狭山池

2018年2月12日

2月11日、今日も午後からドライブで、大阪狭山市にある狭山池を訪ねてみました。一般道で1時間ちょっとです。昔は狭山遊園がありましたね。

太陽は出ていましたが、土手に上がると風が強く、とても寒く感じました。金剛山、葛城山、PLタワーがよく見えています。写真の左側に狭山池博物館があります。

次の写真は博物館近くの土手から南、西除川(にしよけがわ)上流方向の眺望です。狭山池は日本最古のダム式ため池で、大和川水系の西除川(天野川)を堰き止めています。このあたりは羽曳野丘陵と陶器山丘陵に挟まれていて、ダムの場所として適当だったのですね。陶器山丘陵と呼ばれるだけあって、須恵器が多く出土しているそうです。

現在の土手の周囲は2,850mあるそうです。休日なので、ジョギングを楽しんでいる人はけっこういましたが、この日の土手は殺風景な雰囲気でした。でも、桜並木になっていますので、4月頃は華やかになるのでしょう。

1982年に狭山池下流で豪雨災害があったことから、洪水調節機能を持ったダム化を計画して、1988年から平成の大改修が始まり、工事終了に合わせた2001年に大阪府立狭山池博物館が安藤忠雄の設計で建てられました。博物館の方角(北)が狭山池による灌漑(ならびに治水)の対象地域になっています。

ここが博物館の入口ですが、安藤忠雄の設計らしく、受付のある内部までは、エレベーターに乗って降りて、階段かスロープを上がってと、かなりあります。入館は無料でした。

入口の横には、昔の樋が置かれていました。

奥に進む途中には水が多く配置されていました。隅っこに小さく二上山が見えています。

受付ロビーの背後に、土手を切り取った断面(樹脂で固めて剥がしたのでしょうね)が目を引きます。飛鳥時代の造築以来、天平から平成までの改修工事の跡が地層になっています。これが最初の展示物です。

狭山池博物館では、狭山池は推古天皇時代(7世紀)に作られたとされていますが、これは1988年からの改修工事で出てきた東樋の木材の年代測定で616年の伐採とされたからのようですね。ネットで見つけた1984年の論文(湯川清光 「創設時の狭山池」 農業土木学会誌 Vol.52 )を読むと、4世紀頃に作られたのではないかと書かれていました。いずれにせよ、この地域では重要な施設だったようで、何度も大きな改修工事が行われてきています。

江戸時代の木製の東樋です。

その先の端には飛鳥時代の東樋が置かれています。

手前は石製の樋です。

土手の木製の補強骨組みです。

大正から昭和にかけての改修で設けられた取水塔が室内装飾になっていました。中に入ることはできません。

一番楽しかったのは、先週の竹内街道歴史資料館と同様に、点灯式のジオラマでした。巨大な寝室に置かれたベッドみたいです。

このジオラマには3つの時代のボタンがあって、狭山池からの灌漑範囲が点灯していきます。画面の一番手前が狭山池で、北のほうに流れて行き、各地のため池を潤して、当時はなかった大和川(1704年流路変更)の位置を越えていっています。

大仙陵古墳の水もここから入っているのですね。

このジオラマには、大和川の付け替え部分も作られていました。次の写真で、左下から上に行く川が付け替えられた大和川(左から入っているのは石川)、右側に水の無い川の形が旧大和川です。ちょうど、先週撮影した柏原市役所の前あたりです。

西側の無料駐車場の下に小さな池(副池)があります。大正・昭和の改修で作られたそうです。狭山池の東西にある余水吐(よすいばき)の一つ、西除川が出て行くところですね。このあたり昔は決壊が多かったそうですが、今は雰囲気のいい、池の公園になっています。

大阪に戻ってから、主にドライブ散歩で大阪周辺を巡っていますが、今回の散歩で、古代大阪の全体的なイメージが見えてきたような気がします。難波宮から堺、近つ飛鳥、狭山池、平城宮という範囲、そして淀川の歴史など、古事記や日本書紀に出てくる土地を眺めていると、河内湖(草香江)が淀川と大和川の流入で淡水化した周辺には古代の生活と文化が多くあったのですね。子どもの頃から淀川・大和川の下流を見慣れた風景として眺めていましたが、数百年前までは、そこには淀川・大和川はなかったのだと知ることはとても新鮮な気分です。