大仙陵古墳と堺市博物館

2017年8月30日

8月26日、百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群として世界遺産を目指している堺市の大仙陵古墳を久しぶりに眺めてきました。

朝は涼しくて、パスカルと河川敷まで歩いて行きました。もう蝉の鳴き声は聞こえません。土手に雑草がすごく伸びています。

パスカルも久しぶりのロー・ジャンプでした。

昼前から蒸し暑くなってきましたが、墓参の後、堺の大仙陵古墳(大山古墳)に寄りました。昔、2年ほど堺市民だったことがありますが、その頃に訪ねることはなく、御陵を見たのはそれよりもっと昔の高校生時代でした。でも、いつも飛行機で伊丹・関空に離着陸するときは上空からのランドマークとして眺めていました。

暑いので、クルマで周回道路をゆっくり回ってみました。昔のイメージと変わらず、木々の向こうには空があるだけの茫洋さですが、道路はきれいになっています。半分くらい進むと民家があって、自動車は迂回しなければなりません。歩道はだいたい続いているようです。大回りして戻って駐車場に入りました。土曜日の午後で、駐車場は半分くらいの入りでした。

駐車場から正面の拝所まで外濠に沿って歩きます。一周すると2.7kmあるそうです。濠の水は緑色に澱んで、対岸にある樹木が繁茂して、沼地の森のようです。時々、魚が跳ねていましたが、淀川同様で、ここにもブルーギルやブラックバスが多く生息しているそうです。

拝所前で説明なさっている方に話をうかがいました。単刀直入に、「すべての案内に宮内庁指定の仁徳天皇陵と書いてありますが、大仙陵古墳とは書かないのでしょうか?」と質問したら、「そこなんですねえ、世界遺産の申請にも仁徳天皇陵としていますので、そのように説明していますが、見学に来た小学生が仁徳天皇陵は知らないけど、大仙陵古墳は知ってるって言うんですねえ。正直なところ、困るときはあります」と正直な説明でした。

仁徳天皇の陵墓と確定できないという話は以前から聞いていました。10年くらい前から、教科書の記述でも仁徳天皇陵が大仙陵古墳と変わったようです。

いろいろな事情が絡んでいる、ややこしい話題はさておいて、話をうかがっていると、大仙陵古墳は巨大で、クフ王のピラミッドよりも面積は広いものの、高さがないので、平地からは森を見ているだけの眺望になり、しかも中には入ることが許されていないので、視覚的アピールがむずかしいようです。まあ、拝所から中に入ったとしても、また濠があって、舟で渡っても、小高い森の散策だけでしょうけど。

南側の大仙公園にある平和塔(一般戦災死没者の追悼施設)は展望施設ではありませんが、平和塔の高さ60mくらいでは御陵の全貌を見ることができない、飛行機からの眺めが一番で、博物館で有料ですが、VR(仮想現実)のゴーグルがあるので、それを体験してみてください、とのことでした。

それでも、すぐ横に置いている石造りの模型はとてもわかりやすいものでした。

周囲を歩きながら見るAR(拡張現実)アプリにする手もありそうですね。

というような話の後、大仙公園にある博物館へ向かいます。平和塔が見えています。

そこを曲がると堺市博物館です。

入ってすぐに、10分ほどの百舌鳥古墳群の紹介映画を観ることができました。まだ、古市古墳群とのセットで世界遺産の候補申請する前の製作のようでした。わかりやすいCG中心で、VRを映画で眺めるという雰囲気でした。この映画を観たら、有料のVRを眺める気持ちはなくなるのではないかと心配しました。心配通り、VRは素通りしてしまいました。

数年前に改装されたという博物館には、堺市内の出土品、環濠都市時代の生産品など、ほぼ編年体の順番で、いろいろと展示されていました。

工夫していると感じたのは、出土品の甲冑を再現して、着用できるというサービスでした。着用してみることができる複製模型です。

大人用と子供用がありました。けっこう重くて着用はたいへんだとわかります。

堺の手織り段通が置かれていました。戦前のもので、もめん糸で織られているそうですが、手触りは柔らかく、シルクと変わらない質感でした。

ただ、堺からは手織り段通の職人がいなくなり、現在は伝承のための養成講習を続けているだけのようです。商品としては京丹後市に移った住江織物が細々と作っていると聞きました。館内に織機が置かれていて、火曜日に実演があると書かれていました。

堺市博物館所蔵の住吉祭礼図屏風(江戸初期)が置かれていました。複製品の展示でしたが、素人には違いはわかりません。

住吉祭礼図屏風の左隻には住吉大社、右隻には堺の町が描かれています。住吉大社と堺の環濠までは大和川を挟んで紀州街道で3キロはありますが、住吉大社と堺との結びつきが強かったのだろうなと想像できます。

現在は大和川が住吉大社のある大阪市(住吉区)と堺市の市境になっていますが、それは明治になってからです。堺という地名の由来は摂津・河内・和泉の境(三国山=三国ヶ丘)ですが、江戸時代までの摂津と和泉の国境は堺の環濠の真ん中を横切る大小路(おおしょうじ)筋でした。摂津一宮の住吉大社は堺も地元、と言うか、元々は堺の一部は住吉大社の社領だったそうですね。

屏風が描かれたのは大和川の流路変更(1704年)の前ですが、後に大和川の流路となる小さな川(狭間川)があったようです。橋があって、甲冑姿の人たちが紀州街道に沿った安立町(あんりゅうまち)から堺へと渡っています。大和川を渡る神輿渡御は近年になって復活したそうです。

住吉大社の反橋(そりばし)を渡ろうとしている神輿も描かれています。あの反橋を神輿を担いで渡ることができるんですね。

その他、堺鉄砲も大小ありましたが、お気に入りは犬の埴輪でした。

豚鼻で、一見、イノシシかと思いますが、立ち耳に巻尾という日本犬らしい姿です。

出土したときの写真もありました。

帰る前にもう一度、映写室に寄りました。もう一本の映画が始まるところでした。これは古市古墳群だけを紹介していて、CGを多用した内容は百舌鳥古墳群とほぼ同じでした。2つの映画をペアにして、百舌鳥・古市古墳群の紹介としているようです。

堺市は歴史的景観が随所に保存されているというわけではなく、石器時代・縄文弥生時代・古墳時代から環濠都市までの名残が点在している商工業・住宅の町です。西側には環濠跡の水路が一部残っていますが、東側は阪神高速道路の下になっています。

明治42年(1909年)測図の地図があります。上が住吉大社、下が堺の町です。南海線と高野(登山)線が走っています。

このころは堺も空母のような形の江戸期の環濠都市のままで、大仙陵を含めて、周りはすべて農地です。100年前に歴史的景観保存を含めた都市計画をしていたら、という仮定の話になってしまうのは、いずこも同じですね。

大阪府は近畿で唯一、世界遺産がありません。古市古墳群については羽曳野市に住んでいる友人から、世界遺産申請についての市民の温度差が大きく、どうかなあ、という話を聞いていました。百舌鳥(堺市)も古市(藤井寺市・羽曳野市)も、残っている古墳はすべて周りが民家に迫られていて、人口密度が近畿でダントツとなっている大阪府の混雑ぶりが一番気になるところです。そうではあっても、堺がいろいろと魅力的な土地柄であるのは間違いありません。