菅原伝授手習鑑

4月24日、四月の文楽公演に行き、午前から始まる第1部の菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)を観てきました。午後の第2部のメインは曾根崎心中なので、好みはそちらなのですが、第1部では豊竹呂太夫(英太夫から)の襲名披露口上もあり、今回は華やかそうなところも見たい、という気分でした。

始まりは寿柱立万歳(ことぶきばしらだてまんざい)で、江戸時代らしい数え歌が特徴的でした。

メインの菅原伝授手習鑑は有名な演目ですが、初めての鑑賞です。今回は関係の深い場所が近所にあるので、チケットを予約してからの事前勉強として、4月初旬にあらためて訪ねました。守口市佐太中町の佐太天神宮です。

この鳥居が向いているのは淀川です。

正面に高くなっているのが淀川左岸の堤防で、手前の道路は国道1号線です。明治までは京街道の道筋でした。

このあたりは菅原道真の荘園だったそうで、「佐太」という地名は、道真が太宰府に流される途中、ここで、戻ってよし、という「沙汰」が来るのを期待して待っていたためという話があります。でも、菅公以前から佐太郷の地名はあったそうで、この話は作りもののようです。道真の死後50年くらいに最初の社が建てられたとされています。

本殿です。桜の季節でしたが、桜は裏で1本見ただけです。

境内も駐車場もけっこう広く、この日は閑散としていましたが、初詣に来たときはクルマの列が長く、あきらめたことがあります。

チェックポイント、白太夫社です。本殿のすぐ横にあります。

調べてみると、白太夫(はくだゆう)は菅原道真の幼少時からの守役だった渡會春彦(わたらいはるひこ)という伊勢神宮の神官だそうで、若い頃から白髪だったとのことです。白太夫社はたいていの天満宮に置かれているようです。

道真が太宰府に左遷されたとき、京に残った白太夫に愛蔵の梅と松と桜の世話を託しましたが、桜は悲しみに枯れ、松と梅は太宰府を目指して飛んだものの、松は途中(現・神戸市の板宿八幡神社あたり)で力尽き、梅だけが太宰府にやってきたという伝説があります。このあたりの伝説が浄瑠璃に脚色されて取り入れられているようです。

道真が亡くなって800年後に書かれた菅原伝授手習鑑では、佐太の荘園で働いていた農夫の四郎九郎が菅丞相(かんしょうじょう:菅原道真の浄瑠璃での名前)から、70歳になったら「白太夫(しろだゆう)」と名乗るようにと言われたことになっています。四郎九郎(白黒)から「白」になるわけですね。

この日、佐太天神宮では、一羽のウグイスがよく鳴いていました。音が出ます。

今回の公演では、前半部は省略されていて、佐太村での話、「茶筅酒(ちゃせんざけ)の段」から始まりました。四郎九郎が70歳になって白太夫を名乗ることになる場面です。庭には梅、松、桜があります。京ではなく、佐太村の農家が舞台です。

白太夫には三つ子(梅王丸、松王丸、桜丸)がいて、それぞれ菅丞相、仇敵の藤原時平(しへい)、斎世親王の牛車の舎人となって働いています。浄瑠璃らしい面白い設定です。
もちろん、佐太天神宮にも臥牛がまつられています。

しかも、牛社は2つありました。

白太夫の古希の祝いの席に桜丸(人形:吉田簑助)の妻・八重(吉田簑二郎)が京から早々に到着して、「淀堤から三十石の飛び乗り」なんて、落語「三十石夢乃通路」を連想させるセリフが笑わせてくれました。年代から言えば、浄瑠璃が先なんでしょうが、初期の床本のセリフかどうかはわかりません。いずれにせよ、三十石船は江戸時代からなので、お約束の「現代版」になっています。

それに、嫁たちの名前が、松王丸(吉田玉男)の千代(桐竹勘十郎)、梅王丸(吉田幸助)の春(吉田一輔)、なんていうのも笑ってしまいます。

「喧嘩の段」では、梅王丸と松王丸が現れ、喧嘩して、桜を折ってしまいます。桜が枯れたことに対応しているようです。「訴訟の段」では、仇敵に仕える松王丸の勘当が許されますが、後に驚愕の結末が待っています。

「桜丸切腹の段」では、菅丞相の左遷の原因を作ったこと(省略されていた前半で、斎世親王と丞相の養女・苅屋姫の密会発覚)で、桜丸が切腹してしまいます。白太夫は仕方がないという判断です。農家の息子の舎人が切腹というのは不条理ですが、江戸期の庶民を泣かせるには効果的だったのでしょうね。

ここで、いったん休憩となりました。休憩中に後ろで少し拍手が聞こえたので、何だろうな、と見てみたら、吉村・大阪市長が観劇に入って来ていました。前市長と文楽協会とはいろいろありましたが、今はどうなのかな。

休憩後に、豊竹呂太夫の襲名披露口上があり、先輩の豊竹咲太夫、三味線の鶴澤清治、(少し若いけれど)同輩の桐竹勘十郎による披露口上がありました。いずれも、呂太夫へのツッコミと暴露話が多く出て、大阪らしい楽しさの披露口上でした。

「寺入りの段」、「寺子屋の段」がこの浄瑠璃のハイライトなんでしょうか。菅丞相の仇敵・藤原時平に仕えていた松王丸夫婦が息子を菅丞相の息子・菅秀才の身代わりとして殺させるという設定です。かなりショッキングな話で、ちょっと行き過ぎの感を受けました。でもまあ、重要人物の影武者を幼少の頃から使うというのは近世までの常識だったのかもしれません。

もう一段、菅丞相が亡くなってからの天変地異などの場面「大内天変の段」は省略されて、終演となりました。

観劇後の気分は、襲名披露口上以外、華やかな筋書きではありませんでしたが、有名なだけあって、よく作り込んだ作品だな、というもので、納得していました。

今回は事前に佐太天神宮を訪ねたものの、床本を読んでおくという準備はしませんでした。しかし、そのことにより、寺入りの段から寺子屋の段に至るストーリーを驚きながら観ることができました。床本の事前勉強というのは、むしろ劇の面白さを失わせることでもあり、初心者にとってはむずかしい問題です。今回は成功したようです。

まあ、浄瑠璃の具体的な筋書きを知らなくても、人形遣いの知名度の順番で重要な役がわかりますので、配役の誰に注目するかは決まってしまいます。今回なら、玉男の松王丸、勘十郎の千代という夫婦の動きを中心に観ることになります。何度も観るようになると、太夫、三味線、人形遣いの深みを判断できるのでしょうね。

それにしても、没後1100年になっても、道真人気は大したものです。日本各地に天満宮があります。全国天満宮梅風会という天満宮の団体があり、そのHPには全国に12,000社ほどあると書かれています。北野天神縁起や菅丞相物語などの絵巻物を眺めていると、平安後期か鎌倉時代には学問の神様にもなったようですが、昌泰の変(901年)の後、左遷された地で亡くなった後の天変地異が怨霊の仕業として怖がられて、天神(雷神)としてまつられ、正一位・太政大臣まで贈られたという経緯を考えると、なかなかの怪奇伝説と言えます。天皇への祟りをもたらしたというのが大きいのでしょうね。祟りなどという思考経路は現代では廃れて、普段は大阪の天神祭を楽しく拝見するくらいですけど。