青函連絡船がなつかしい

2016年2月16日

先週(2016年2月13日)の朝日新聞 “be” の「みちのものがたり」に「青森駅300メートルホーム:連絡船へ急ぐ無口な人々」という記事が大きな写真入りで掲載されていました。とてもなつかしく、記事を読みながら、15年ほどで30往復くらいは乗った青函連絡船についていろんなことを思い出しました。

青函連絡船の摩周丸の模型(天賞堂製 1/500)です。

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初めて青函連絡船に乗ったのは1970年8月の末でした。初めての仙台での初めての学会参加で、後に恩師・上司となる札幌の先生に初めてお目にかかった翌日、気まぐれで、仙台からの道南均一周遊券(今のフリー切符の一種)を買い、初めて北海道(札幌と小樽のみ)を訪れました。「初めて」尽くしです。

とても暑かった仙台から上野始発の常磐線経由の急行「十和田1号」に乗りました。周遊券では急行の自由席に乗ることができました。本の自炊で電子化した当時の時刻表を眺めると、上野始発12:20、仙台発が17:58、青森着が23:40となっています。青森に着く前に、車掌が検札しながら、北海道に渡る人には乗船名簿を配りました。これが映画「飢餓海峡」に出てきた乗船名簿か、と思いながら、もちろん実名を記入しました。

青森駅では深夜にもかかわらず、朝日の記事にあるように、列車を降りたほとんどの人が長いホームを走っていきます。いったい何事が起こっているのかわからず戸惑っていました。行商姿で、大きく重そうな荷物を背に負い、さらに両手にも荷物を持っている女性たちも小走りです。みんなが急いでいるのを眺めながら、ゆっくり歩いているのは数えるほどでした。そして、私以外のゆっくり歩いている人たちの半分くらいは青森駅の出口に向かって行きました。

歩く人の少ない長い連絡通路を進みながら不思議に思っていましたが、連絡船に乗り込んで事情がわかりました。カーペット敷きの客室がすべて満員なのです。走っていたのは、寝る場所を確保するためだったのです。すでに他の列車も到着していて、その乗客がこの連絡船に乗り込んでいたことを知りました。

もう、多くの人はハンカチや手ぬぐいを顔に掛けて寝ています。私以外でゆっくり歩いていた人たちは、寝台などの指定券を持っていたのか、私のように初めての連絡船だったのかもしれません。

遅れて入った私は横になることはできず、特急列車の普通座席と同じ二人掛けの自由席に座るしかありません。青森0:05発の連絡船は3:55に函館に到着します。椅子席はそれなりに空席があったので、二人掛けを一人で利用できましたが、ちょっと斜めになっただけの椅子で寝るのは、仙台から座り続けた後だけに、けっこうつらいものでした。

この連絡船が摩周丸でした。現在は函館港で記念館として係留されています。

当時の国鉄資料を調べてみると、1970年8月2日の一日あたりの青函連絡船乗船人員は上りと下りを合わせて33,088人で過去最高だったそうで、毎年「青函航路旅客輸送人員記録更新」と載っている時代です。その後は深夜の連絡船が混む季節はグリーン席(リクライニング座席で400円)を使うようになりました。

しばらく寝るのはあきらめてデッキに出ました。銅鑼の音と蛍の光が流れ出し(天賞堂の模型は当時の銅鑼や蛍の光などの音が出ます)、船がゆっくりと岸壁を離れていきます。深夜の海は不気味なところがありますが、暗い海に映る青森港の灯がゆらめいて、これから津軽海峡を渡るんだ、という気分になりました。「飢餓海峡」の最後のシーンは昼間の連絡船だったことを思い出しました。

函館港に着くときもデッキに出ていました。本州の暑さがなくなっていました。そこでわかったのは、離岸時より着岸時のほうがデッキにいると面白い、ということでした。青函連絡船にはバウ(船首)スラスターという横向きの動力装置(プロペラ)がブリッジ下の船底近くに付いていました。上の模型をアップで写します。

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出港時は係員が綱をはずしたら、主動力(船尾のスクリュー)とバウスラスターだけで離岸できたようですが、それは出港する方向に向きを変えて着岸しているからです。そもそも連絡船は船尾と鉄道岸壁の可動橋をつないで、車両を出入りさせなければならないわけですから、出港する方向に着岸しています。これは普通の横付けとは違って、とてもむずかしそうです。

着岸時には港内で進行方向を逆転させるため、船尾を押す大型のタグボート(補助汽船と呼んでいました)の助けが必要になります。このタグボートとのやりとりがとても楽しいのです。連絡船が着岸体勢に入ると、待っていたタグボートが船尾の横にやってきます。ブリッジから専用の外向きの拡声器でタグボートに指示を与えるのがデッキでよく聞こえます。たとえば、「○○丸、スローで押せ」と言うと、タグボートは短い汽笛で応答して、ゆっくりと押し始めます。こういう作業が繰り返されて、最後に「○○丸、ごくろうさま」という言葉で終わり、タグボートも汽笛を鳴らして離れていきます。

この光景を見たくて、連絡船の着岸時にはデッキに出るようになりました。たいていの場合はスッと着岸していましたが、岸壁にぶつかってバウンドする時もありました。事情を聞くと、風が強いときはとても微妙な作業だそうです。冬でもデッキに出ました。どうせ船から出る時は寒いので、それが10分ほど長くなるだけですし、それに、冬場の船内も乗り継ぎ列車内も暖房は豪勢なので、デッキが寒くても、かえって爽やかです。

昼間便だけだったかもしれませんが、函館到着間近になると、北島三郎の「函館の女(ひと)」が船内に流れました。そして、いつの頃からか、青森出港後に石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が流れ出していました。1977年の新譜なので、もちろん、それ以降ですね。昼間の連絡船も、仏ヶ浦を眺めたり、函館山を眺めたりで、楽しいものでした。

一度だけ、自動車航送をしたことがあります。1976年の夏、前年から住みだした神戸から軽自動車で観光をしながら、札幌まで往復しました。行きは下北半島の先端・大間から函館まで小さなフェリーに乗りましたが、帰りは青函連絡船に乗ってみたくなりました。その時のメモと写真が残っていました。

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久しぶりの摩周丸でした。

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こんなオープンのデッキに駐車していて、航海中も出入り自由です。

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気になったこともありました。函館発の深夜便でした。私がグリーン席に座っている横で、いかにも新婚旅行という姿の二人が係員に席の場所を聞いています。係員が指定席券を調べていて、「あれ、これは昨日の便ですよ。」と言っています。

深夜便は0時過ぎの出港です。つまり、乗ってきた列車の翌日に日付が変わります。日付が変わる乗り継ぎは青函連絡船だけだったかもしれません。駅で特急券や指定席券などを購入するとき、申込用紙に記入させられますが、乗り継ぎ連絡船を同じ日付にしてしまう間違いがよく起こります。

すでにマルスというコンピュータによる指定席券の予約システムが使われていて、乗り継ぎ列車は発券されるものの、連絡船の指定席は別の入力だったような気がします。

京都の鉄道博物館に当時のマルス104が展示されています。

左は列車名の活字棒を入れた箱、中央は印刷機、右は操作盤です。活字棒を印刷機に差し込んで、指定券を印刷していました。活字棒の箱には「青函」も入っていました。「北斗」は道内の特急として当時から走っていました。

マルスを置いていない駅の発券だったのかもしれません。発券担当の駅員が旅程を確認するはずですが、どうだったのでしょうか。新婚さんは黙って普通座席に移っていきました。

青函連絡船廃止は札幌在住時代の1988年(昭和63年)3月です。廃止の数年前から、出張に飛行機が使えるようになり、札幌から東京・大阪へは飛行機で行くようになりました。

そして、青函連絡船が廃止されると同時に、札幌駅に「上野」という発車標(行き先表示)が出るようになりました。青函トンネルの開通と寝台特急「北斗星」の登場です。そして翌89年、札幌駅で待望の「大阪」の表示を見ることができました。寝台特急「トワイライトエクスプレス」の登場です。

これら2つの寝台特急は、時間の余裕があるときに利用していました。乗り換えのない寝台列車の旅は楽でした。それも、1990年代の中頃からは、年齢が上がったせいでしょうが、揺れる車内泊は疲れること、時間の余裕がなくなったこと、そして、出張で長距離の鉄道が使えなくなったこと、などが重なって、忘れた存在になってしまいました。

時として、札幌駅から新千歳空港駅までJRに乗るとき、札幌駅に停車している北斗星やトワイライトエクスプレスと出会うことがありましたが、その時だけはなつかしく感じました。今はもう、どちらの列車も走っていません。上野行きのカシオペアや臨時列車はまだ走っているようですが、札幌駅から「大阪」という発車標は消えたようです。