N君とお地蔵さん

2016年8月16日

お盆の話題です。

鉄道・鉄道模型に親しむようになったのは小学5年生くらいでした。それまでは飛行機が好きで、プラモデルばかり作っていました。古い写真です。

プラモデル遊び(1960頃)

もちろん、電車に乗るのは幼稚園時代から好きだったことを覚えています。その頃は阪神電鉄沿線に住んでいて、阪神の急行の先頭で、正面の縦長ガラス手前の手すりを握って前方を眺めるのが一番の楽しみでした。阪神はカーブと起伏が多く、ジェットコースターに乗っている気分です。この車両が「喫茶店」と呼ばれていた851~881形だと知ったのはずっと後のことです。

小学2年生以降は南海電鉄沿線にある団地の2階に住んでいました。下の階に2歳ほど年下のN君がいました。いつ頃からかは覚えていませんが、弟のようで、よく一緒に遊ぶようになりました。私が小5の頃、子ども同士の会話で、飛行機の知識をひけらかしていたら、N君が鉄道の話題を出してきました。鉄道用語は何もわからず、くやしく思いながらも興味を持ち始めた覚えがあります。彼の父親は国鉄に勤めていたようで、N君は竜華(りゅうげ)操車場に行ってきたなどと、うらやましい話もしていました。

飛行機と違って、鉄道はずっと身近で、N君に鉄道用語や車両名を教えてもらいながら、二人で南海電車や国鉄阪和線の車両を見に行くようになりました。鉄道模型の世界にも入り、小遣いを貯めて、隣町の模型店に通うようになりました。
1枚だけ残っている当時の鉄道模型のボケ写真です。

Oゲージ遊び

交流三線式Oゲージの電気機関車で、布団をトンネルに見立てています。レイアウトを作るスペースはなく、短い距離の往復だけですが、N君と楽しんでいました。この当時の模型はいつの間にか処分してしまったようです。

中学生になる頃から、実感的なHO(16番ゲージ)に興味が移りました。中学校は自転車通学で、下校途中に隣町の模型店に寄り道できる距離でした。お年玉などをつぎ込んで、初めての大物、カツミ製のED70を注文しました。これは今でも残しています。少し改造したので、モーターは昔のままですが、現在のレイアウトでも何とか動きます。

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この模型を取りに行く前日、N君に、明日学校が終わったら一緒に楽しもうと約束していました。

当日、夕方になっても彼は来ませんでした。帰宅した母から、彼が踏切で南海電車にはねられて亡くなったと聞きました。その踏切は小学校への通学路でしたが、当時は遮断機がなかったのです。帰りを急いだんでしょう。私がいる部屋の直下に彼は寝かされていたようですが、私は顔を見に行くことができませんでした。私が中1、N君が小5だったと思います。

N君が亡くなってからしばらくして、踏切横に小さなお地蔵さんがまつられ、その後、ご家族はどこかに引っ越していかれました。

南海きのくに 1962頃

この地蔵は位置を踏切の左から右へと移されたように記憶しています。上の写真は1962年頃に撮影したものです。走ってきているのは南海電鉄の気動車特急「きのくに」、難波(なんば)発の下りで、和歌山から国鉄の準急「きのくに」に併結して紀勢線に乗り入れていました。

この踏切はN君と二人で電車を眺めていた場所でもありました。二人ともに大好きな車両は電気機関車でした。これはED5101形ですね。番号はわかりません。これだけの貨車を引いていました。

南海電機 1962頃

 

その後、私は大阪を離れ、40年近く経ってまた大阪に戻ってきました。鉄道・鉄道模型好きは続いていますが、鉄道の面白さを教えてくれたN君とお地蔵さんのことはすっかり忘れていました。

今年、母が亡くなり、満中陰(四十九日)の法要で、お盆の直前に久しぶりにこの町の寺を訪ねました。寺での法要を終え、墓所に移動する段になって、住職が門内の横にある古びた小さなお地蔵さんを紹介してくれました。

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最初は何のことかわからなかったのですが、話を聞いているうちに、踏切の横に置かれていた地蔵だとわかり、突然に記憶がよみがえりました。あのN君のお地蔵さんがここに移されていたのです。まったく思いがけないつながりでした。

住職によると、3年ほど前に、南海電鉄の高架工事が始まるため、踏切近くの檀家の人から地蔵を寺に置いてほしいと依頼されたそうです。状況を飲み込めた私がN君との昔話をしたら、住職は、やっと地蔵の経緯を知っている人が現れた、と喜んでおられました。

半世紀以上前のN君を思い出しつつ、そして地蔵がゆかりのある寺に移されていることに驚きながら、帰りがけに踏切を眺めてきました。高架は下りだけが完成している状態で、歩行者だけの踏切は残っていました。もちろん、遮断機は付いています。

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いずれ上りも高架になると、この踏切は消えますが、踏切がなくなっても、墓参に合わせてN君のお地蔵さんを訪ねることができます。

庭の収穫

2016年6月7日

花が終わって、実のなる季節になりました。

サクランボはいつもいっぱい実を付けます。

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でも、赤くなって人間が食べようとする時期には、ほぼすべてヒヨドリに食べられてしまいます。網でもかぶせないと、人間用に確保できないでしょう。
毎年、残った数個だけを味わっていますが、今年は収穫ゼロでした。

去年植えた南高梅は今年も実を付けました。
梅は酸っぱいからか、ヒヨドリも食べないようで、すべて収穫できました。

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今年は48個でした。
去年は梅酒にしましたが、今年はジャムにします。
段ボールで追熟させ、冷凍しました。

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梅ジャムの出来上がりです。

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右端は、種だけを集めています。
梅の香りがいっぱいですが、なかなか酸っぱいものですねえ。

 

妹背山婦女庭訓

とても見応えのある、楽しい演目でした。でも、ちょっぴり文句も・・・。

文楽劇場4月公演は「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の通し狂言で、第一部(午前11時開始)と第二部(午後4時開始)に分かれています。もちろん、観たことはありませんが、数年前に自炊本、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談集「日本人と日本文化(中公新書 1972)」を読み返していて、キーンがシーボルトの妹背山婦女庭訓の観劇後日談について語っている部分で、キーンの博識に感心したこと、シーボルトが帰国後にオペラにしたいと思った演目はどんな内容なのかが気になったこと、などは覚えていました。

ということで、がんばって通しで観ることにしましたが、体力と日常生活に差し障りがあるので、4月19日に第一部を、20日に第二部を観ました。文楽劇場へは地下鉄乗り継ぎで行きます。谷町線から堺筋線に乗り換え、文楽劇場のある日本橋に間もなく到着というとき、相互乗り入れ阪急電車の車内表示がとても見やすいことに気がついて、つい写真を撮りました。配色とフォントの選び方が上手ですねえ、

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今回の公演のチラシは2枚ありました。

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予習としては、岩波の人形浄瑠璃集を読みましたが、「山の段」しか載っていなかったので、舞台の上に出る字幕表示を読むことにしました。いつも通り、ミニ床本付きの解説書も買いましたが、間に合いません。

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座席はいつも床(ゆか:太夫と三味線の座るところ)に近い上手ブロックの中央寄りの席を選ぶようにしています。太夫の声と三味線が迫力を持って聞こえますし、人形がよく見えます。今回は予約が遅くなって、19日の第一部は11列目になりました。11列目は人形が小さくなって、少し遠い気分でした。20日の第二部は6列目で、これはちょうどいい、あるいはもうちょっと近くでもいい、という好みです。

妹背山婦女庭訓は近松半二らの合作で、1771年に竹本座で初演だそうですが、蘇我入鹿が出生からの怪物で悪役になっていて、天智天皇を排斥して玉座に着き、悪政を働くのを打倒する物語になっていますので、頃は飛鳥時代です。なかなか大胆な設定です。

第一部(小松原、蝦夷子館、猿沢池、太宰館、妹山背山)は、蘇我入鹿の台頭と、天智帝を擁護する人たちの苦難の始まりを描いていますが、やはり山の段(妹山背山)がハイライトですね。その前の太宰館が終わって休憩していたら、これまでの観劇では気がつかなかった下手にも床があり、そこに見台と三味線が並べられました。もちろん、上手の床にも並べられています。おお、これはステレオだ、と気がつきました。知らなかったけれど、とても面白い趣向です。この段は中央の座席が最高なのですね。山の段の舞台の模型が展示室に置いてありました。

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山の段は吉野川(紀ノ川)をはさんで、相思相愛の久我之助(こがのすけ)が上手・背山で切腹、雛鳥(ひなとり)が下手・妹山で首を切られるわけですが、左右の床の掛け合い、桐竹勘十郎の久我之助、吉田玉男の大判事清澄(久我之助の父)、吉田簑助の雛鳥、吉田和生の定高(雛鳥の母)という豪華な組み合わせで、三味線と語りに合わせた人形の動きがすばらしいものでした。

紀ノ川に行ったとき、上流から妹山(左側)と背山(右側)を写しました。川幅はけっこうあります。

飛鳥時代に切腹はあり得ない、なんてこととは別に、背山で久我之助が刃を腹に突き刺してから、妹山で雛鳥の切望で母親に首を切られ、その首が川を越えて目の前に置かれて父親に介錯されるまで、文楽の決まり事とは言え、とても長かったので、久我之助はさぞや苦しかろうと考えていました。

山の段ではウグイスの鳴き声が時々聞こえてきます。それで驚いたのは、囃子方のウグイス笛の吹き方が「ホー・ホケキョ」ではなく、「ケ」が一つ多い、幼鳥風の「ホー・ホケケキョ」だったことです。淀川でよく聴いている鳴き方です。

2日目に観た第二部(鹿殺し、掛乞、万歳、芝六忠義、杉酒屋、道行恋苧環、鱶七上使、姫戻り、金殿)では、猟師芝六を吉田玉男、お三輪を桐竹勘十郎が担当です。同じ公演の中で、人形の男と女の所作を遣い分けるというのは、当たり前なのかもしれませんが、熟達とはすごいものですね。玉男さんが女(玉女)から男になったのは最近でした。

芝六忠義の段では、三味線で驚きました。竹澤宗助が弾く低音弦のスローな調子がまるでブルースでした。

道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)が彩りを添えています。杉酒屋の娘・お三輪と入鹿の妹・橘姫が苧環を使って男(求馬)に恋の糸をつなげます。なかなか情感のある楽しい場面ですが、どうも世話物(心中物)の道行のような悲痛さ・理不尽さの奥行きがないのが趣味としてはちょっと物足りない気分でした。

姫戻りの段あたりからクライマックスが始まります。宮殿に戻った橘姫が愛しの求馬から、兄の入鹿が盗んだ剣を取り戻したら夫婦になると言われて、喜んで、取り戻しに行きます。最後、金殿の段では、お三輪が宮殿で求馬を探しているうちに、女官たちに弄ばれ、嫉妬と辱めを受けて逆上した状態で鱶七に刺されます。鱶七から、求馬が鎌足の息子・淡海であることを知らされ、入鹿を征伐するためには、爪黒の鹿の血と、疑着(=疑って、それに固執、執着すること<日本国語大辞典>)の相ある女の生き血を使う必要があることを聞いて、喜悦の最後となります。なかなか複雑な気持ちの変化をもたらす場面でした。

これで終幕になるのですが、えー!、これで終わるの?と、びっくりしました。蘇我入鹿を討ってしまう場面がなければ、多くの人たちが犠牲になりながら続いてきた話のエンディングが、鱶七によるお三輪への説明だけとなり、終幕の解放感が得られません。

後で調べてみたら、オリジナルの五段の内容から、かなり省略されていたようです。購入した解説書付属のミニ床本も省略したバージョンでした。図書館で借りた「新編 日本古典文学全集77 浄瑠璃集」によると、四段目の「金殿」には、蘇我入鹿を討つ場面が続いていて、五段目では都を志賀に移し、忠臣たちへの恩賞、久我之助と雛鳥の供養などがあります。

解説書の「鑑賞ガイド」には、「通し狂言としては、初段から順を追って上演する形もありますが、今回は第一部を初段と三段目、・・・略・・・、第二部では蘇我入鹿打倒に動く人々を描いた二段目、四段目を取り上げ、本作の中の二つの大きな流れをそれぞれお楽しみいただく趣向としました。」とあります。

見せ場的に取捨選択しているようですが、大きな流れの劇の結末を省略されてしまうと、完全通し狂言を観たことがある人はともかく、初めて鑑賞する立場としては中途半端な気持ちのまま劇場を去らなくてはなりません。以前に、玉藻前でも省略があって、話の流れについていくのが大変なところがありました。もちろん、完全通し狂言となると10時間以上かかるのかもしれませんが、それでも今回は延べ8時間近くある二部仕立てなので、もう少し構成の工夫をしてほしかった気がします。

今回の演目は確かに、シーボルトがオペラにしたいと思ったのがわかるくらい、語り、三味線、人形、囃子、大道具すべてで楽しませてくれました。でも、帰宅するときの気持ちは落ち着きませんでした。

PS その後、DVDを借りて、「入鹿誅伐の段」を観ました。20分足らずですが、やはり、この段があるのとないのとは大違いです。文楽劇場で観てから1カ月以上経ちましたが、やっと気持ちがすっきりしました。

 

「動きの悪魔」

いろいろな連想が広がっていく、とても興味深い本を見つけました。
ステファン・グラビンスキの「動きの悪魔」(芝田文乃訳 国書刊行会 2015)です。

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ポーランドのポー(エドガー・アラン・ポー)と呼ばれる100年前の作家、グラビンスキ(Stefan Grabiński, 1987-1936)の初の邦訳だそうです。1919年に出版された短編集に、後の短編をいくつか加えた構成になっています。すべて鉄道に絡んだ話ですが、「鉄道・旅行ファン」が広く好むものではないかもしれません。ポーと比較されるように、初期の怪奇小説とかホラーとかに分類されています。私としてはあまりポーと共通点があるようには感じませんでしたが、読者の心を動かす独特の雰囲気を持っています。

出版された時期はちょうど第一次世界大戦が終わり、ポーランドは独立しています。1936年にポーランドは再びドイツに占領されますが、それまではピウスツキ体勢で、しばらくは喜びが多かったのでしょうか。そのような頃合いに出版された本書はそれなりに売れたそうです。

グラビンスキの経歴は中学教師で、鉄道に関する仕事はしていません。しかし、明らかに旅行好きで鉄道好きだろうと思います。それは機関車の構造から信号のシステムまで、よくわかった描き方をしていることから推察できます。

イ ギリスで蒸気機関車が走り出して100年余りで、ヨーロッパ大陸にも鉄道網が張り巡らされました。鉄道は各国の威信をかけた巨大事業であり、すべての鉄道会社は鉄道・車両の維持・管理に官僚的な制度を作り上げていたようです。オリエント急行が走り出したのは1883年ですから、大型の長距離用高速蒸気機関車が作られるようになり、客車内は快適になってきて、国際旅行もゆったりと過ごせるようになりました。

当時にポーラン ドで走っていた機関車はよくわかりません(ソヴィエト製かも)が、ドイツでは王立バイエルン鉄道の名車S3/6(1908~ 当模型鉄道所属の写真)など、高性能の機関車が走っていました。

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かつてない輸送能力を持つ巨大な機械が爆走する鉄道を眺めた一般市民は驚異・畏敬・恐怖・憧れを感じていたのではないでしょうか。でも、巨大さは今も変わらないものの、当時の鉄道システムは、まだすべての装置を人手で制御していました。機関士が機関車を操作するのは当然ですが、すべての安全確認も人の作業です。電気仕掛けの信号は一般的でなく、腕木式信号機、分岐器(ターンアウト・スイッチ)などを手動で動かしていました。電気を使うのは照明と駅間の有線電信くらいだったでしょう。

規則で厳密に決められた手仕事に熟練した鉄道員は誰もが自分の仕事にプライドを持っていたと思いますが、誰か一人でも、与えられた仕事の規則を逸脱してしまうと、それは大惨事に直結します。そして、異常な逸脱に合理的な理由があるとは限らず、そのような逸脱が現実のものとならない保証はありません。

この本に収録されている作品のいくつかは怪奇・怪異な現象を物語っていますし、本のタイトルとなっている「動きの悪魔」は、残忍さではポーを連想させるものの、ポーの多くの作品のように納得させる説明はありません。読み進むにつれて、怪奇・怪異と言うよりは、鉄道員の鉄道への強すぎる愛情がもたらした逸脱を描いた作品が多いような気がします。「音無しの空間」、「機関士グロット」など、怪奇的な印象というよりも、愛情の強さに切なくなるところがあります。

怪奇的と思えたのは「信号」でした。この作品は映画「渚にて」(1959)を思い出させてくれました。「渚にて」は1950年代の米ソ核戦争についての悲劇的シナリオで、怪奇小説(映画)ではありませんが、心の緊張感と切なさは強烈でした。米ソの核戦争が起こり、すでに北半球では人がいなくなった地球で唯一生き残ったアメリカの原子力潜水艦が、無線機に入り続ける、解読できないモールス信号を発する場所を探しに行きます。まだ生きている人がいることを期待したのです。しかし、たどり着いた現場で乗員が見たのは、人ではなく、風にそよぐカーテンに紐で結びつけられたコーラの空き瓶がランダムに押す電鍵でした。

電鍵というのは、手で押してモールス信号を発生させるスイッチです。手持ちの電鍵の写真を入れておきます。手前左が旧日本海軍の電鍵、手前右がアメリカの典型的な電鍵です。いずれも押す時間で短点(トン)と長点(ツー)の長さを調節してモールス信号を作ります。後ろは私が80~90年代に愛用していた、親指と人差し指で側面から押す方式で、電子回路が必要ですが、左側を押すと単点、右側を押すと長点が連続的に出て、とても早く打てて楽ちんです。

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さて、「信号」では、信号の発信源は電鍵で信号を送りながら亡くなって久しい信号手の指の骨です。しかし、それが怪奇的というわけではありません。「信号」が怪奇的だと思うのは、送られていた信号が解読不能ではなく、事故発生の緊急信号だったという点です。そして、半ば白骨化した信号手の死体を運び出した後に、その信号が意味した大事故が起こることになります。読んでいて、このあたりの展開を受け入れる気持ちになるかどうかが、グラビンスキ、さらには怪奇小説を評価するポイントになるような気がします。

翻訳は100年前の世界をイメージしやすく、読みやすいと思いました。一つだけ、「待避線」という作品タイトルの訳語については、訳者も後書きで説明してはいますが、原題は「引き込み線」のようです。「待避線」というタイトルで読み進んでいくと違和感を感じました。訳者は語感を重視したようですが、引き込み線と待避線を区別する人にとってはマイナスだったかもしれません。

梅にメジロ

2016年2月20日

庭にメジロが2羽やってきて、梅の花の蜜を吸っているようです。窓ガラス越しですが、なんとか撮ることができました。

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メジロは時々やってきます。

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先日はウグイスも来たようですが、カメラを用意する前に飛んでいきました。

 

青函連絡船がなつかしい

2016年2月16日

先週(2016年2月13日)の朝日新聞 “be” の「みちのものがたり」に「青森駅300メートルホーム:連絡船へ急ぐ無口な人々」という記事が大きな写真入りで掲載されていました。とてもなつかしく、記事を読みながら、15年ほどで30往復くらいは乗った青函連絡船についていろんなことを思い出しました。

青函連絡船の摩周丸の模型(天賞堂製 1/500)です。

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初めて青函連絡船に乗ったのは1970年8月の末でした。初めての仙台での初めての学会参加で、後に恩師・上司となる札幌の先生に初めてお目にかかった翌日、気まぐれで、仙台からの道南均一周遊券(今のフリー切符の一種)を買い、初めて北海道(札幌と小樽のみ)を訪れました。「初めて」尽くしです。

とても暑かった仙台から上野始発の常磐線経由の急行「十和田1号」に乗りました。周遊券では急行の自由席に乗ることができました。本の自炊で電子化した当時の時刻表を眺めると、上野始発12:20、仙台発が17:58、青森着が23:40となっています。青森に着く前に、車掌が検札しながら、北海道に渡る人には乗船名簿を配りました。これが映画「飢餓海峡」に出てきた乗船名簿か、と思いながら、もちろん実名を記入しました。

青森駅では深夜にもかかわらず、朝日の記事にあるように、列車を降りたほとんどの人が長いホームを走っていきます。いったい何事が起こっているのかわからず戸惑っていました。行商姿で、大きく重そうな荷物を背に負い、さらに両手にも荷物を持っている女性たちも小走りです。みんなが急いでいるのを眺めながら、ゆっくり歩いているのは数えるほどでした。そして、私以外のゆっくり歩いている人たちの半分くらいは青森駅の出口に向かって行きました。

歩く人の少ない長い連絡通路を進みながら不思議に思っていましたが、連絡船に乗り込んで事情がわかりました。カーペット敷きの客室がすべて満員なのです。走っていたのは、寝る場所を確保するためだったのです。すでに他の列車も到着していて、その乗客がこの連絡船に乗り込んでいたことを知りました。

もう、多くの人はハンカチや手ぬぐいを顔に掛けて寝ています。私以外でゆっくり歩いていた人たちは、寝台などの指定券を持っていたのか、私のように初めての連絡船だったのかもしれません。

遅れて入った私は横になることはできず、特急列車の普通座席と同じ二人掛けの自由席に座るしかありません。青森0:05発の連絡船は3:55に函館に到着します。椅子席はそれなりに空席があったので、二人掛けを一人で利用できましたが、ちょっと斜めになっただけの椅子で寝るのは、仙台から座り続けた後だけに、けっこうつらいものでした。

この連絡船が摩周丸でした。現在は函館港で記念館として係留されています。

当時の国鉄資料を調べてみると、1970年8月2日の一日あたりの青函連絡船乗船人員は上りと下りを合わせて33,088人で過去最高だったそうで、毎年「青函航路旅客輸送人員記録更新」と載っている時代です。その後は深夜の連絡船が混む季節はグリーン席(リクライニング座席で400円)を使うようになりました。

しばらく寝るのはあきらめてデッキに出ました。銅鑼の音と蛍の光が流れ出し(天賞堂の模型は当時の銅鑼や蛍の光などの音が出ます)、船がゆっくりと岸壁を離れていきます。深夜の海は不気味なところがありますが、暗い海に映る青森港の灯がゆらめいて、これから津軽海峡を渡るんだ、という気分になりました。「飢餓海峡」の最後のシーンは昼間の連絡船だったことを思い出しました。

函館港に着くときもデッキに出ていました。本州の暑さがなくなっていました。そこでわかったのは、離岸時より着岸時のほうがデッキにいると面白い、ということでした。青函連絡船にはバウ(船首)スラスターという横向きの動力装置(プロペラ)がブリッジ下の船底近くに付いていました。上の模型をアップで写します。

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出港時は係員が綱をはずしたら、主動力(船尾のスクリュー)とバウスラスターだけで離岸できたようですが、それは出港する方向に向きを変えて着岸しているからです。そもそも連絡船は船尾と鉄道岸壁の可動橋をつないで、車両を出入りさせなければならないわけですから、出港する方向に着岸しています。これは普通の横付けとは違って、とてもむずかしそうです。

着岸時には港内で進行方向を逆転させるため、船尾を押す大型のタグボート(補助汽船と呼んでいました)の助けが必要になります。このタグボートとのやりとりがとても楽しいのです。連絡船が着岸体勢に入ると、待っていたタグボートが船尾の横にやってきます。ブリッジから専用の外向きの拡声器でタグボートに指示を与えるのがデッキでよく聞こえます。たとえば、「○○丸、スローで押せ」と言うと、タグボートは短い汽笛で応答して、ゆっくりと押し始めます。こういう作業が繰り返されて、最後に「○○丸、ごくろうさま」という言葉で終わり、タグボートも汽笛を鳴らして離れていきます。

この光景を見たくて、連絡船の着岸時にはデッキに出るようになりました。たいていの場合はスッと着岸していましたが、岸壁にぶつかってバウンドする時もありました。事情を聞くと、風が強いときはとても微妙な作業だそうです。冬でもデッキに出ました。どうせ船から出る時は寒いので、それが10分ほど長くなるだけですし、それに、冬場の船内も乗り継ぎ列車内も暖房は豪勢なので、デッキが寒くても、かえって爽やかです。

昼間便だけだったかもしれませんが、函館到着間近になると、北島三郎の「函館の女(ひと)」が船内に流れました。そして、いつの頃からか、青森出港後に石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が流れ出していました。1977年の新譜なので、もちろん、それ以降ですね。昼間の連絡船も、仏ヶ浦を眺めたり、函館山を眺めたりで、楽しいものでした。

一度だけ、自動車航送をしたことがあります。1976年の夏、前年から住みだした神戸から軽自動車で観光をしながら、札幌まで往復しました。行きは下北半島の先端・大間から函館まで小さなフェリーに乗りましたが、帰りは青函連絡船に乗ってみたくなりました。その時のメモと写真が残っていました。

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久しぶりの摩周丸でした。

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こんなオープンのデッキに駐車していて、航海中も出入り自由です。

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気になったこともありました。函館発の深夜便でした。私がグリーン席に座っている横で、いかにも新婚旅行という姿の二人が係員に席の場所を聞いています。係員が指定席券を調べていて、「あれ、これは昨日の便ですよ。」と言っています。

深夜便は0時過ぎの出港です。つまり、乗ってきた列車の翌日に日付が変わります。日付が変わる乗り継ぎは青函連絡船だけだったかもしれません。駅で特急券や指定席券などを購入するとき、申込用紙に記入させられますが、乗り継ぎ連絡船を同じ日付にしてしまう間違いがよく起こります。

すでにマルスというコンピュータによる指定席券の予約システムが使われていて、乗り継ぎ列車は発券されるものの、連絡船の指定席は別の入力だったような気がします。

京都の鉄道博物館に当時のマルス104が展示されています。

左は列車名の活字棒を入れた箱、中央は印刷機、右は操作盤です。活字棒を印刷機に差し込んで、指定券を印刷していました。活字棒の箱には「青函」も入っていました。「北斗」は道内の特急として当時から走っていました。

マルスを置いていない駅の発券だったのかもしれません。発券担当の駅員が旅程を確認するはずですが、どうだったのでしょうか。新婚さんは黙って普通座席に移っていきました。

青函連絡船廃止は札幌在住時代の1988年(昭和63年)3月です。廃止の数年前から、出張に飛行機が使えるようになり、札幌から東京・大阪へは飛行機で行くようになりました。

そして、青函連絡船が廃止されると同時に、札幌駅に「上野」という発車標(行き先表示)が出るようになりました。青函トンネルの開通と寝台特急「北斗星」の登場です。そして翌89年、札幌駅で待望の「大阪」の表示を見ることができました。寝台特急「トワイライトエクスプレス」の登場です。

これら2つの寝台特急は、時間の余裕があるときに利用していました。乗り換えのない寝台列車の旅は楽でした。それも、1990年代の中頃からは、年齢が上がったせいでしょうが、揺れる車内泊は疲れること、時間の余裕がなくなったこと、そして、出張で長距離の鉄道が使えなくなったこと、などが重なって、忘れた存在になってしまいました。

時として、札幌駅から新千歳空港駅までJRに乗るとき、札幌駅に停車している北斗星やトワイライトエクスプレスと出会うことがありましたが、その時だけはなつかしく感じました。今はもう、どちらの列車も走っていません。上野行きのカシオペアや臨時列車はまだ走っているようですが、札幌駅から「大阪」という発車標は消えたようです。

マルメロのジャム

冷蔵庫の中に入れたまま忘れていた、手作りのマルメロ・ジャムが2個出てきました。

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手作りのラベルには2011年11月3日の日付を入れています。大阪に移る前年、札幌での最後の収穫でした。
ちょっと古いかな、と思いつつ食べてみたら、なつかしい、爽やかな味でした。

20年近く前でしょうか、親しい同僚から毎年秋にマルメロの果実を数個いただいていました。それで初めてマルメロという果物を知りました。そのままでは食べられませんが、花梨(カリン)系の香りがいいので、部屋に置いたり、玄関に置いたりして、楽しんでいました。別の同僚は、いつもいただいたらジャムにしている、と教えてくれましたが、へえそうか、と思っていただけでした。

その後、パスカルSrが亡くなった2002年5月に庭にマルメロの苗木を植えました。パスカルSrの思い出の木にしたかったためです。このあたりは豊平川の扇状地なので、穴を掘ると丸い石がごろごろ出てきます。

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翌年には、1個か2個、実を付けました。
5年くらいですっかり大きくなって、5月には花がいっぱい咲きます。

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10月には実がいっぱい、というシンボル・ツリーになりました。
次の写真は2011年の果実で、今回のジャムにしたものです。

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この年は最後の収穫ということもあって、ほぼすべての果実でジャムを大量に作りました。瓶をたくさん買ってきて詰めましたが、2個だけが残っていたのです。

見つけてから10日ほどで、ジャムの瓶は1つ空になりました。2月中にはなくなるでしょう。
もう二度と作ることはできませんので、毎朝、パンに付けて、いろんな思い出も味わっています。

国性爺合戦

1月18日、昨日の京都観世会に続いて、大阪文楽劇場で「国性爺合戦」を観てきました。

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連日の観劇はしんどいのですが、昨年末、観世会例会の日程を確認せずに、文楽劇場のネット予約で席選びをしていて、いい席を見つけて決めたら、それが18日だったという始末です。
午後4時開演なので、淀川散歩はお昼になりました。雨上がりです。

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今回は自炊してあった岩波の日本古典文学大系「近松浄瑠璃集 下」を読んでから出かけました。一夜漬けならぬ、「朝」漬けです。
一応、解説書も買いました。

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浄瑠璃本を読んでから観ると、どこが省略されているかがわかって、ちょっと落ち着かない気持ちになるものだとわかりました。玉藻前でもそうでしたが、全般的な知識がないので、個別の演目についてのみに注意が集中してしまいます。
予習したことによる、もう一つの効果は、舞台の上にあるスクリーンに出る本文を時々読みながら観劇していると、当たり前のことでしょうが、300年前の原典通りに床本が書かれていて、それを太夫が語っていて、それを観客の我々が理解して楽しんでいる、という世界にあらためて驚きを感じたことです。
これは、さらに古い歴史のある能でも同じですが、伝統芸能の伝承世界に感心するだけではなく、現在の観客が数百年前と同じような舞台の前にいて、同じように楽しんでいることへの素直な驚きです。

さて、「国性爺合戦」は、ちょうど300年前(1715年)、竹本義太夫亡きあと、近松と竹田出雲のコンビでロングラン公演を果たして有名です。日本に亡命した中国人を父に、日本 人を母に持ち、日本生まれ・育ちの和唐内(わとうない:和でも唐でもナイ)が中国に渡って大活躍するストーリーで、かなり脚色しているとは言え、「国姓爺」の史実に基づいているので、 当時の庶民にとってワクワクするものになったのでしょう。日本に関係した人が国際的に活躍すると現代でも話題になりますし、和唐内はハーフですし、でもまあ、現代人から見れば、ナショナリズムの昂揚と言うほどではありません。

結論を言えば、観ていて楽しいものではありましたが、観劇後に感情の余韻はありませんでした。これはストーリーと和唐内のスーパーマンぶりの問題でしょうね。観劇後、ドナルド・キーン著作集(第6巻 能・文楽・歌舞伎)の序文を読んでいたら、彼の博士学位論文のテーマが国性爺合戦だったそうで、彼も感情移入ができなかったと書いていて、やっぱりね、と思いました。

一番興味を持ったのは、和唐内の人形です。歌舞伎の見得(みえ)をきる、という寄り眼をします。これは珍しいものではありませんが、はたして、こういう仕掛けがいつ頃からできたのかに興味を覚えました。

人形の頭には胴串という棒が付いていて、その後ろに「小ザル」と呼ぶ、指で動かすレバーがあります。こういう仕掛けの中には、玉藻前が狐に変わるようなものもあります。子供の頃に観ていた「ひょっこりひょうたん島」という人形劇で、パトラ・ペラ・ルナという3人の魔女が出てきますが、突然に怖い顔に変わるのを見て、驚き感心していました。

調べてみると、正保(1645~1648)・慶安(1648~1651)ころに、人形の首が動くようになったようです。それまでは頭と胴は一体で、くるくると回す程度だったそうです。今でも脇役は一人使いで、同様の構造のようです。享保(1716~1735)ころには胴串に小ザルが付いた絵がありますが、目玉を動かすような仕掛けはなさそうです。

ということは、近松が国性爺合戦を書いて大人気となった当初は、見得をきる仕草などは無理だったのでしょうね。こういう仕掛けを開発しつつ、歌舞伎と文楽で相互に所作・仕掛を取り入れてきた歴史も含めて、伝統芸能というわけでしょうか。

能:京都観世会一月例会

2016年1月17日は今年最初の京都観世会例会でした。

京都観世会例会には大阪に戻った翌年(2013年)から普通会員で行き始めましたが、去年からハーフ会員という半分の回数券にしてみました。実際に行く回数からすれば、これが適当だとわかりました。去年から30分遅い11時開演になりましたが、現地で座席を指定しますので、10時過ぎには着くようにしています。

今日の演目は、「翁」観世清和、能「鶴亀」林喜右衛門、狂言「鬼瓦」井上松次郎、能「葛城 -大和舞-」』浦田保浩、能「乱」田茂井廣道、となっています。

岡崎までは1時間ちょっとかかるので、久しぶりに朝7時過ぎの淀川散歩でした。いい天気です。堤防の内側(西側)はまだ太陽が当たっていません。

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今日の例会鑑賞の一式です。

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この他の必携品はiPadミニです。謡本の「観世流謡曲百番集・続百番集」をスキャンして入れています。

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昔は実物を持って行っていましたが、演目が百番集と続百番集にわたっていると2冊になり、重いものでした。と書きながら、重さを調べてみたら、iPadミニはケース込みで410グラム、百番集は一冊370グラムなので、2冊なら重いけど、1冊なら軽いですね。タブレットの利点は、謡本がたくさん入るだけでなく、観劇中に見所(けんじょ:客席)が暗くなるので、膝に置いたままでも発光画面が見やすいのです。もちろん、画面をかなり暗くしています。縦置きにすれば、ページは半分になりますが、文字が大きくなるので、近視老眼でもOKです。
実物のページ写真です。皮表紙がボロボロになってしまっています。

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いつも中正面(舞台に向かって左手前の目付け柱のある斜め方向)の通路側に座るようにしています。柱が邪魔になることがありますが、いろんな意味でリーズナブルです。半世紀前の学生時代は学割(当時は500円、今は3,000円)で、2階の自由席に座っていました。

当時(昭和42年1月例会:1967年1月15日)の観覧整理券半券が百番集に挟まっていました。

その時のプログラムもありました。

このころは狂言が始まる時間になると、大多数の人が退席し、残りの人は見所でお弁当を食べていました。今は飲食禁止になっていますし、退席する人も1/3くらいになっています。私は狂言も好きなので、いつも観ますが、昼食を摂る時間がなくて困ります。飲食禁止なら、もう少し昼の休憩時間を長くしてほしいですね。

上のプログラムも1月例会なので、翁から始まり、演者は観世元正です。今日演じる清和の父上ですね。東北のシテが片山博太郎(その後、幽雪)で、昨年末に亡くなられました。

今日の演目では「翁」を演じる観世清和は端正ですね。年の初めが爽やかになります。翁を観ていていつも思うのですが、能の翁の舞は短いのに、続く狂言方の三番叟(さんばそう)がとても長いのはどうしてなんでしょうね。猿楽として、いずれが古いルーツを持っているのか知りませんが、折口信夫の「翁の発生」を読んでいると、翁は「まれびと」が演じる神事であり、三番叟の「黒式尉(こくしきじょう)が猿楽の原型を伝えている」とまとめています。能のシテ方と狂言方に分かれた経緯も含めて、翁は猿楽の歴史そのもののようですね。いずれゆっくり調べてみたいと思っています。

三番叟はもちろん楽しい舞ではあるのですが、失礼ながら、ちょっと狂言師の肥満が気になりました。狂言の演目には太った方のほうがぴったりという場合もあるのですが、黒式尉の面を付けた回りに顔の肉が大きくはみ出してしまうのは、個人的には興醒めの感があります。

最近の肥満傾向は能楽師のほうに、よりあるような気がします。能楽師のトップで、すばらしい舞と声をお持ちなのに、ダイエットをなさったほうがいいと思える方々がいます。数年前、久しぶりに大阪で「二人静(ふたりしずか)」を観ましたが、シテの著名な方が巨大な肥満体で、豪華な装束の静御前(シテ)と菜摘女(ツレ)が並ぶと、遠近感がおかしくなりました。「紅葉狩」で、シテとツレ6人の女が居並ぶ豪華な舞台でも、中にそのような体型の役者が混じっていたことがあります。「邯鄲(かんたん)」で寝台に飛んで寝るような身軽さまで期待しませんが、それなりの体型は維持していただきたいと感じます。

「鶴亀」はさておいて、「葛城(かづらき)」は、雪をかぶった庵の作り物が運び込まれた途端に昔の記憶がよみがえりました。高校1年の耐寒登山で、「葛城」の舞台である大和葛城山(やまとかつらぎさん)の隣にある金剛山(こんごうさん)に登ったときのことです。初めての冬山?ということで、近所の靴屋で学校推薦のキャラバン・シューズを買い求めました。今はロープウェイがあるようですが、当時は南海高野線の千早口から歩くしかありません。登山道は途中から雪景色になり、ペースはわからないものの、体力はあったので、がむしゃらに登っていたら、汗だくになってしまいました。着替えを準備することも知らず、山頂でガタガタ震えはじめて、下山するまで大変でした。半世紀が過ぎた今、葛城山の女神が山伏たちに雪を避けるように庵に案内するのがとてもうらやましく思いました。

最後の「乱(みだれ=猩々乱:しょうじょうみだれ)」は正月らしい、観ていて楽しい祝言の曲ですが、猩々とはよくわからない動物ですね。中国の文献では空想上の動物ということで紹介されているようですが、緋色の髪と酒好きが定番で、妖怪というより、オランウータンとみなす人が多いようです。確かに、赤褐色の毛が長く伸びている姿は猩々らしい雰囲気です。
それでは、はたしてオランウータンが酒好きなのかどうかです。ちょっと調べてみると、同じヒト科ですが、ヒト・チンパンジー・ゴリラとはずっと昔に分かれたオランウータンはメタノール分解酵素を持たないという記事がありました。となると、オランウータンはアルコールを少量でも飲むとすぐに酔ってしまい、酔いがなかなか治まらないように推測できます。いわゆる悪酔い(悪寒や吐き気など)をするかどうかは、アセトアルデヒドを分解できる能力があるかどうかでしょうが、それはわかりません。
youtubeなどでは、動物がアルコール(発酵物)で酔っ払う映像がありますが、猩々もそのようになるのでしょうか。気分が悪くならないなら、酩酊感が気持ちよく、少量の酒で酔いが長続きするのでしょう。これは酒好きと言っていいのかもしれませんね。でも、能の「猩々」では、猩々は海中に棲み、大酒飲みで、いくら飲んでも顔色は変わらない、ということなっています。むずかしい世界です。

正月早々、なかなか味わい深い能会でした。

 

玉藻前曦袂

2015年11月28日

11月18日、文楽劇場で玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)を観てきました。文楽を観に行ったのは正月の冥途の飛脚以来です。
人形浄瑠璃は学生時代に朝日座で数回観ただけでしたが、世話物(近松の心中物)が好きで、大阪に戻ってから、曽根崎心中、心中天網島、冥途の飛脚と続けて観ることができて喜んでいます。時代物はあまり食指が動かず、ほとんど観ていませんでしたが、今回の玉藻前曦袂はぜひとも観たかった演目でした。曦袂(旭袂)というのは詳しくは知りませんが、竹田出雲作の大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)をもじっているのでしょうか。

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玉藻前伝説は妖怪好きにとって定番の物語です。ただ、狐好きにとっては、齢を重ねて、双尾や九尾になった狐は悪の世界を象徴していて、残念な気持ちでもあります。ごん狐くらいのイタズラであればともかく、百年とか千年を生きた狐は尾裂(おさき)になり、美女に変身して男(帝)をたぶらかすわけです。

でも、さすがに葛の葉(くずのは)あるいは信太妻(しのだづま)伝説の狐は安倍晴明を産んだとされるだけあって、若い雌狐だった説が多いようですね。異類婚姻譚にもさまざまあるようです。

学生時代から安倍晴明がらみの陰陽道は好みの話題でした。下の写真は高校時代によく訪れた信太森葛葉稲荷(しのだのもりくずのはいなり)神社(大阪府和泉市)です。10年ほど前に、札幌からの出張の帰りに、関空に向かう途中で久しぶりに訪ねてみました。今は住宅地の中になっていますが、私の記憶にある神社は田圃に囲まれていて、横に小さな集落があっただけでした。

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JR北信太駅の近くです。この近所では和泉五社の一つである式内社・聖(ひじり)神社(信太大明神)が葛の葉伝説の本地?として知られていると思います。まあ、昔はこのあたり全体が信太の森の地域だったのでしょう。

JR北信太駅も昔は葛葉稲荷停留場と呼ばれていたそうです。また、住吉大社のそばで生まれ育った私の母は、南海電鉄の高石町(現・高石)駅が葛葉駅だったと聞いたことがあると言っていました。

神木の大きな楠の前にいる狐です。葛の葉と名乗った狐はこの楠から生まれたという説もあります。昔は楠に葛が巻き付いていたのでしょうか。葛の葉が我が子(安倍晴明)に書き残したとされる有名な歌「こひしくばたずねきてみよ和泉なる・・・」については、折口信夫が「信太妻の話」で「なんだかテニヲハのあはぬ、よく世間にある狐の筆跡とひとつで、如何にも狐らしい歌である」と書いていますね。

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本題に戻ります。
京都大学電子図書館がネットで公開していた玉藻前の絵巻のディジタル画像は閲覧したことがありますが、文楽劇場での公演中、展示室にその実物がお披露目されていました。ネット上のディジタル画像よりも鮮やかで、とてもきれいな状態に見えました。江戸期の写本のようです。

この絵巻では、狐は九尾ではなく、双尾です。中国では昔から九尾だったようですが、日本で九尾になったのは江戸期以降だそうですね。中国からの伝わり方も興味深いところがあります。

玉藻前の狐では、「玉藻前草子(常在院本:室町期)」(妖怪絵巻:毎日新聞社 1978所収)の絵が一番好みで、ディスプレイのデスクトップ背景画像(兼スクリーンセーバー)コレクションの一枚です。双尾の先にあるカラー・リングがとてもオシャレです。この場面は討ち取られる寸前で、矢と槍が迫っています。

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さて、観劇後の感想は、こういう文楽もあるんだ、という、とても楽しいものでした。それは最後の化粧殺生石(けわいせっしょうせき)での七変化で、宝塚のレビュー(数度しか観たことはありませんが)のフィナーレのような華やかさがありました。音曲に合わせた桐竹勘十郎による人形遣いのメリハリの良さと言うべきでしょうか。

実は開演するまで、この演目自体の事前の知識はありませんでした。歌舞伎も知りません。開演前に買った解説書には筋書きが書かれていたし、ミニ床本も付いていて、カミさんは読んでから観ていました。

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いつもはそれなりに予習するのですが、今回は時間がなくて、浄瑠璃の筋書きを知らずに、でも玉藻前伝説は知っているという、生半可な知識のままで舞台が始まりました。これが推理小説を読んでいるような観劇経験になりました。以下はあらすじに沿った感想メモです。

いつもの抑えの利いた口上の東西声と拍子木で気分が高まります。清水寺の段が始まりました。最初から玉藻前伝説にはない、鳥羽天皇の兄・薄雲の皇子が謀反の企てを持っている話が出てきて、どういう絡みになっていくのか予想がつきません。次いで、皇子からの誘いを断っている藤原道春の娘・桂姫があらわれます。桂姫は陰陽師・安倍泰成(晴明の子孫でしょう)の弟・采女之助に恋慕していますが、采女之助はつれないようです。桂姫が玉藻になるのであれば、地位の低い若い男に恋しているというのは少し違うような気がします。

次の道春館(みちはるやかた)の段では、桂姫の妹・初花姫がいます。そこに、皇子の命を受けた鷲塚金藤次がやってきて、獅子王の剣か桂姫の首を渡せと問い詰めます。その中で、亡き道春の奥方・萩の方から、実は桂姫は捨て子であったことが明かされます。捨て子の話は玉藻前伝説にあるわけで、やはり、桂姫が玉藻になるのだと考えるしかありません。

剣はすでに皇子の手に渡っていて、二人の姫が双六遊びの勝負で討ち取られる役を決めてよいことになります。初花姫が桂姫のために負けることができた途端に、金藤次は桂姫の首を切ってしまいました。ありゃりゃ、です。頭が混乱してきました。

隠れていた采女之助に金藤次は討たれ、息を引き取る前に、首を切った桂姫が自分の娘であることを明かします。まあこれは、浄瑠璃でよくある、忠義で話をややこしくさせる手管だと思うのですが、それじゃ、道春の実子の初花姫が玉藻になるしかないではありませんか。桂姫は恋が成就せず、父親に首を切られるだけの出番となってしまいました。しかも、父親・金藤次を討ったのが恋慕する采女之助です。究極の悲劇のヒロインと言えそうです。

桂姫が首を切られた直後に、初花姫が歌合わせで詠んだ歌を帝が褒めたことから、玉藻前として入内することになりました。これは玉藻前伝説の一つですが、突然の展開でした。次は、初花姫が九尾の狐とどのように結びつくのかです。ただ、この段で妙に気になったのは、右大臣・道春の家中のみなさんが町人のような言葉遣いだったことです。世話物を観ている気持ちになりましたが、平安期の公卿の家中での会話がどのような言葉遣いだったのか知りませんので、よくわかりません。まあ、これが文楽らしさ、というものでしょう。

神泉苑の段で、九尾の狐はいずこからか宮中に入ってきて、初花姫あらため玉藻前を襲い、玉藻前になりすましました。ちょっと唐突ですが、そうならざるを得ないでしょうね。玉藻前は薄雲の皇子と魔界を作る密約をむすびます。続く、廊下の段では、玉藻前のモデルと言われる皇后・美福門院も出てきて、玉藻前の暗殺を首謀しますが、玉藻前の得意技、光り輝く姿にあっさり負けてしまいます。

玉藻前によって帝は病が重くなりますが、訴訟の段では、なぜか皇子の愛人で、江口の遊女・亀菊が出てきて、皇子の命令によって訴訟を取り仕切ります。こんなんでいいんですかねえ、という組み合わせです。続く祈りの段はややこしく、亀菊が陰陽師・安倍泰成の願いで玉藻前を裁き、玉藻前の弁解を受け入れるものの、泰成の希望で祈祷の幣取りは許します。亀菊は皇子の旧臣の娘だそうで、皇子の謀反を諫めますが、皇子に殺されます。このあたり、別の物語が絡んでいるのだろうな、と感じましたが、話についていくのが精一杯でした。

その後は、安倍泰成の仕事(祈祷や幣取りではなく、獅子王の剣を使うのがポイントでした)で九尾の狐は退散し、那須野に逃げて殺生石になるという、普通の筋書きになりました。那須野へは桐竹勘十郎と狐が宙を飛んでいきました。外連(けれん)の面白さです。

最後に置かれた化粧殺生石は景事(けいごと)と呼ぶそうですが、これも外連で、狐が殺生石の周辺で七変化していく舞台は、語り・三味線・人形・囃子が楽しく、九尾の狐が人をたぶらかすのではなく、無邪気にさまざまな男女に化けながら、一人遊びを楽しんでいるように見えました。観客も拍手の連続で、「守らせ給ふぞめでたけれ」で終わり、玉藻前のストーリーが大団円で終幕した印象になりました。こういう趣向はとても好みです。能会で最後にある附祝言のような感じです。

推理小説を楽しむ気分で観つつ、腑に落ちない箇所はありましたが、最後に気持ちは晴れやかになりました。このような解放感は心中物の観劇後の気分とは違うものでした。

後で調べると、やはり二つの話を結びつけて脚色している作品だそうですね。ただ、最初の数段(中国と天竺での話)と「十作住家(じっさくすみか)の段」などが省略されていたそうで、省略がなかったら、違った印象になったのかもしれません。次回は省略なしの全段ぶっとおしを期待しています。

玉藻前伝説を知らず、観劇前に解説書を読んでいたカミさんは、最初から終わりまですべてが楽しかった文楽は初めてだと喜んでおりました。次は新春の国性爺合戦です。これも観るのは初めてですが、近松は自炊本があるので予習します。

長くなったついでの話ですが、下の狐の面は、文楽劇場の売店に置いてあって、じゃりン子チエでテツがかぶっていたのとそっくりな気がして、安いのでつい買いました。後で比べたら、ちょっと絵が違いました。型押し加工した紙に和紙を一枚貼って絵付けしただけの簡易な造りです。鍛金練習のモデルにするかどうかは未定ですが、作るなら、アルミでしょうか。でも、白面金毛九尾の狐だったら、銅に錫張りか真鍮かも。

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