ママチャリの整備

2010年より少し前でしょうか、大阪に住んでいた母が買物用自転車(ブリヂストンのカルモCALMOという名の22インチの小型ママチャリ:CM22T)を購入していました。変速ギヤはありませんが、前輪にハブ・ダイナモ(発電器)が付いていて、尾灯がLEDの自動点灯になっています。

でも、母はもう自転車には乗らないようになっていて、玄関に置きっぱなしになっていました。私が大阪に戻ることが決まったので、その記念に貰いました。

この自転車の初乗りは大阪に引っ越す前年の2011年4月末、泉北・高石から移住先の北河内・守口までの運搬でした。ルートを考えていて、紀州街道から京街道を走ってみることにしました。

まだガラケーの携帯しか持っていなかったので、グーグル地図を事前に何枚も印刷して前カゴに置いて走りました。昔のサイクリングと同じです。

距離はおよそ30km、半日くらいの予定で、10時18分に出発しました。

浜寺公園あたりで紀州街道が南海本線で切れている箇所があって少し迷いましたが、高石からは高石神社、石津太(いわつた)神社などの式内社があって、住吉大社まで茅渟(ちぬ)の海岸線に沿う古い街道だったことがわかる楽しい道です。

大和川は紀州街道の大和橋で渡りました。とてもモダンな橋に変わっています。

出発から1時間ほどで大阪市住吉区・安立(あんりゅう)の商店街に入りました。

主要な旧街道はおおむね幅員が3間(約5.4m)ですが、昔の中心地だったので商店街が多いですね。出発地の高石も以前は商店街でした。ここを抜けると住吉大社の前に出ます。この裏が母の故郷です。

住吉大社前からしばらく紀州街道は拡幅されて阪堺線も走っています。遠くに通天閣が見えてきました。

西成区を過ぎると黒門市場が右横(東側)に見えています。

堺筋を通って、東横堀川にかかる高麗橋を渡ったのは12時45分でした。この東詰が江戸時代に紀州街道や京街道などの基点となっていました。阪神高速が上を通っていて風情はありませんが、里程元標(りていげんぴょう)跡の表示があります。

三十石船の八軒家船着場跡を通って、大阪城の京橋から京阪とJRの京橋駅に向かいます。

京橋駅を過ぎると、入口に「真実の口」がある新京橋商店街が京街道です。この商店街を抜けたところの食堂でランチにしました。

京街道には賑やかな商店街がさらにあります。旭区の千林商店街の一角には有名な鉄道模型店(翌年くらいに廃業した「きりん」)を見つけて入りました。

守口市に入り、守居神社のある土居旭通商店街を抜けると、京阪・守口市駅横に昔の文禄堤(兼・京街道)が少し残っています。そこを淀川方向に降りていくとゴールです。到着は午後2時過ぎで、ランチ休憩を入れて4時間ほどの道程でした。

さて本題です。
この自転車はその後ずっと買い物に活躍してきましたが、先週、後輪のスポークが一本外れていることに気がつきました。異音もなかったので、いつ頃から外れていたのかわかりません。

スポークを留めるニップルの根が割れていました。どうしたものかと考えながら全体の状態を眺めると、錆が目立って、かなり痛んでいます。虫ゴムを替えるくらいしか手入れをしていませんでした。自転車はガレージの屋根の下で、カバーをかけて置いているのですが、左側の錆がひどいようです。

買い換える潮時なのかもしれませんが、自転車の整備を勉強する機会と考えて、いろんな作業にトライしてみることにしました。

スポークのニップルを交換するためには後輪を外す必要があります。左右のハブナットを外してみました。左のブレーキ側は錆だらけです。

右のギヤ側はそれほどではなさそうです。

後輪を外しました。左側と右側を1枚の写真にしました。右のギヤ側もけっこう錆びています。

ママチャリは初めてで、後輪ブレーキはバンドブレーキかと思ったら、シマノのローラーブレーキでした。

ローラーブレーキのナットを外すのは一苦労でした。この自転車はすべての締め付けが強すぎるようで、そこに錆が出ているので大変でした。ニップルの割れもそんな原因のような気がしました。

ブレーキの表側と裏側を1枚の写真にしました。外回りが錆び付いています。ローラーブレーキにはグリスを時々補充しなければならないようですが、10年間、何もしていませんでした。でも、ブレーキの効きは悪くなかったし、変な音も出ていなかったので、機能的には問題はないようです。

2千円くらいのパーツだし、かなりの錆ですが、表面だけのようなので、錆を落として塗装して再利用することにします。真鍮ブラシ・錆取り剤・サンドペーパーでは無理だったので、最後はルーターの出番になりました。

ブレーキのローラー部分をカバーして塗装します。塗料は残っていた耐熱塗料です。こんな塗料でいいのかわかりませんが、つや消しは好みです。

仕上がりです。左が外側、右が内側です。

タイヤとチューブを外しましたが、どちらもまだまだ使えそうです。でも、チューブは新品に交換します。

amazonで注文したニップルが到着しましたが、サイズ番号は正しいはずなのに、大きくてまったく合いません。この商品のレビューをあらためて読むと、そういう間違いに注意しなさい、という記事がありました。適切な(一番ありふれたサイズの)ニップルを通販で購入する方法が見つからなかったので、近所の自転車屋さんにホイールを持って買いに行ったら、2個、無料でいただきました。

写真下の左側が適切サイズのニップル、上の袋と右側が購入してしまったものです。購入したニップルはどれくらいの重量用のスポークに使うのでしょうか。

いただいたニップルを使ってスポークを取り付け、リムテープを貼り替えました。

タイヤとチューブを取り付けて車輪の完成です。回すと少し揺れがありますが、まあいいことにします。スポーク調整をやり出すとニップルを何個もダメにしてしまうでしょう。

いろいろなパーツの錆を落として、グリス、オイルなどで保護して組み立てました。ひどかったのは後付けミラーの支柱で、ブレーキと同様に錆を落として銀色のラッカーを吹き付けました。

スポーク外れを見つけてから毎日1時間以内の作業で2週間かかりました。

これまで、自転車パーツの後付けはやっていましたが、これだけの自転車整備は初めてでした。でも、ネット上に必要な情報がすべてあって、なかなか勉強になりました。以前と同様以上に走るので、まだまだ買い物に活躍してくれそうです。

今回の整備費用はチューブ1本580円、リムテープ400円、高かったのはローラーブレーキのグリス(100g)1,100円でした。このグリスは1・2回分10gでも680円もするので、割安と思って買いましたが、10年以上持ちそうです。さらに高かったのは間違い購入のニップル1,150円です。

(追記 7月12日)
ちょっと気になっていたので、前輪のチューブも交換しました。

ハブのグリスアップもしておきました。

また、少し小物を注文しておきました。チューブと合わせて2,000円くらいです。チェーン引き(写真の下2個)は錆が取れなかったし、車軸掃除の輪は懐かしかったし、ハブのキャップはついででした。

交換しました。

いずれボトムブラケットのグリスアップをしないといけないでしょうが、今回はここまでです。

(追記 8月17日)
8月16日にボトムブラケット(BB)の点検と整備をしました。
暑いので、最初から玄関での作業です。

BB関連のナット類も固着と言うより、とても強いトルクで締め込んであって、取り外すのに汗だくになりました。正ネジか逆ネジかを何度か確認したくらいです。

ワイルドウェストと同じ旧式のカップアンドコーン型のBBで、グリスは残っていましたが、周りに拡がっていました。左が抜き出したところ、右は清掃してグリスアップしたところです。

BBは問題なく整備できましたが、その際に前部分のチェーンカバーがとても錆び付いているのがわかりました。これは錆を削り落として、シルバーで塗装しました。左が外した状態の表と裏、右が塗装後の表と裏です。

清掃後のチェーンカバー全体です。全体を磨いてシルバー塗装しようかと思いましたが、CALMOのシールがあるのでやめました。

所要時間は1時間の予定でしたが、塗装などを含めて4時間以上かかりました。これで一段落のつもりでしたが、後輪ハブのグリスアップが残っていました。いずれまたの予定です。

背割堤と石清水八幡宮

2月20日、春らしい陽気に感じたので、昼過ぎから歩く場所を求めて、淀川の三川合流地点となっている背割堤(せわりてい)までドライブしました。京都府八幡市(やわたし)です。桜の季節にはクルマでは無理な場所です。

昼食をどこかで、と思いながら、沿道で入りたいような店のないまま、45分ほどで目的地である木津川の御幸橋(ごこうばし)に到着してしまいました。ここは京街道です。

去年の春にできた「さくらであい館」という観光施設がありましたが、食事の提供はありません。横に展望タワーがありました。

無料でタワーに上がることができます。歩いて上がってもよかったのですが、目の前にエレベーターがあったので、乗ってしまいました。高さは25mだそうで、展望室の上のほうは網で、風が吹き抜けて寒く感じましたが、いい眺めです。

タワーから眺めた下流の三川合流地点への方向です。中央が背割堤の桜並木で、左が木津川、右が宇治川です。25mの高さでも、灌木があるためか、右端の桂川の水面は見えないようです。

背割堤は男山と天王山に挟まれた山崎地峡に合流する三川を治水のために区分した仕切り堤防です。このあたりはいろいろと治水・水利の歴史があったようで、大昔は宇治川が巨椋池(おぐらいけ)を作っていて、秀吉が宇治川を伏見に回して後、淀城付近で三川が合流していたようです。明治に入って木津川も流路変更されましたが、明治末の淀川大改修で合流地点を下流に移動して背割堤ができました。その後も洪水が多いようで、淀川治水の重要ポイントなのでしょうね。

宇治川と木津川を仕切った背割堤は広く、元々は松並木とされたそうですが、松枯れしてから桜に植え替えられ、現在の桜の季節はとても賑わうようになりました。

普通のイメージは、この三川合流地点から下流が淀川ですね。グーグル地図でも川の名前はそのようになっています。でも、河川法による淀川は琵琶湖、瀬田川、宇治川も含むそうで、宇治川にかかる御幸橋も淀川となっています。三十石舟は伏見からですから、昔は伏見あたりから下流を淀川と呼んでいたのでしょうね。

宇治川と桂川(見えない)の向こう、京都市街地方向です。左の遠くに愛宕山、右端に比叡山が見えています。

木津川上流方向です。ちょうど京阪電車が橋を渡っていました。

背割堤を先まで歩くつもりでしたが、先ずは食事をと、クルマを置いて、京阪八幡市駅まで歩きました。10分ほどで京阪の踏切にやって来ました。男山の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)がすぐそこです。

駅前です。

鯖の棒寿司でもと思ったら改装工事中、せめて走井餅でもと思ったら今日は閉店でした。仕方がないので、近くの喫茶店ランチになりました。「はちまんさんのお参りですか?」と聞かれましたが、そういう呼び方は「すみよしさん」と同じですね。食事中に、今から背割堤に戻るより、ここも初めてなので、石清水八幡宮を見物することに決めました。

ケーブルカーもありましたが、大した高さではない(120mくらい)ので、表参道を歩いて登ります。参道のイラストマップです。

一ノ鳥居です。

しばらく歩くと、左手に木の太鼓橋が見えました。面白そうですが、これは帰りに寄ることにしました。

二ノ鳥居です。ここまではほぼ平坦でした。

二ノ鳥居を過ぎると登りが続きます。

だんだんきつくなってきて、汗ばみ出して、やっと、あそこを右に曲がれば、たぶん、平坦になるだろうという場所に到着です。

曲がると、三ノ鳥居になりました。

一ノ鳥居から三ノ鳥居まで、ちょうど20分でした。ここからは石灯籠が続きます。

入口となる南総門の手前左に降りる道があって、広い場所に茶店とモニュメントがあります。ここはケーブルカーの男山山上駅からのルートのようです。

その奥にエジソン記念碑がありました。このあたりの竹を使って電球のフィラメントを作ったという、小学校で習った話題ですね。

記念碑敷地の端っこに猫がいました。右耳の先を切った地域猫のようですが、山の中なので、茶店あたりの人が餌をやっているのでしょうか。

元に戻って、南総門です。奥に本殿が見えています。

国宝の本殿楼門です。平等院鳳凰堂を連想しました。

本殿側から見た南総門です。

国宝の本殿を取り囲んで、多くの建物が重要文化財になっているようで、人が少なかったこともあり、落ち着いた雰囲気でした。

本殿をぐるっと回って、帰り道は裏参道を選びました。途中にケーブルカーの駅に別れる道がありましたが、もちろん、歩いて降ります。

裏参道沿いには多くの史跡があります。石清水という名前から、どこかに清水が湧き出している場所があるのだろうな、と思っていたら、ありました。本殿よりかなり下ですが、石清水社です。

説明には、この社では現在も水が湧き出ているそうで、水が溜められていました。

明治初期まで石清水八幡宮(護国寺)は神仏混淆の地だったわけですから、多くの仏塔や宿坊があったものの、廃仏毀釈によって、それらがほとんど消されています。今は少し平坦な土地のみになっている坊跡が多いですね。

そのうち、特に有名な松花堂の庵跡がありました。この泉坊の奥にあったようです。

松花堂弁当は昭和になってからの創作だそうですが、八幡市立松花堂庭園・美術館が少し南のほうにあるようです。

少し下で表参道と合流して、下に小さな社があったので、ここから参道を離れて、下に降りました。

この社(三條小鍛治相槌神社)は東高野街道に面しているのですね。歴史は古いらしく、名前のように、刀剣鍛造の神様のようです。関係があるのかどうかわかりませんが、三條小鍛治は奈良にも京都にも関係があるようですね。

ここから先は旧街道らしい家並みです。

奈良街道の案内がありました。

そして、往き道で見つけた木橋に到着です。安居橋(あんごばし)という名前で、典型的な撮影スポットの雰囲気です。

橋を渡ったところに川原に降りる階段があり、遊歩道が続いているので、降りてみました。そこで見つけた光景です。

なんと、木橋と思えた安居橋の裏は鉄骨で、コンクリートの橋脚に乗っていました。これはこれで悪くないアイディアだとは思いますが、どれくらいの人が裏を知っているのかに興味を持ちました。

もう4時を過ぎていて、クルマを置いてきた「さくらであい館」は5時で閉館なので、トットトットと戻りました。木津川にかかる御幸橋から眺めた京阪電車は夕陽の中を走っています。

クルマに戻ったら4時半で、係員が展望塔の入口を施錠していました。

クルマに乗り込んでから、男山から三川合流地点を見なかったことに気がつきました。ケーブルカーの山上駅のほうに男山展望台があったそうで、少し残念でした。帰路は眩しい夕陽に向かい、枚方市駅近くがいつもの混雑で、1時間以上かかりました。

 

淀川:堤防からの眺望(と歴史)

(この記事は折々に加除訂正をしています)

天気がいいので、いつも河川敷に降りる堤防の上からの展望写真を撮りました。

まずは下流(大阪市街地)方向です。豊里大橋の向こうに高いビルが多く見えます。

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次は正面(対岸は大阪市東淀川区)です。このあたり、平安・室町時代には「味原牧(あじはらのまき、あじふのまき)」という乳牛の放牧地があって、蘇(チーズ)などを製造して京に運んでいたそうですね。

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最後は上流(枚方・京都)方向です。左側(右岸)に見えるマンションの先、煙突のあたりには、西行と遊女の歌問答伝説で有名な江口の港がありました。

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江口は8世紀後半の長岡京造営の頃に神崎川(旧名・三国川)と淀川がつながれて、瀬戸内海との航路拠点になりました。明治初期(1878年)に江口からの神崎川は直線化されて安威川に直結し、流路が素直になったようですが、淀川そのものは同じ流れでした。

明治後期まで、江口から下流、この河川敷あたりで淀川が大きく東(左岸の方向)に蛇行していて、現在の京阪守口市駅近くに残っている文禄堤が左岸でした。

文禄堤というのは、秀吉の命によって、文禄年間(1593-1596)に枚方から大坂・長柄までの淀川左岸に造られた堤防です。文禄堤ができる前は守口から枚方まで低湿地帯が続いていて、枚方と大坂の間は淀川を舟で上下するか、枚方から生駒山の麓を四條畷まで迂回するか、という選択だったようです。

文禄堤ができて、守口から枚方までの京街道はほとんど堤の上となり、大坂と伏見・淀との往来が楽に安全になったわけですが、当時の文禄堤は低く、現在の淀川の堤防(一部はスーパー堤防)とは比較になりません。明治18年の大洪水まで、何度も堤が切れた水害がありました。

江戸期には幕府の意図として、西国からの参勤交代の行列を京に入らせないため、右岸の西国街道(山陽道)を通らせず、大坂から京街道を経由させて、山科追分で大津に向かわせたと言われています。そのため、東海道は京三条を終点とせず、大坂・高麗橋までの五十七次(大津から、伏見・淀・枚方・守口の四宿)となっていたそうです。

でも、西からの行列は遠回りになるわけですから、少なからず西国街道を使っていて、京に入らないように、西国街道の山崎から伏見に向かう山崎道が参勤交代のルートになっていたとも聞きました。

明治43年(1910年)完工の淀川改修工事で流路を変更した結果、現在地まで左岸が移りました。記録誌「淀川改良工事(1913年 内務省土木局発行)」付属地図の一部です。変更予定流路が赤線で記入されています。

淀川周辺に多くの水路があったことがよくわかります。

流路変更工事の結果を眺めるため、明治18年の陸軍測量地図(黒)と現在の国土地理院地図(カラー)とを大まかに重ね合わせてみます。(淀川流路全体の地図は別記事に載せています。)

地図の中央上あたり、文禄堤から離れた京街道が南に進んで、守口で再び文禄堤に戻っているのがわかります。京街道は守口を過ぎると今市あたりでまた文禄堤から離れて、大阪城(京橋)に向かっています。

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この重ね地図を眺めると、上の3枚の写真を撮った場所(左岸の堤防)は、昔の右岸(旧・橋寺村)の土手あたりということになります。橋寺村や天王寺庄村などは淀川の流路変更で切り離されてしまいました。

流路変更工事が行われている時期(明治41年)に測図された地図があります。堤防はできていて、外側に水場が多く残っています。堤防に沿って橋寺村が切り取られた状態で、まだ建物が残っているように見えます。京阪電車(開業は明治43年)の路線が記されていますので、少し後の改訂版ですね。

この地図は、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」((C)谷 謙二)により作成したものです。

現在の大阪市旭区(左岸)に残った橋寺町と豊里町は昭和46年に一緒になって旭区太子橋と名前が変わりました。お隣の守口市には新橋寺町として名前が残っています。太子橋地域の堤防には「橋寺廃寺」の碑があります。

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昔の淀川流路の中心線が境界なので、現在の大阪市と守口市の境界線は、このあたりの堤防を横切り、住宅地を複雑に区切っています。

住宅地の道路に石を敷いた境界線がありました。斜めになった境界線の手前が大阪市で、向こう側が守口市です。

その後、下水道工事後に再舗装されて境界線は消えましたが、マンホールができていて、手前は大阪市の蓋、その向こうの蓋は守口市のものです。

昔は守口あたりの淀川には島(中州)がいっぱいあったようで、現在の町名にも、下島(しもじま)町、外島(とうじま→そとじま)町、八島町などが残っています。

残っていたら楽しいけれど、残らなかった地名として、文禄堤に近い場所に、摂津国西成郡の属地であった「狼島(おおかみじま)」という中州がありました。狼島は昭和14年まで守口町の大字の地名でした。上の重ね地図で文禄堤のそばにある島です。

狼島は流路変更のずっと前、明治7年に守口に編入移管されたようです。摂津から河内への属国変更です。廃藩置県が明治4年ですから、この時期は変更が多かったのかもしれません。

狼島は江戸期の絵図では、大神島、大亀島、猿島・サルシマ、中之島などとバラバラに表記されています。小さな社(渦神社:大隅神社の末社?:現在は守居神社に合祀)があったので、「大神島」が江戸期の意味・名称だったのかもしれません。猿島は「狼」と「猿」という漢字の間違いだったのではないでしょうか。

狼島地区は現在も住宅地が周囲より少し(1m以上)盛り上がっているので、歩くか自転車に乗ってい るとよくわかります。

守口市史によると、狼島の面積は6町1反ほど(約6万㎡:甲子園球場総面積の1.5倍くらい)で、上の明治の地図では小さな橋がかかっているように見えます。拡大してみます。

狼島は昔の淀川流路中心線より守口寄りなのに摂津国でしたが、日本歴史地名大系(種本は「大阪府全志」のようです)によれば、もっと昔、江戸時代の貞享三年(1686年)にも淀川改良工事があって、その時にできたようです。ということは、文禄堤のすぐ横には江戸初期までは本流があり、西側の浚渫土砂で狼島ができたのか、広がったのか、いずれにせよ、摂津国の領地となったようですね。狼島と右岸との間が新川と呼ばれていたそうです。

それでも、なぜ廃藩置県の明治4年ではなく、明治7年に属国変更なのか、そのずれが少し気になりました。単なる行政手続きの遅れなのかもしれませんが、明治7年には、狼島と同様に、上流の摂津国島上郡磯島も河内国交野郡(現・枚方市磯島)に移っています。磯島も文禄堤より淀川の内側ですが、かなり昔に地続きになっていたようです。

この時期の属国変更は、ひょっとしたら、明治 5年の学制発布が関係しているのではないかと推測しています。学制発布で小学校は町村単位で運営されることになり、数戸しかないとしても、狼島の子どもは淀川渡しの舟に乗って通学しなければならないわけです。そうであれば、淀川本流を渡るよりも、狭い水路の(橋のある?)守口に行くほうが便利です。明治5年開校の守口小学校(開校時は河内国第九区郷小学校で難宗寺内に設置)はすぐ近くですが、当時の右岸(西成郡)の小学校はかなり遠かったようです。

昭和11年(1936年)調査による「旭区(附守口町)」の地図(大大阪区政地図:夕刊大阪新聞社 1938年発行)があります。このあたりだけを抜き出しました。

この地図には、区画整理された狼島や橋寺町の地名が載っています。狼島の右上に「守口第一校」と書かれているのは現・守口小学校のようです。地図の左には、狼島ができた頃に始まった平田(平太:へいた)の渡しが点線で示され、その横に内環状線(うちかんじょうせん)の計画道路が赤の破線で描かれています。

内環状線の豊里大橋が完成したのは、大阪万博の開幕に合わせた昭和45年(1970年)3月で、同時に平田の渡しは消えました。昭和46年(1971年)、淀川と平行して描かれている用水路(江野川)の上に阪神高速12号守口線が建設され、昭和49年(1974年)に江野川は全体が暗渠となり、阪神高速の下は「江野川筋自転車歩行者専用道路」になっています。

これは別の日の写真ですが、堤防の上に、淀川河川管理事務所の管理境界の案内板があります。ここから上流が枚方出張所、下流が毛馬出張所となっています。

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上の写真のちょっと上流側に「淀川距離標」が埋め込まれています。これは200m毎に置かれているものですね。

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アップしました。河口からの距離は14.6kmだそうです。

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このあたりの眺めが江戸末期に発刊された「淀川両岸一覧(上り舩之部上)」に描かれています。

淀川両岸一覧の中でのタイトルは「守口驛・新川」とあります。右岸(旧・橋寺村あたり)と中州の水路です。長閑な景色で、背景の山は生駒山のようですね。このあたりは、上の重ね地図で、右岸に近い大きな中州だろうと思います。守口大根が植えられていそうな中州です。今はすべて左岸・旭区の住宅地になっています。

淀川両岸一覧の絵と同じ角度のつもりで写真を撮ってみました。京阪守口市駅の方向です。右端に写っている高層マンションが文禄堤の遺っている守口市駅あたりです。阪神高速の高架の上、マンションの隙間にちょっとだけ生駒山が見えます。

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対岸(東淀川区)の堤防から写真を撮ったことがありますが、こちらのほうが生駒山などの雰囲気が似ています。

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両岸一覧の絵と同様に、円山應挙の「淀川両岸図巻」(ハラ ミュージアム アーク:群馬県)でも、上り船が帆を張って守口宿と狼島の間を上流に向かっていますが、これらは旅客用の三十石船ではなさそうです。三十石船の上りは新川沿いに船頭たちが陸から綱で曳き、下り船は流れに任せて棹でコントロールしていたようです。広重の有名な絵(国立国会図書館デジタルコレクションにあります)を見ると、三十石船には短い柱が描かれていますが、これは曳き綱を固定する柱のようです。

河川敷に降りると、あべのハルカス(開業準備中)が遠くに見えます。直線距離で12キロくらいです。

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