大坂城の豊臣石垣見学

2021年2月22日

徳川が豊臣時代の痕跡を残さないようにすべてを埋めて作った大阪城の本丸から豊臣時代の石垣が発見されたのは昭和34年(1959)だったそうです。昭和59年(1984)には別の浅い場所(金蔵の横)からも発見されました。調査後に埋め戻されたようですが、石垣を公開するプロジェクトのためにあらためて金蔵横を大きく発掘しています。この話題は40年ぶりに大阪に戻ってきてから、大坂城豊臣石垣公開プロジェクトという寄付集めで知りました。

2月19日から発掘現場の特別公開があるということで、一般枠で申し込みましたが落選、少し寄付をしていたので、寄付者枠で当選し、見学してきました。

午後3時からの見学ですが、少し早め、2時頃に行きました。久しぶりに電車に乗り、京阪・天満橋から大手門まで歩きました。2月とは思えない暖かさで汗をかきました。
このあたりは何十年ぶりかわからない久しぶりです。

大手門を抜けると、横の塀に狭間が並んでいます。

狭間から歩いた道を覗いてみました。よく見えるものですね。

城内にはイルミネーションがいくつか置かれていました。

梅の見頃なので、本丸への楼門を横目に通り過ぎて、先ずは東側の梅林に向かいました。梅は満開のようで、それなりの人出です。下には降りませんでした。

楼門に戻って、本丸に入ります。

天守閣の手前、旧第四師団司令部が2017年に改装されて、複合施設「ミライザ大阪城」になっています。

この建物は昭和初期の優雅さがありますね。ずっと大阪市立博物館として使われていました。

中に入ったら、新婚さん二人だけの前撮りでしょうか、数人だけで撮影していました。店舗は半分くらいが閉まっています。

奥に「大坂城跡」という展示室がありました。

こういう説明がずらっと並んでいて、瓦が2枚展示されているだけでした。

ミライザ大阪城の横のベンチでしばらく休憩してから、すぐ横の発掘現場を訪れました。この写真の中央が重要文化財の金蔵で、発掘現場は右側です。

受付をしてもらって、5人ほどが集まって柵の中に入りました。発掘現場です。

小さなビルの建設現場みたいです。地下に鉄骨が張り巡らされています。これが見学施設になる骨組なのでしょう。下に降りて見ることができるのかと期待していましたが、それはできず、上から眺めるだけでした。

逆光の時間だったので下が暗く、どこに石垣があるのかすぐにはわかりませんが、覗き込んだら見えました。

近くでズームアップしました。底面にいくつか穴があります。柱跡でしょうか。

徳川が作った立派な石垣とは比べものになりませんが、古い野面積(のづらづみ)と聞いて予想していたよりは大きな石が使われているように思いました。この場所は豊臣時代の本丸の上にあった「詰ノ丸」の角だそうです。残念ながら、天守閣の石垣ではありません。10分だけの見学で短いなと思っていましたが、まあそれくらいで十分でした。

実際に見せてもらって感動は湧きませんが、歴史的事実を確認した気分にはなりました。徳川が攻めあぐねた大坂城の全容を感じるほどの想像力が働かないので仕方ありません。いずれ、寄付による公開用施設が完成したら、上からではなく、正面から眺めてみたいという気持ちで去りました。寄付はまだまだ受け付ける必要があるようです。

帰りは北側の極楽橋を渡って、京橋口から天満橋まで歩きました。こちらのほうが少し近いようですね。

能勢のドライブでサプライズ

2020年12月6日

紅葉の中をドライブしたくなって、能勢まで行ってきました。午後に出発して、近畿自動車道・中国自動車道は空いていたので早く着けそうと思った後に、池田市では日曜らしい混雑がありました。国道173号線で川西市に入って以降は紅葉の山中ドライブで、札幌から支笏湖や中山峠に向かう道を思い出す感じでした。

北海道と違うのは道路の端に蓋のない側溝があるという点でしょうか。積雪を考える必要がないからと推測しますが、なかなか怖いものです。

1時間ほどで「道の駅 能勢(くりの郷)」に着いたら、駐車場はほぼ満車でした。ライダーたちも多く休憩していました。周りは紅葉がきれいです。

買い物休憩で、栗の食品を中心にごちゃごちゃと買いました。能勢町産品をチェックしたつもりでしたが、帰宅してから確認したら、マロングラッセは中国産の栗でした。他はおおむね能勢町関連品でした。

道の駅での休憩が終わった午後3時過ぎに、もう少し紅葉ドライブを楽しみたいなと思って調べてみたら、「野間の大けやき」が近くだとわかり、眺めに行くことにしました。それがなかなかのサプライズになりました。

カーナビとスマホのグーグルマップで確認したら、すぐ先に大阪府道4号線(茨木能勢線)があり、それがルートの第一候補になっていました。173号線から府道4号線に入り、空いたワインディング・ロードをすいすいと進んでいきました。

途中、田尻という交差点から「野間の大けやき」到着までのドライブレコーダーの動画を入れておきます。7分ほどで、音は出ません。動画の最初で、前を横切る府道106号線の往来はあり、こちらに入ってくる車はありますが、直進する正面の往来はありません。この交差点で左右どちらかに迂回するのが正解でした。

知らなかったのですが、帰宅後に調べてみたら、田尻から猪ノ子峠を越す4号線がとっても狭隘で未舗装(簡易舗装が剥がれている)部分もあり、そのことで有名な道路だそうですね。

西日が正面になることが多く、途中にいくつか道路脇の看板がありましたが、読んでいる余裕はありませんでした。「ポツンと一軒家」への林道みたいになっていきます。人が歩いていたのにはびっくりしましたが、対向車が来なかったのが幸いで、面白かったものの、また通りたいとは思わない道でした。

5分ほどの峠道ドライブの興奮の後に到着した樹齢千年の大けやきは葉が散っていましたが、むしろ枝の複雑な造形がよくわかって魅力的でした。隣に資料館もあります。能勢には室町時代から山城が多くありましたが、このけやきはその頃から立派だと言われていたそうです。

十分に紅葉ドライブを楽しんだので、帰路のルートをナビに入れました。大けやきのすぐ近くに国道477号線があります。途中、豊能町のときわ台で、左折すると箕面有料道路という標識があったので、ナビのルートではなかったのですが、そちらを選びました。しばらくして、ナビには出ていない右折する道路があり、道路案内標識に箕面バイパスと書かれています。この案内はグーグルのストビューにはまだ写っていません。

右折すると、ナビ(2019年版)の地図から道路が消えました。ずっと先の新名神・箕面バイパスのところだけが浮いて示されています。つい最近の開通道路のようです。

これが2つめのサプライズでした。この道路は最後の快適紅葉ドライブとなりました。

箕面バイパスは長いトンネルで新御堂筋(国道423号線)につながっており、大けやきから1時間足らずで帰宅できました。

北海道では旧道というのは少ないので、あまりナビを重視していませんでした。大阪(本州)では狭い旧道・路地、一方通行が多く、どこに行くのでもナビは不可欠です。でも、ナビだけを頼りにしていると変なルート(狭い道路)になることも多いですね。もっと道路の案内標識に注意しないといけない、あるいは事前にルートを調べておかないといけない、そんな教訓になる面白いドライブでした。

 

太陽の塔と民博

5月29日、48年ぶりに万博会場(万博記念公園)に行ってきました。

今年になって太陽の塔の内部公開が始まりましたが、1ヶ月くらい経って予約サイトを眺めてみたら、もう4ヶ月先まで満杯でした。来年あたりだったら行けるかな、という気持ちでした。ところが、5月に入ってからのTVニュースで、予約者が当日に現れない率が20%にもなることがあるという報道がありました。予約もキャンセルも無料だからだそうです。そういうニュースが出ると、ちゃんとキャンセル手続きをする人が多くなっているかもしれないと思い、ニュースの数日後(5月6日)に予約サイトを眺めたら、2週間ほど先からポツポツと空きが出ていました。

予約サイトでの確認は少々手間でした。カレンダーに空きを示す「○」が出るのですが、○を押してから予約手続きを始めないと、その空きが何時かがわかりません。今回はラッキーにも都合のよい午後3時でした。

この記事を書いている5月31日に眺めた予約サイト画面です。かなりの空きが出ていますので、平日なら行きたい直前にチェックするのでよさそうですが、時間帯はわかりません。なお、予約手続きの前にメールアドレスや電話番号などを登録する必要があります。

せっかく万博記念公園に行くのだから、予約時間の3時まで、以前から行きたかった民族学博物館を訪れることにして、昼頃にモノレールに乗りました。鳥飼基地はやはり写真を撮りたくなります。

万博記念公園駅で降りると、駅構内に面白いオブジェが置かれていました。

丸太を束にして球形に加工してあります。説明板には「大阪モノレール美術館」と書かれ、大阪トリエンナーレ1998 グランプリ受賞作品(作者は韓国の李 在孝)とあります。ガンバ大阪のスタジアムがある場所柄、サッカーボールかなと思いましたが、「無題」となっていました。

構内の端にも置かれていました。

こちらは細い丸太を組み合わせて球体に切り取っています。興味深く眺めていたら、ツバメが飛んできて、ガンバ大阪2018シーズンスローガン『奪還』へのファンの寄せ書きの上に2羽とまりました。

この駅の構内は広くて、ツバメが飛び回っています。改札を出るときに駅員さんに聞いたら、放っておくと巣を作るんですよ、と笑いながらも困り顔でした。楽しい風景ですが、乗降客への落とし物があると困るんでしょうね。むずかしいところです。

さて、万博記念公園の入口まで駅から10分くらい歩きました。蒸し暑くなってきています。48年前に来たときも同じ時期で同じような暑さの記憶があります。当時のアクセスは地下鉄御堂筋線の延長(北大阪急行)で「万国博中央口駅」でした。大阪モノレールは1990年の開通ですが、別のモノレールが会場内輸送として走っていました。

万博の時は樹木がほとんどなかった記憶ですが、今は森になっていて、太陽の塔は森より高く聳えています。でもこの景色はモノレールから何度も見ています。

しかし、近くで眺めると、周りには木がないので、地面からそそり立っています。地上高70mだそうで、大きいと言うより巨大ですね。

48年前に見たときはトラス構造の巨大な屋根が周りにあったので、野原に立っている姿は初めて見ました。いろんな角度から写真を撮りながら、3時までの2時間ほどを過ごす民族学博物館に向かいました。塔の後ろは大きな広場になっていて、その端に当時のトラス屋根の一部が置かれていました。

太陽の塔から10分ほど歩いて、国立民族学博物館に到着です。

万博当時の収集資料品の特別展示が今日まででした。まずは1階のレストランでカレーのランチをとって、2階の本館展示場に向かいました。とても膨大なコレクションですね。撮った写真は多かったのですが、ここでは2点だけ。

入口の手前にいくつか「対比あるいは類似」の展示がありました。「ガーナのエビ形の棺桶」と「オーストラリアの筒状の骨箱」です。

オーストラリアの木彫「ディンゴの一家」。これは1991年のリン・オナスの作品です。

1時間半歩いて1/3くらいしか観ることができませんでした。常設展はここまでで、続きは次回以降として、今日までの特別展を覗いておきます。70年万博のために収集された資料品の展示です。ここも素通りに近い観覧で20分ほどかかりました。

午後2時40分に太陽の塔の裏側に戻ってきました。とても蒸し暑くなっていました。樹木は多いものの、歩くところには日蔭が全くありません。

すでに3時からの入場者受付は始まっており、QRコードを示して入場券とパンフレットをもらって入りました。

ここから先は撮影禁止です。フラッシュ禁止くらいでいいのにと思いますが、立ち止まらないようにしているのでしょうか。

地下から始まって、16人単位でゆっくり階段を上っていきました。昔はエスカレーターを行列で上りましたね。耐震の観点からエスカレーターは取り外されたそうです。内部の記憶は進化の木と恐竜くらいです。再製作や補修された展示物が多いようですが、恐竜などはそのままでした。

万博当時の出口は右腕の先から大屋根に移る方法でした。今は腕の出口は封鎖されていますが、腕の内部がパイプのトラス構造で曲面がきれいに作られている様子がよくわかりました。

現在の出口は別の閉鎖階段で11階から地下まで降りていきます。ここから先は撮影禁止ではありません。写真を撮ったのは10階に降りた時からです。こんな写真でも、一応は太陽の塔の内部写真です。

8階からは回っていく廊下に展示がありました。最初は岡本太郎の言葉です。ライトが強すぎて上の文字が写りませんでした。爆発ではなく呪術だそうです。

7階には製作時の記録写真がありました。

6階は展示の説明です。

5階は今回の公開に至るまでの工事の説明です。

入口の横の出口に出たのは3時半少し前でした。30分足らずで短かったと言えるでしょうが、内部展示品は今となっては上野の国立科学博物館と比較にならないようなものですから、時間はそんなものですね。

お土産は海洋堂の1/350の太陽の塔です。海洋堂は近所だし、通販でも売っている製品ですが、前から欲しかったので、太陽の塔再訪記念にしました。

いずれ、目にLEDを入れる加工をするかもしれません。

モノレール駅までの帰り道は暑く、駅に着いた時には熱中症のような感じ(なった記憶はありませんが)でした。次回は涼しい時期にクルマで来るのが良さそうです。

造幣局 通り抜け

4月12日、午後から造幣局の桜を眺めに出かけました。前日に行こうとしましたが、かなりの強風で今日になりました。

地下鉄天満橋駅を降りた時から大勢の人が造幣局方面に歩いていました。天満橋の歩道は通り抜けに向かう人たちが続いていて、追い越すのはあきらめました。

天満橋から見る八軒家の船着き場です。曇り空ですが暖かく穏やかです。

天満橋を渡り切って振り返ったところです。橋の歩道は向かって右が来た道、左が帰り道になっています。

南門に到着です。ここから一方通行の通り抜けが始まります。平日の午後でこれだけの人出というのは驚きですが、外国からの団体客が多いようでした。

ここからはいろいろな八重桜を楽しむことになります。もらったパンフレットには桜の説明が「あいうえお」順でわんさと書かれていますが、人混みの中でじっくり読む気にはなりませんし、どれが貴重なのか、有名なのかもわかりませんので、ただただ現在満開の桜を眺めることになります。一応、それぞれの桜の横に説明が記されています。これは妹背。

これは長州緋桜。

これは園里黄桜。

昨日の強風のせいでしょうか、満開が6~7割、ほぼ散ったのが3~4割といった感じです。

15分ほどで中門に到着です。

左側には造幣博物館がありますが、通り抜けの期間は休館しています。

その先に、わかりやすい桜がありました。「いにしへの奈良の都の」八重桜です。

通り抜け通路横に洪水碑がありました。明治18年の淀川洪水で碑の横線まで浸水したようです。

明治3年(1871年)造幣局創設当時のガス燈が置かれていました。

その先に、藤棚と見える白い花が見えました。

百年を超える藤の古木だそうです。明治天皇行幸の際の生け花に使った藤を挿し木して育ったそうです。根の近くは芯が無くなっているようですが、見事に咲いています。

次いで、雰囲気のある鉄のゲートがありました。

欽明門となっています。これも明治天皇がらみのようです。

桜が人よりも背が高かったので、多くの人がいることはあまり気になりませんでした。

通り抜けは子供の頃に連れて来てもらったことがありますが、桜や記念物などの記憶はまったくありません。大川の土手との間に柵がありますが、昔はなかったような気もして、土手あたりで朝鮮の人たちが音曲と踊りを楽しんでいたのを眺めていたような記憶があります。とってもあいまいな記憶です。

人の波が動く速度で、ほぼ30分で北門(出口)に到着しました。

造幣局の外塀には桜の灯火が取り付けられています。

帰りは南森町駅まで歩きました。

おみやげは、造幣局の記念品ショップで、鋳造品ではなく、ゴーフルを買いました。右はチェックに来たパスカルの鼻です。

 

パナソニック ミュージアム

桜が散り始めた3月30日、新装なった(3月7日オープン)パナソニックミュージアムを訪ねてみました。京阪守口市駅から門真市方向に高架横の通りを歩いて5分ほどです。

パナソニック本社の一部で、隣には安藤忠雄設計の「さくら広場」があります。

さくら広場は後で休憩がてらとし、松下本社の入り口に続く通りを渡ると「ものづくりイズム館」ですが、ここも後から見学で、通り過ぎました。

この建物は、実は以前の「松下電器歴史館」でした。昨年の2月に訪ねたことがあります。その時の写真です。

改装されたのですが、違いがわかるでしょうか。手前の銅像が今はなくなり、モニュメントに変わっていますが、建物のほうで、玄関あたりが違っています。

以前の玄関周りにあった丸いステンドグラスが外されて壁になり、ステンドグラスは新築された「松下幸之助歴史館」に移されています。

ものづくりイズム館を通り越して、新築された「松下幸之助歴史館」に行きます。よく似た新しい建物です。どちらにも屋根に舵輪が飾られていますが、白と黒に塗り分けられています。

外の道路から見たミュージアムの入口です。

「松下幸之助歴史館」と「ものづくりイズム館」の2つの名前があります。すぐ後ろに見えているのが松下幸之助歴史館です。この歴史館が新しく建てられて、玄関周りのステンドグラスが移されています。銅像もこちらに置かれていますので、ここに立つと、以前の松下電器歴史館のように感じます。

中に入ります。入場無料です。

玄関の内側には、新築開館祝いの蘭の花が並んでいて、オープン記念・スタンプラリー(4月10日まで)の案内が置かれていました。

中は広いスペースに松下幸之助の人生がよくわかる配置になっています。

多くの展示品は以前の松下電器歴史館に置かれていたものでしたが、広くなっても、相当な量の展示です。初期の松下製品なども置いているからでしょうね。

パネル展示も多くなっていますが、不思議な現象がありました。パネルを照らしている照明で、目で眺めていると普通の昼光色のように見えるのですが、カメラを通すといろんな色になります。これは赤紫です。

続いてシャッターを切ると、薄い黄色になっています。

多色のLEDを切り替えているのでしょうか。早く切り替えるから、目では昼光色しか見えないのかもしれません。

次は「ものづくりイズム館」です。

初期の松下からの製品が所狭しと並べられている一方、ゆったりとした展示もありました。ここでは「ものづくり」のイベントが時々あるそうです。

この館で楽しかったのが巨大パネルスクリーンに写される動画です。パナソニック製品が右から左へと流れます。

巨大パネルの手前にLED照明のあるポールが立っていて、その上に空気センサーが付いています。そのセンサーに風を送ると画面が動きます。
動画を撮ってみました。音が入っています。

右の方のセンサーに風を当てると左に動き、すべてが左端に溜まりますが、左の方のセンサーに風を当てると右に動いていきます。すべてのセンサーにみんなが同時に風を当てるとどういう動きになるのでしょうね。

こんな記念撮影スポットもありました。

スタンプラリーの結果です。抽選で白玉(最下位?)を出して、特製メモ帳をもらいました。

帰りがけに「さくら広場」に寄りました。桜はすべて若いですが、よく咲いて、どんどん散っていました。

ここのモビールはなかなかのものですね。音は出ません。

水辺が作られています。

この奥あたりに、松下幸之助 門真旧宅があるそうですが、限定公開だそうです。

すぐ横の京阪電車の高架を見上げると、ちょうどエアセクション(異なる変電所からの架線を区分している場所)の標識が見えました。

これから10年後くらいの桜の成長が楽しみです。

 

月ヶ瀬と海住山寺

2018年3月4日

3月4日、とても暖かく、淀川公園の梅は満開です。

河川敷では寛平マラソンが始まるようです。

そんな陽気なので、今日は昼から京都府唯一の村、相楽郡南山城村の道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」までのドライブを楽しみました。国道163号線をひたすら走ります。

木津川市で少し国道24号線と重複して木津川を渡りますが、それが面白い形のトラス橋でした。後ろに車がいなかったのでスピードを落として写真を撮りました。

あとで調べてみると、1951年に架けられた「泉大橋(いずみおおはし)」で、日本百名橋に選ばれています。その上流にはJR奈良線の区切りのないトラス橋が見えました。

木津川沿いの163号線に戻ってからも、雰囲気のあるトラス橋が続きました。

笠置町で見つけた関西本線木津川橋りょうは明治時代のもので、土木学会の選奨土木遺産になっていました。

このあたりはトラス橋ファンには有名な地域なのでしょうね。

快適なドライブが続き、1時間15分くらいで目的地の南山城村に到着しました。道の駅の駐車場は日曜ということで、ほぼ満車でした。横の予備駐車場に駐めました。さすが、茶の産地だけあって、前には茶畑があります。

ランチに特製カレーを食べて、いつも通り、道の駅での買い物を楽しみました。ここはあまり農産品を置いていないようですね。

近くに月ヶ瀬梅林があるのですが、日曜なので超満員かもしれないと思いつつ、行ってみることにしました。途中に一車線分しかない箇所もあり、なかなかの山道ドライブです。水を眺める場所の駐車場が空いていたので、ちょっと見物です。

現代的な下路アーチ橋がかかっています。梅はと言うと、手前の小さな木は咲いていましたが、他に梅の花らしき色はありません。

上の写真の赤い橋のところ(月ヶ瀬梅渓)まで降りていくと、「奈良市月ケ瀬梅の資料館」があり、前の駐車場はガラ空きです。休憩がてら、中に入りました。係の人にうかがうと、今年は例年になく開花が遅れている、とのことでした。駐車場がすべてガラ空きだった理由ですね。いただいたパンフレットには「梅まつり」が2月18日から3月一杯までとあります。

資料館では、月ヶ瀬で有名な烏梅(うばい)と、それを使う奈良晒(ならざらし)の説明展示がありました。梅の実を燻製して烏梅を作り、紅花などで麻を染める時の媒染剤(酸性液)として使う方法だそうです。烏梅って黒っぽい染料にするのかと思っていましたが、紅花の色を引き立てるためなのですね。

この資料館の周りも2本ほどが三分咲き程度ですが、他はすべて蕾のままです。

この蕾の雰囲気だと開花までしばらく待つ必要がありそうです。

梅林の散策もせず、これで戻ります。南山城村に戻る途中で、ナビが違う道を選んだので、それに従うと、名張川の「高山ダム」に行き着きました。月ヶ瀬梅渓を作っているダムです。

広い駐車場があったので、眺めてみました。

それほど迫力はありませんが、ダムの上を自動車がこちらに走ってきていました。ひょっとしたら、このダムは道路になっているのか、と思いつつ、クルマに戻って先に進むと、確かにダムの上を走ることになりました。ダムの手前に「対向車が来ていないか確かめて」とありましたが、その瞬間にダムの上になり、一車線しかない通路の両側は壁になっていて、先は見えません。

この写真は渡りきる直前です。左右の景色を眺めることができないようになっています。

さて、往路で木津川市のはずれくらいに見つけた海住山寺(かいじゅうせんじ)の「国宝・五重塔」という看板が気になっていました。大阪に戻ってからは「国宝」という言葉にとても魅力を感じます。帰路なので、寄ることにしました。

月ヶ瀬梅渓の往復よりも細い急勾配の参道を登りました。以前に野崎観音に登ったような道が山の中で続きました。対向車が来たらどうしようと考えつつ、登り切りました。

このあたりの平地は恭仁(くに)宮跡で、海住山寺も8世紀に良弁による創建と言われています。本堂(右)と国宝の五重塔(左)です。

本堂の中には重文の十一面観音立像があるそうですが、閉門直前なので遠慮しました。

五重塔は鎌倉期(1214年)建立だそうで、高さは17.7m、とても華奢な感じを受けました。下に裳階(もこし)が付いているからでしょうか。もう夕陽だったので、裏から撮りました。

本堂の横にある文殊堂も重文だそうです。

今日は近畿の山道ドライブを楽しんだ気分ですが、帰りの木津川市あたりから「けいはんな学研都市」を過ぎるまでは渋滞が続いて、ちょっと疲れました。でも、国道163号線は興味深い道です。

今日のお土産です。

後ろの梅の枝は、月ケ瀬梅の資料館で「お持ちください」と置かれていたので、いただいてきました。

狭山池

2018年2月12日

2月11日、今日も午後からドライブで、大阪狭山市にある狭山池を訪ねてみました。一般道で1時間ちょっとです。昔は狭山遊園がありましたね。

太陽は出ていましたが、土手に上がると風が強く、とても寒く感じました。金剛山、葛城山、PLタワーがよく見えています。写真の左側に狭山池博物館があります。

次の写真は博物館近くの土手から南、西除川(にしよけがわ)上流方向の眺望です。狭山池は日本最古のダム式ため池で、大和川水系の西除川(天野川)を堰き止めています。このあたりは羽曳野丘陵と陶器山丘陵に挟まれていて、ダムの場所として適当だったのですね。陶器山丘陵と呼ばれるだけあって、須恵器が多く出土しているそうです。

現在の土手の周囲は2,850mあるそうです。休日なので、ジョギングを楽しんでいる人はけっこういましたが、この日の土手は殺風景な雰囲気でした。でも、桜並木になっていますので、4月頃は華やかになるのでしょう。

1982年に狭山池下流で豪雨災害があったことから、洪水調節機能を持ったダム化を計画して、1988年から平成の大改修が始まり、工事終了に合わせた2001年に大阪府立狭山池博物館が安藤忠雄の設計で建てられました。博物館の方角(北)が狭山池による灌漑(ならびに治水)の対象地域になっています。

ここが博物館の入口ですが、安藤忠雄の設計らしく、受付のある内部までは、エレベーターに乗って降りて、階段かスロープを上がってと、かなりあります。入館は無料でした。

入口の横には、昔の樋が置かれていました。

奥に進む途中には水が多く配置されていました。隅っこに小さく二上山が見えています。

受付ロビーの背後に、土手を切り取った断面(樹脂で固めて剥がしたのでしょうね)が目を引きます。飛鳥時代の造築以来、天平から平成までの改修工事の跡が地層になっています。これが最初の展示物です。

狭山池博物館では、狭山池は推古天皇時代(7世紀)に作られたとされていますが、これは1988年からの改修工事で出てきた東樋の木材の年代測定で616年の伐採とされたからのようですね。ネットで見つけた1984年の論文(湯川清光 「創設時の狭山池」 農業土木学会誌 Vol.52 )を読むと、4世紀頃に作られたのではないかと書かれていました。いずれにせよ、この地域では重要な施設だったようで、何度も大きな改修工事が行われてきています。

江戸時代の木製の東樋です。

その先の端には飛鳥時代の東樋が置かれています。

手前は石製の樋です。

土手の木製の補強骨組みです。

大正から昭和にかけての改修で設けられた取水塔が室内装飾になっていました。中に入ることはできません。

一番楽しかったのは、先週の竹内街道歴史資料館と同様に、点灯式のジオラマでした。巨大な寝室に置かれたベッドみたいです。

このジオラマには3つの時代のボタンがあって、狭山池からの灌漑範囲が点灯していきます。画面の一番手前が狭山池で、北のほうに流れて行き、各地のため池を潤して、当時はなかった大和川(1704年流路変更)の位置を越えていっています。

大仙陵古墳の水もここから入っているのですね。

このジオラマには、大和川の付け替え部分も作られていました。次の写真で、左下から上に行く川が付け替えられた大和川(左から入っているのは石川)、右側に水の無い川の形が旧大和川です。ちょうど、先週撮影した柏原市役所の前あたりです。

西側の無料駐車場の下に小さな池(副池)があります。大正・昭和の改修で作られたそうです。狭山池の東西にある余水吐(よすいばき)の一つ、西除川が出て行くところですね。このあたり昔は決壊が多かったそうですが、今は雰囲気のいい、池の公園になっています。

大阪に戻ってから、主にドライブ散歩で大阪周辺を巡っていますが、今回の散歩で、古代大阪の全体的なイメージが見えてきたような気がします。難波宮から堺、近つ飛鳥、狭山池、平城宮という範囲、そして淀川の歴史など、古事記や日本書紀に出てくる土地を眺めていると、河内湖(草香江)が淀川と大和川の流入で淡水化した周辺には古代の生活と文化が多くあったのですね。子どもの頃から淀川・大和川の下流を見慣れた風景として眺めていましたが、数百年前までは、そこには淀川・大和川はなかったのだと知ることはとても新鮮な気分です。

竹内街道、ちょっとだけ

2018年2月4日

2月3日節分です。最近はクルマに乗る回数が少なく、寒い時期は自然放電によるバッテリー消耗が気になるので、近場のドライブで竹内街道(たけのうちかいどう)を眺めてくることにしました。

前回は奈良町と平城宮跡を訪ねましたが、それより古い飛鳥時代です。竹内街道は堺から飛鳥をむすぶ、もっとも古い官道(大道)とほぼ同じところだそうです。春になったら、河内の歴史に詳しい友人の案内で二上山を歩く予定なので、ちょっとだけ、予習のつもりです。

いつものように、昼食後の出発で、予報とは違って雨が降りそうな曇り空です。一般道をゆっくり走り、柏原市を通って、山道を太子町に向かいます。途中、柏原市役所が大和川に面しているあたりで撮った写真です。

左端が柏原市役所で、大和川の流路変更地点あたりです。昔の大和川はこのあたりから北(左)に流れ、淀川と一緒に河内湖(草香江)を作ったそうですね。水害が多かったようで、1704年に付け替え工事があって、ここから堺に向かい、大阪湾に直行することになりました。大和川の歴史も興味深いものがあります。二上山が近くに見えています。

古くて小さな道の駅「近つ飛鳥の里・太子」が今日のゴールです。1時間半ほどで到着しました。入口に二上山のモニュメントがありました。ポツポツと雨が降り出しています。

「近つ飛鳥」は古事記に記載があるそうですね。難波津からの位置づけで、現在の羽曳野市飛鳥あたり、「遠つ飛鳥」は奈良の明日香村飛鳥あたりを指すそうで、竹内街道のルートです。

道の駅で買い物をして、クルマにお土産を入れて、裏に向かいました。モダンな橋の先に、竹内街道歴史資料館があります。

舗装は現代的ですが、昔からの竹内街道です。雨が降り出したので、滑らなくて快適です。

太子町では下水のマンホールに十七条憲法の初めが入っています。

竹内街道歴史資料館に到着しました。

入場料は大人200円でした。小さな2つの展示室があって、古墳時代以前からの資料が展示されていました。年表です。

このあたりは硬いサヌカイト(讃岐岩)の産地で、太古から石器のために採集されていたようです。

この地域周辺の立体地理模型(ジオラマ)があり、地名などのボタンを押すとランプが点灯して、とてもわかりやすいものでした。古墳のボタンを押すと、この模型全体にランプが散らばりました。この写真は竹内街道のランプが点いているところです。

この近辺の観光図ですが、雨が降っていたので、資料として眺めるだけになりました。

太子町にある九流谷古墳(五世紀)から出土した鶏の埴輪(複製)です。造形がなかなかのものです。

聖徳太子の墳墓構造が展示されていました。

かなり前に知人から教えてもらった「〈聖徳太子〉の誕生」(大山誠一 吉川弘文館 1999)を読んで、「聖徳太子は実在したか?」という疑問が提起されていました。厩戸皇子は実在としても、聖徳太子は虚構であろうという話題です。でも、歴史資料の軽重を何も知らないからでしょうが、その本で展開されていた論証のスタイルにはあまり納得できませんでした。聖徳太子については昔からいろいろと議論されているそうですね。

帰りは高速を乗り継いだら、45分で帰宅できました。奈良と同じくらいでした。
今日のお土産です。

右2本は飛鳥ワイン(羽曳野市飛鳥)のメルローとデラウェアです。100%自社農園産となっているので買ってみました。でも、ここのワインには収穫年が入っていないのですね。さっそく、「早摘みデラウェア」を飲んでみました。デラウェアのワインは初めてでしたが、アルコール度数は低く(9%)、爽やかな香りと、早摘みなのにねっとりとした糖度の高さが特徴です。果汁で糖度を調整(ジュース・リザーブ)しているのでしょうか。デザートワインとしてはいいように思えました。その後にメルローを飲みましたが、こちらはちょっと・・・。

クルマのバッテリーは帰宅までアイドリング・ストップ機能が働かず、充電は少し不足気味です。また近いうちにドライブが必要です。

大仙陵古墳と堺市博物館

2017年8月30日

8月26日、百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群として世界遺産を目指している堺市の大仙陵古墳を久しぶりに眺めてきました。

朝は涼しくて、パスカルと河川敷まで歩いて行きました。もう蝉の鳴き声は聞こえません。土手に雑草がすごく伸びています。

パスカルも久しぶりのロー・ジャンプでした。

昼前から蒸し暑くなってきましたが、墓参の後、堺の大仙陵古墳(大山古墳)に寄りました。昔、2年ほど堺市民だったことがありますが、その頃に訪ねることはなく、御陵を見たのはそれよりもっと昔の高校生時代でした。でも、いつも飛行機で伊丹・関空に離着陸するときは上空からのランドマークとして眺めていました。

暑いので、クルマで周回道路をゆっくり回ってみました。昔のイメージと変わらず、木々の向こうには空があるだけの茫洋さですが、道路はきれいになっています。半分くらい進むと民家があって、自動車は迂回しなければなりません。歩道はだいたい続いているようです。大回りして戻って駐車場に入りました。土曜日の午後で、駐車場は半分くらいの入りでした。

駐車場から正面の拝所まで外濠に沿って歩きます。一周すると2.7kmあるそうです。濠の水は緑色に澱んで、対岸にある樹木が繁茂して、沼地の森のようです。時々、魚が跳ねていましたが、淀川同様で、ここにもブルーギルやブラックバスが多く生息しているそうです。

拝所前で説明なさっている方に話をうかがいました。単刀直入に、「すべての案内に宮内庁指定の仁徳天皇陵と書いてありますが、大仙陵古墳とは書かないのでしょうか?」と質問したら、「そこなんですねえ、世界遺産の申請にも仁徳天皇陵としていますので、そのように説明していますが、見学に来た小学生が仁徳天皇陵は知らないけど、大仙陵古墳は知ってるって言うんですねえ。正直なところ、困るときはあります」と正直な説明でした。

仁徳天皇の陵墓と確定できないという話は以前から聞いていました。10年くらい前から、教科書の記述でも仁徳天皇陵が大仙陵古墳と変わったようです。

いろいろな事情が絡んでいる、ややこしい話題はさておいて、話をうかがっていると、大仙陵古墳は巨大で、クフ王のピラミッドよりも面積は広いものの、高さがないので、平地からは森を見ているだけの眺望になり、しかも中には入ることが許されていないので、視覚的アピールがむずかしいようです。まあ、拝所から中に入ったとしても、また濠があって、舟で渡っても、小高い森の散策だけでしょうけど。

南側の大仙公園にある平和塔(一般戦災死没者の追悼施設)は展望施設ではありませんが、平和塔の高さ60mくらいでは御陵の全貌を見ることができない、飛行機からの眺めが一番で、博物館で有料ですが、VR(仮想現実)のゴーグルがあるので、それを体験してみてください、とのことでした。

それでも、すぐ横に置いている石造りの模型はとてもわかりやすいものでした。

周囲を歩きながら見るAR(拡張現実)アプリにする手もありそうですね。

というような話の後、大仙公園にある博物館へ向かいます。平和塔が見えています。

そこを曲がると堺市博物館です。

入ってすぐに、10分ほどの百舌鳥古墳群の紹介映画を観ることができました。まだ、古市古墳群とのセットで世界遺産の候補申請する前の製作のようでした。わかりやすいCG中心で、VRを映画で眺めるという雰囲気でした。この映画を観たら、有料のVRを眺める気持ちはなくなるのではないかと心配しました。心配通り、VRは素通りしてしまいました。

数年前に改装されたという博物館には、堺市内の出土品、環濠都市時代の生産品など、ほぼ編年体の順番で、いろいろと展示されていました。

工夫していると感じたのは、出土品の甲冑を再現して、着用できるというサービスでした。着用してみることができる複製模型です。

大人用と子供用がありました。けっこう重くて着用はたいへんだとわかります。

堺の手織り段通が置かれていました。戦前のもので、もめん糸で織られているそうですが、手触りは柔らかく、シルクと変わらない質感でした。

ただ、堺からは手織り段通の職人がいなくなり、現在は伝承のための養成講習を続けているだけのようです。商品としては京丹後市に移った住江織物が細々と作っていると聞きました。館内に織機が置かれていて、火曜日に実演があると書かれていました。

堺市博物館所蔵の住吉祭礼図屏風(江戸初期)が置かれていました。複製品の展示でしたが、素人には違いはわかりません。

住吉祭礼図屏風の左隻には住吉大社、右隻には堺の町が描かれています。住吉大社と堺の環濠までは大和川を挟んで紀州街道で3キロはありますが、住吉大社と堺との結びつきが強かったのだろうなと想像できます。

現在は大和川が住吉大社のある大阪市(住吉区)と堺市の市境になっていますが、それは明治になってからです。堺という地名の由来は摂津・河内・和泉の境(三国山=三国ヶ丘)ですが、江戸時代までの摂津と和泉の国境は堺の環濠の真ん中を横切る大小路(おおしょうじ)筋でした。摂津一宮の住吉大社は堺も地元、と言うか、元々は堺の一部は住吉大社の社領だったそうですね。

屏風が描かれたのは大和川の流路変更(1704年)の前ですが、後に大和川の流路となる小さな川(狭間川)があったようです。橋があって、甲冑姿の人たちが紀州街道に沿った安立町(あんりゅうまち)から堺へと渡っています。大和川を渡る神輿渡御は近年になって復活したそうです。

住吉大社の反橋(そりばし)を渡ろうとしている神輿も描かれています。あの反橋を神輿を担いで渡ることができるんですね。

その他、堺鉄砲も大小ありましたが、お気に入りは犬の埴輪でした。

豚鼻で、一見、イノシシかと思いますが、立ち耳に巻尾という日本犬らしい姿です。

出土したときの写真もありました。

帰る前にもう一度、映写室に寄りました。もう一本の映画が始まるところでした。これは古市古墳群だけを紹介していて、CGを多用した内容は百舌鳥古墳群とほぼ同じでした。2つの映画をペアにして、百舌鳥・古市古墳群の紹介としているようです。

堺市は歴史的景観が随所に保存されているというわけではなく、石器時代・縄文弥生時代・古墳時代から環濠都市までの名残が点在している商工業・住宅の町です。西側には環濠跡の水路が一部残っていますが、東側は阪神高速道路の下になっています。

明治42年(1909年)測図の地図があります。上が住吉大社、下が堺の町です。南海線と高野(登山)線が走っています。

このころは堺も空母のような形の江戸期の環濠都市のままで、大仙陵を含めて、周りはすべて農地です。100年前に歴史的景観保存を含めた都市計画をしていたら、という仮定の話になってしまうのは、いずこも同じですね。

大阪府は近畿で唯一、世界遺産がありません。古市古墳群については羽曳野市に住んでいる友人から、世界遺産申請についての市民の温度差が大きく、どうかなあ、という話を聞いていました。百舌鳥(堺市)も古市(藤井寺市・羽曳野市)も、残っている古墳はすべて周りが民家に迫られていて、人口密度が近畿でダントツとなっている大阪府の混雑ぶりが一番気になるところです。そうではあっても、堺がいろいろと魅力的な土地柄であるのは間違いありません。

だんじりが帰る

5月8日、京阪守口市駅前で「第10回守口市だんじり祭」が開催されているということで、午後3時頃に、ちょっと手仕事の合間を縫って、散歩がてら見に行きました。暑いくらいのいい天気です。

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守口市内には11台の地車(じぐるま=だんじり)があるそうで、今日は8台が参加していたようです。普段はタクシー乗り場になっているところに地車が並んでいました。
昔、泉州で眺めていた地車と比べると、守口(北河内)の地車はコンパクトなサイズのように見受けましたが、次の写真の左手前は「南十番」地区の地車で、立派なものです。守口で一番大きいそうです。

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会場に着いたときは催し物が終了したところのようで、地車に動きがありました。

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並んでいた地車が南十番にお辞儀の挨拶をして、帰って行きます。
動画です。今回はすべて音が出ます。

南十番の方が現・守口市地車連絡協議会の会長だそうです。
他の地車が出て行って、南十番が最後に退場します。

この先、いくつかの障害があります。
先ずは、京阪電車の高架下をくぐらないといけません。

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ギリギリですが、何とかクリアです。もちろん、来るときにも通っているわけですから、クリアできるのは当然ですけど。

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見ているほうは、次の「文禄堤」の陸橋のほうが大変そうでした。

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通過中の動画です。

さて、最後は国道1号線の横断です。

ごくろうさま、と思うと同時に、今夜の酒宴は楽しそうですね、という感想でした。