回の大物は、大阪に戻って間もなく古本屋で購入した、角川の日本地名大辞典です。大阪府、兵庫県、京都府(上下2冊)の4冊で、大阪府は1,800ページ(2.1kg)、兵庫県は2,300ページ(2.4kg)、京都府は上が1,500ページ(2kg)、下が800ページ(1.3kg)あります。

昭和50年代(1980年代)の発刊で、当時から欲しかったのですが、高価でとても手が出ませんでした。それがきれいな状態で、定価の2割以下になっていました。

これらを文字検索ができるPDF文書にするのが目的です。

解体と裁断で1冊あたり30分近くかかりました。表紙カバーや箱などの画像も入れたいので、それらはA3用のEPSON PX-1700Fで読み取って、見やすいページに分けました。

ばらした本文ページをS1500で読み取らせましたが、紙質との相性が悪いのか、1回に入れる量を多くすると重なりが頻出しました。結局、40ページ(20枚)以下ずつ読み取らせました。そのため、兵庫県は2時間くらいかかったと思います。その他は少しマシでした。

2日がかりで4冊を自炊し、文字検索が可能なPDFファイルになりました。
2,000ページの本から文字を検索するのはさすがに時間がかかりますが、PDFを開いてからキャッシュメモリーに入ると即座に検索結果が出ます。ともかく、これだけ重い本を手にとって調べることと比べたら、とても気軽です。もちろん、すべての文字が正確に認識されているとは限りませんけど。

まだまだ、自炊しておきたい文庫本や単行本があります。気が向いたときにやっていくことにします。

オーディオ関連の木工

4月にテレビの買い換えを決めたので、テレビの音響設備を強化することにしました。普段はテレビのスピーカーだけで十分ですが、DVDやBDの映画を観るときは音響に不満を感じます。そこで、せっかくの新しいテレビなので、アンプとスピーカーをつなぐことにしました。スピーカーは余っているのがあるので、小さなアンプ(TEACのAI-301DA)を購入しました。でも、このアンプのほうが、BOSEの301AVMを鳴らしているアンプ(TEACのA-H01)よりもいいので、これをBOSE用にしました。そういう順番の都合で、4つの作業が連続しました。

第一段
4月29日、BOSE用のアンプを交換するついでに小さなボックスを作ることにしました。
BOSEはBGM用で、ネットワーク・プレイヤーSqueezebox touchと小型アンプを食器棚の上に置いています。

この状態ではホコリが溜まります。そこで、アンプとSqueezebox touchを重ねる箱を作りました。手持ちの板を切って、ミニビスで留めただけです。下塗りを終えました。真ん中の棚が中途半端に見えますが、下に置くアンプの通風口をふさがないためです。

仕上げはツヤ消しの黒塗装で、ちょっと雰囲気が良くなりました。2つのリモコンも置くことができました。

少しホコリよけになり、Squeezebox touchの下に板を挟んだら、角度が垂直になり、画面が見やすくなりました。まあ、操作はiPadなので、この画面を見ることはあまりありませんが。

これは簡単な工作ですから、半日の作業で終わりました。
ただ、途中で別の誘惑に駆られました。301AVMの配線改造です。その気になって、スピーカーを外してみました。パスカルがボール遊びの途中でチェックに来たところです。

BOSEの内部配線は針金だし、過大入力防止のために電球が入っています。購入して間もなく、開けて調べたことがあって、えらく安直な作り方だなと思っていました。
スピーカー・ボックスの内部配線です。

改造は、電球を外して、配線を銅の撚り線に替えるという計画でした。少しクリアな音に変わるのでは、という期待でした。でも、気を取り直して、やめました。20年前に、クリアな音質のSX-V1Xよりも301AVMのほうが好みだったことを思い起こして、BOSEはオリジナルのままがいいのだろうと、吸音材やスピーカーを元に戻しました。BOSEの音は針金と電球で出るのでしょう。

第二段
5月1日、本題のテレビ音響設備の強化です。映画鑑賞用のスピーカーは、使うアテがなくて置いてあった日本VictorのSX-V1Xです。BOSEの301AVMと比べると、ずっと小さく、繊細な音が出るように思います。

古いオーディオラックをテレビ台にしています。

最初はアンプだけを中に入れて、スピーカーを両脇に置いてみました。しかし、小さいとは言え、両脇のスピーカーは邪魔になります。そこで、ラックの中に入れることにしました。横に倒せば入ります。オーディオ好きにはどうかな?という発想ですけど。

スピーカーを入れる前にサランネットを外して掃除をしようとしたら、何と、カビが生えていました。

柔らかいブラシで軽く拭き取ってみましたが、これ以上の無理はできません。10年以上片隅に置いたままだった報いです。音には変わりはなさそうです。このスピーカーは無垢マホガニーのニス塗りが自慢で、今でもきれいですが、テレビ台の中に入れるので、それは見えなくなりました。でも、使うようになったので許してもらいます。

右側はガラス戸を開けると中に入れることができるのですが、左側は引き出しになっています。引き出しをあきらめて、引き出しを載せていた板を切り取り、スピーカーが入るように、別の板を組み入れました。

台の強度を保つために、Lアングルで固定しました。これで終了です。塗装も含めて、これも半日仕事でした。

ガラス戸を閉めている状態です。この段階で、BDプレイヤーを別室のものと入れ替えました。こちらはテレビと同じ東芝製なので、レグザリンク(HDMIリンク)でコントロールできて便利です。

中のBDプレイヤーやアンプを使うときは、ガラス戸の左側を開いて操作します。

プログラムが始まって、音を聴くときは右側を開きます。

ちょっと手間なので、ガラス戸を外そうかと思ったのですが、それほど頻繁に使うわけではないし、ホコリ防止になっているほうがいい、という現在の判断です。映画を1本観ましたが、とても迫力のある音響となりました。

引き出しのその後(7月10日追記)
テレビ台から外した引き出し2つがもったいないので、余っていた集成材で枠を作って、物入れを作りました。

第三段
連休明けの5月9日、メインの音響セットを入れている納戸のドアを折戸にすることにしました。テレビを買い換えましたが、古いテレビがモニターとして使えそうなので、納戸横の窓下に置く計画を立てたためです。音楽ビデオ観賞用です。

納戸のドアです。下の左右にケーブルを通す切り欠きを作っています。
左の窓下にテレビを置く予定です。

開けたところです。テレビを置くためには、ドアの半分くらいが邪魔になります。

取り外して、丸ノコで真っ二つにしました。こういう、簡単で荒っぽい作業は大好きです。

フラッシュドアなので、空洞がいっぱいあります。ドアを折ると見えますので、角材で埋めていき、折戸用丁番を取り付ける場所は少し奥まで角材を入れました。すべて木工ボンドによる接着です。

すべて埋めて、パテで仕上げました。後で塗装します。

折戸用の丁番を取り付けて、元の位置に戻しました。
取り付けた結果をパスカルがチェックしていました。

折った状態です。

ドアを閉じると、折戸とはわからない感じです。ついでに、取っ手をIKEAで買ったものと取り替えました。

二日がかりで、まあまあ、うまく出来たと思いましたが、その後、テレビを置く位置を変更したので、折戸にする必要はなかった、というオチになりました。外観に変わりはないので、作業が面白かったことで十分です。

第四段
置く位置を変えた古いテレビは音楽ビデオのモニターに使います。そこで、BD・DVDレコーダーをテレビに載せる台を作りました。

脚に4つの穴を開けています。これはテレビ背面にある壁掛け器具取付のM6ネジ穴に合わせています。台の横だけ黒く塗って取り付けました。

液晶テレビでも、10年以上前の製品はけっこう厚いため、後ろの奥行きに違和感なく収まりました。音声出力は光ケーブルでメインのDAコンバータにつないでいます。

正面の姿です。折らなくてもよい折戸が右に見えています。

扱いやすく、便利になり、5月初旬まで続いた関連工作は終了しました。

 

菅原伝授手習鑑

4月24日、四月の文楽公演に行き、午前から始まる第1部の菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)を観てきました。午後の第2部のメインは曾根崎心中なので、好みはそちらなのですが、第1部では豊竹呂太夫(英太夫から)の襲名披露口上もあり、今回は華やかそうなところも見たい、という気分でした。

始まりは寿柱立万歳(ことぶきばしらだてまんざい)で、江戸時代らしい数え歌が特徴的でした。

メインの菅原伝授手習鑑は有名な演目ですが、初めての鑑賞です。今回は関係の深い場所が近所にあるので、チケットを予約してからの事前勉強として、4月初旬にあらためて訪ねました。守口市佐太中町の佐太天神宮です。

この鳥居が向いているのは淀川です。

正面に高くなっているのが淀川左岸の堤防で、手前の道路は国道1号線です。明治までは京街道の道筋でした。

このあたりは菅原道真の荘園だったそうで、「佐太」という地名は、道真が太宰府に流される途中、ここで、戻ってよし、という「沙汰」が来るのを期待して待っていたためという話があります。でも、菅公以前から佐太郷の地名はあったそうで、この話は作りもののようです。道真の死後50年くらいに最初の社が建てられたとされています。

本殿です。桜の季節でしたが、桜は裏で1本見ただけです。

境内も駐車場もけっこう広く、この日は閑散としていましたが、初詣に来たときはクルマの列が長く、あきらめたことがあります。

チェックポイント、白太夫社です。本殿のすぐ横にあります。

調べてみると、白太夫(はくだゆう)は菅原道真の幼少時からの守役だった渡會春彦(わたらいはるひこ)という伊勢神宮の神官だそうで、若い頃から白髪だったとのことです。白太夫社はたいていの天満宮に置かれているようです。

道真が太宰府に左遷されたとき、京に残った白太夫に愛蔵の梅と松と桜の世話を託しましたが、桜は悲しみに枯れ、松と梅は太宰府を目指して飛んだものの、松は途中(現・神戸市の板宿八幡神社あたり)で力尽き、梅だけが太宰府にやってきたという伝説があります。このあたりの伝説が浄瑠璃に脚色されて取り入れられているようです。

道真が亡くなって800年後に書かれた菅原伝授手習鑑では、佐太の荘園で働いていた農夫の四郎九郎が菅丞相(かんしょうじょう:菅原道真の浄瑠璃での名前)から、70歳になったら「白太夫(しろだゆう)」と名乗るようにと言われたことになっています。四郎九郎(白黒)から「白」になるわけですね。

この日、佐太天神宮では、一羽のウグイスがよく鳴いていました。音が出ます。

今回の公演では、前半部は省略されていて、佐太村での話、「茶筅酒(ちゃせんざけ)の段」から始まりました。四郎九郎が70歳になって白太夫を名乗ることになる場面です。庭には梅、松、桜があります。京ではなく、佐太村の農家が舞台です。

白太夫には三つ子(梅王丸、松王丸、桜丸)がいて、それぞれ菅丞相、仇敵の藤原時平(しへい)、斎世親王の牛車の舎人となって働いています。浄瑠璃らしい面白い設定です。
もちろん、佐太天神宮にも臥牛がまつられています。

しかも、牛社は2つありました。

白太夫の古希の祝いの席に桜丸(人形:吉田簑助)の妻・八重(吉田簑二郎)が京から早々に到着して、「淀堤から三十石の飛び乗り」なんて、落語「三十石夢乃通路」を連想させるセリフが笑わせてくれました。年代から言えば、浄瑠璃が先なんでしょうが、初期の床本のセリフかどうかはわかりません。いずれにせよ、三十石船は江戸時代からなので、お約束の「現代版」になっています。

それに、嫁たちの名前が、松王丸(吉田玉男)の千代(桐竹勘十郎)、梅王丸(吉田幸助)の春(吉田一輔)、なんていうのも笑ってしまいます。

「喧嘩の段」では、梅王丸と松王丸が現れ、喧嘩して、桜を折ってしまいます。桜が枯れたことに対応しているようです。「訴訟の段」では、仇敵に仕える松王丸の勘当が許されますが、後に驚愕の結末が待っています。

「桜丸切腹の段」では、菅丞相の左遷の原因を作ったこと(省略されていた前半で、斎世親王と丞相の養女・苅屋姫の密会発覚)で、桜丸が切腹してしまいます。白太夫は仕方がないという判断です。農家の息子の舎人が切腹というのは不条理ですが、江戸期の庶民を泣かせるには効果的だったのでしょうね。

ここで、いったん休憩となりました。休憩中に後ろで少し拍手が聞こえたので、何だろうな、と見てみたら、吉村・大阪市長が観劇に入って来ていました。前市長と文楽協会とはいろいろありましたが、今はどうなのかな。

休憩後に、豊竹呂太夫の襲名披露口上があり、先輩の豊竹咲太夫、三味線の鶴澤清治、(少し若いけれど)同輩の桐竹勘十郎による披露口上がありました。いずれも、呂太夫へのツッコミと暴露話が多く出て、大阪らしい楽しさの披露口上でした。

「寺入りの段」、「寺子屋の段」がこの浄瑠璃のハイライトなんでしょうか。菅丞相の仇敵・藤原時平に仕えていた松王丸夫婦が息子を菅丞相の息子・菅秀才の身代わりとして殺させるという設定です。かなりショッキングな話で、ちょっと行き過ぎの感を受けました。でもまあ、重要人物の影武者を幼少の頃から使うというのは近世までの常識だったのかもしれません。

もう一段、菅丞相が亡くなってからの天変地異などの場面「大内天変の段」は省略されて、終演となりました。

観劇後の気分は、襲名披露口上以外、華やかな筋書きではありませんでしたが、有名なだけあって、よく作り込んだ作品だな、というもので、納得していました。

今回は事前に佐太天神宮を訪ねたものの、床本を読んでおくという準備はしませんでした。しかし、そのことにより、寺入りの段から寺子屋の段に至るストーリーを驚きながら観ることができました。床本の事前勉強というのは、むしろ劇の面白さを失わせることでもあり、初心者にとってはむずかしい問題です。今回は成功したようです。

まあ、浄瑠璃の具体的な筋書きを知らなくても、人形遣いの知名度の順番で重要な役がわかりますので、配役の誰に注目するかは決まってしまいます。今回なら、玉男の松王丸、勘十郎の千代という夫婦の動きを中心に観ることになります。何度も観るようになると、太夫、三味線、人形遣いの深みを判断できるのでしょうね。

それにしても、没後1100年になっても、道真人気は大したものです。日本各地に天満宮があります。全国天満宮梅風会という天満宮の団体があり、そのHPには全国に12,000社ほどあると書かれています。北野天神縁起や菅丞相物語などの絵巻物を眺めていると、平安後期か鎌倉時代には学問の神様にもなったようですが、昌泰の変(901年)の後、左遷された地で亡くなった後の天変地異が怨霊の仕業として怖がられて、天神(雷神)としてまつられ、正一位・太政大臣まで贈られたという経緯を考えると、なかなかの怪奇伝説と言えます。天皇への祟りをもたらしたというのが大きいのでしょうね。祟りなどという思考経路は現代では廃れて、普段は大阪の天神祭を楽しく拝見するくらいですけど。

テーブルに引き出しを

コンピュータを置いている南洋材のテーブルは広くて使いやすいのですが、引き出しがないため、文房具などの小物をいつもテーブルの上に置いたままにしてしまいます。テーブルの下の奥に整理棚があるのですが、出し入れが手間でした。先週、突然に思いついて、引き出しを取り付けることにしました。

2年前に設置したときにパスカルと記念写真を撮っていました。

2年経って、天板の角のニスが剥げてきたし、いくつか傷が付いたこともあり、ニス塗りの補修をしようと考えていたので、加工してもかまわない状況になっています。2台並んでいて、2台ともに取り付けます。

引き出しを取り付ける予定場所(中央)の裏の写真です。

2つの横桟があるので、それぞれにスライドレールを取り付けます。
先ずは、前の板を切り取りました。テーブルの上にはモノがいっぱい載ったままでの作業です。

もちろん、こういう箇所の切り取りは強度を下げる「禁じ手」です。でも、このテーブルの場合、天板が5枚ほどの合わせ板で、多くのネジで横桟と前板に固定されています。切り取った後の前板と横桟をLアングルで固定すれば、それなりの強度は保てるという「見立て」です。実際、切り取ってから、上に座ってみても少ししなるくらいでした。

両側の横桟にストロークが30cmのスライドレールを取り付けました。この写真では、スライドレールの位置決めのためにベニヤ板を下から取り付けています。作業後には外しました。

このあたりから曲者現る、が続きました。。2つの横桟が平行ではないし、当然、前板とは直角が出ていません。かなり雑な作りですね。調整に薄いベニヤ板を挟むなど、苦労しました。

引き出しの箱には、古い着物箪笥の引き出しだけを残していたので、再利用しました。深さと奥行きはちょうどです。

これを予定の幅サイズに切り取って、枠を一カ所取り付けました。上に載せているのは、切り取ったテーブルの前板です。

スライドレールのストッパー機能を使わないで、前面板の裏に小さな木片でストッパーを取り付けました。これで動きは普通の机の引き出しの感じになりました。

裏側のLアングル取り付け部です。これでしっかりしました。下の木片がストッパーです。

右側のテーブルです。引き出しの内側は、横幅41cm、奥行き36cm、深さ5cmです。

手前に丸い穴が空いているのは、前板を天板に固定するビスが通っていたためです。気にならないので、そのままにしています。

左側のテーブルにも引き出しがつきました。

引き出しを閉めた状態です。まだ、ニスの補修は終わっていません。
右側です。

左側です。

完全な直線になっていないようですが、ニス補修をすればわからなくなるでしょう。
思いつきの延べ3日の突貫作業でしたが、小物入れができて、とても便利になりました。

 

文楽研修修了発表会

1月28日、文楽劇場の文楽研修生の修了発表会(入場無料)を観に行きました。第27期だそうです。

先日の染模様妹背門松が始まる前に、ロビーに置かれたパンフレットに気づきました。研修生募集の案内はよく見かけましたが、実態は知らなかったので、いい機会でした。昨年の発表会はウィークデイで小ホール(150席ほど)だったそうですが、今年は土曜日で本舞台の文楽劇場(730席)です。

演目は、「万才」、素浄瑠璃「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」、「本朝廿四孝(十種香の段)」となっています。パンフレットを読むと、修了する研修生は3人のみで、他の演者は若手の太夫と三味線、人形ですが、ベテランも入っています。これが無料というのが不思議なくらい、なかなか豪華です。

開演1時間前には長い行列ができていました。場内は染模様妹背門松の時より多いくらいの観客でした。無料で配られた冊子も立派なものです。

冊子には、床本、出演者の紹介、修了研修生の紹介、研修内容、過去の研修生一覧などが丁寧に説明されています。

今年の修了生は、一人が語り、二人が人形となっています。
「万才」では、語りの修了生が床上の末席で、裃は着けていません。人形の二人とも足の担当ですが、黒衣衣装でも黒頭巾なしです。でも、とても力が入った動きでした。修了生の素浄瑠璃「一谷嫩軍記」は、よくがんばった!という感じでした。最後の「本朝廿四孝」では、竹本津駒太夫の語り、鶴澤清志郞の三味線という贅沢な組み合わせで、最後にほんのちょっぴりですが、修了生がそれぞれ人形の主遣いを担当させてもらっていました。

冊子によると、伝統芸能の研修制度は昭和45年に歌舞伎で始まり、文楽は昭和47年から、その後は寄席囃子などもできているようですね。

幕間の休憩時間に案内係の人に話を聞きました。
10人近くの研修生が入った年もあったそうですが、今回は5人が入って3人が研修期間2年を終えて修了まで進んだそうです。文楽劇場の研修は一種の職業訓練校ですが、文楽の世界で生きる気持ちが相当に強くないと大変でしょうね。

研修に入る段階で希望の道(語り、三味線、人形)を選ぶそうですが、途中で道を変更することもあるようです。今日も出演していた三味線の鶴澤清志郞は人形遣いを目指していたらしいです。別の才能の開花というわけですね。研修が終わると、技芸員になり、師匠の元で修業を重ねていくわけです。

一番面白かったのは、後ろの席に座っていた若い女性二人の会話でした。休憩時間になると、ひっきりなしに内部情報に関する会話が聞こえてきます。どういう人たちかはわかりませんが、とても「通」で、今回の研修修了生のこともよく知っているようです。その会話の中で、「師匠を選ぶのも芸のうちよね」というセリフが出てきて、思わず「なるほど」と、うなづいてしまいました。

毎年、観に来たい催しでした。

 

染模様妹背門松

2017年2月4日

1月23日、文楽劇場新春公演の「染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)」を観てきました。お染久松の心中話は昔から知っていましたが、人形浄瑠璃として三作もあるとは知りませんでした。

お染久松と言えば「野崎村」という短絡連想で、切符を予約した11月下旬に初めて野崎観音(慈眼寺)を訪ねました。

ウィークデイの夕方という時間帯で誰もいませんでした。
お染久松の墓があります。

誰もいない茶店風の床几の上に猫が数匹ゆっくり休んでいました。

この2匹が親子かどうかはわかりません。この子猫は他の猫にも受け入れられているようで、すべて同系統の雰囲気がありました。門の前にもいます。左側の灯籠の下です。

後で調べたら、お染久松を題材にした浄瑠璃は、最初が紀海音による「お染久松袂の白しぼり(おそめひさまつたもとのしらしぼり)」で1710年、二作目が今回観た菅専助による「染模様妹背門松」で1767年、三作目が近松半二による「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」で1780年となっています。1710年には歌舞伎でも上演されているそうです。

事件の真相はよくわかりませんでした。1710年の正月に大坂の油問屋・質店の娘・染と野崎村出身の奉公人・久松との道ならぬ恋の情死があったのは事実のようですが、詳しいことは分からず、文化デジタルライブラリーには、当時の尾張藩士の日記に「主人の娘そめと主の油細工所にて心中刃死」とある、とのことが同時代記録として最も信憑性が高い、という程度でした。

染模様妹背門松には野崎が出てきません。すべて大坂の油店・質店での場面です。ちょっと残念でした。それに、空席が目立ちました。後ろのほうはあまり座っていない状態でした。たぶん、もう新春公演も終わる時期だし、午前から始まる第一部が楽しそうで、そちらが中心になったのでしょうね。

「油店の段」は序章らしい構成でした。この段はチャリ場と呼ばれているそうで、太夫が即興?で最近の話題を取り入れながら、おもしろおかしく語ります。まあ、PPAPとか、広島-阪神とか、あまり旬とは言えないな、という話題もありましたけど。

それより、善六という悪玉の人形を操る桐竹勘十郎のなかなかの役者振りの顔を見ているのが楽しいものでした。吉田簑助、吉田玉男、桐竹勘十郎らのベテランが登場するとかなりの拍手が湧きます。でも、太夫がくるりと回って出て来た時や、担当が終わった時の拍手はいい感じですが、悪役の人形が登場してきて拍手というのは合わない気はします。

最後の「蔵前の段」は原作では心中に進む舞台です。しかし、今回の公演では、昭和35年に三味線の野澤松之輔(多才な人だったそうです)が改変した結末すなわち、蔵の内外で縊死するのではなく、蔵の鍵が開けられて、二人が逃げていくという話になっています。これは新春公演で心中物を上演することによる選択なのでしょうが、どんなものでしょうね。

お染久松は16歳くらいとされています。今なら高校2年生です。浄瑠璃を聴きながら、宮本輝の「夢見通りの人々」を思い出していました。夢見通りの人々では、同じ年頃の哲太郎と理恵による「道ならぬ?」恋の道行がありますが、さすがに現代の結末は心中などにはならず、理恵のなかなか見事な処世の姿が描かれています。

逃避行に改変されたお染久松の行く末はどうなるのでしょうか。