菅原伝授手習鑑

4月24日、四月の文楽公演に行き、午前から始まる第1部の菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)を観てきました。午後の第2部のメインは曾根崎心中なので、好みはそちらなのですが、第1部では豊竹呂太夫(英太夫から)の襲名披露口上もあり、今回は華やかそうなところも見たい、という気分でした。

始まりは寿柱立万歳(ことぶきばしらだてまんざい)で、江戸時代らしい数え歌が特徴的でした。

メインの菅原伝授手習鑑は有名な演目ですが、初めての鑑賞です。今回は関係の深い場所が近所にあるので、チケットを予約してからの事前勉強として、4月初旬にあらためて訪ねました。守口市佐太中町の佐太天神宮です。

この鳥居が向いているのは淀川です。

正面に高くなっているのが淀川左岸の堤防で、手前の道路は国道1号線です。明治までは京街道の道筋でした。

このあたりは菅原道真の荘園だったそうで、「佐太」という地名は、道真が太宰府に流される途中、ここで、戻ってよし、という「沙汰」が来るのを期待して待っていたためという話があります。でも、菅公以前から佐太郷の地名はあったそうで、この話は作りもののようです。道真の死後50年くらいに最初の社が建てられたとされています。

本殿です。桜の季節でしたが、桜は裏で1本見ただけです。

境内も駐車場もけっこう広く、この日は閑散としていましたが、初詣に来たときはクルマの列が長く、あきらめたことがあります。

チェックポイント、白太夫社です。本殿のすぐ横にあります。

調べてみると、白太夫(はくだゆう)は菅原道真の幼少時からの守役だった渡會春彦(わたらいはるひこ)という伊勢神宮の神官だそうで、若い頃から白髪だったとのことです。白太夫社はたいていの天満宮に置かれているようです。

道真が太宰府に左遷されたとき、京に残った白太夫に愛蔵の梅と松と桜の世話を託しましたが、桜は悲しみに枯れ、松と梅は太宰府を目指して飛んだものの、松は途中(現・神戸市の板宿八幡神社あたり)で力尽き、梅だけが太宰府にやってきたという伝説があります。このあたりの伝説が浄瑠璃に脚色されて取り入れられているようです。

道真が亡くなって800年後に書かれた菅原伝授手習鑑では、佐太の荘園で働いていた農夫の四郎九郎が菅丞相(かんしょうじょう:菅原道真の浄瑠璃での名前)から、70歳になったら「白太夫(しろだゆう)」と名乗るようにと言われたことになっています。四郎九郎(白黒)から「白」になるわけですね。

この日、佐太天神宮では、一羽のウグイスがよく鳴いていました。音が出ます。

今回の公演では、前半部は省略されていて、佐太村での話、「茶筅酒(ちゃせんざけ)の段」から始まりました。四郎九郎が70歳になって白太夫を名乗ることになる場面です。庭には梅、松、桜があります。京ではなく、佐太村の農家が舞台です。

白太夫には三つ子(梅王丸、松王丸、桜丸)がいて、それぞれ菅丞相、仇敵の藤原時平(しへい)、斎世親王の牛車の舎人となって働いています。浄瑠璃らしい面白い設定です。
もちろん、佐太天神宮にも臥牛がまつられています。

しかも、牛社は2つありました。

白太夫の古希の祝いの席に桜丸(人形:吉田簑助)の妻・八重(吉田簑二郎)が京から早々に到着して、「淀堤から三十石の飛び乗り」なんて、落語「三十石夢乃通路」を連想させるセリフが笑わせてくれました。年代から言えば、浄瑠璃が先なんでしょうが、初期の床本のセリフかどうかはわかりません。いずれにせよ、三十石船は江戸時代からなので、お約束の「現代版」になっています。

それに、嫁たちの名前が、松王丸(吉田玉男)の千代(桐竹勘十郎)、梅王丸(吉田幸助)の春(吉田一輔)、なんていうのも笑ってしまいます。

「喧嘩の段」では、梅王丸と松王丸が現れ、喧嘩して、桜を折ってしまいます。桜が枯れたことに対応しているようです。「訴訟の段」では、仇敵に仕える松王丸の勘当が許されますが、後に驚愕の結末が待っています。

「桜丸切腹の段」では、菅丞相の左遷の原因を作ったこと(省略されていた前半で、斎世親王と丞相の養女・苅屋姫の密会発覚)で、桜丸が切腹してしまいます。白太夫は仕方がないという判断です。農家の息子の舎人が切腹というのは不条理ですが、江戸期の庶民を泣かせるには効果的だったのでしょうね。

ここで、いったん休憩となりました。休憩中に後ろで少し拍手が聞こえたので、何だろうな、と見てみたら、吉村・大阪市長が観劇に入って来ていました。前市長と文楽協会とはいろいろありましたが、今はどうなのかな。

休憩後に、豊竹呂太夫の襲名披露口上があり、先輩の豊竹咲太夫、三味線の鶴澤清治、(少し若いけれど)同輩の桐竹勘十郎による披露口上がありました。いずれも、呂太夫へのツッコミと暴露話が多く出て、大阪らしい楽しさの披露口上でした。

「寺入りの段」、「寺子屋の段」がこの浄瑠璃のハイライトなんでしょうか。菅丞相の仇敵・藤原時平に仕えていた松王丸夫婦が息子を菅丞相の息子・菅秀才の身代わりとして殺させるという設定です。かなりショッキングな話で、ちょっと行き過ぎの感を受けました。でもまあ、重要人物の影武者を幼少の頃から使うというのは近世までの常識だったのかもしれません。

もう一段、菅丞相が亡くなってからの天変地異などの場面「大内天変の段」は省略されて、終演となりました。

観劇後の気分は、襲名披露口上以外、華やかな筋書きではありませんでしたが、有名なだけあって、よく作り込んだ作品だな、というもので、納得していました。

今回は事前に佐太天神宮を訪ねたものの、床本を読んでおくという準備はしませんでした。しかし、そのことにより、寺入りの段から寺子屋の段に至るストーリーを驚きながら観ることができました。床本の事前勉強というのは、むしろ劇の面白さを失わせることでもあり、初心者にとってはむずかしい問題です。今回は成功したようです。

まあ、浄瑠璃の具体的な筋書きを知らなくても、人形遣いの知名度の順番で重要な役がわかりますので、配役の誰に注目するかは決まってしまいます。今回なら、玉男の松王丸、勘十郎の千代という夫婦の動きを中心に観ることになります。何度も観るようになると、太夫、三味線、人形遣いの深みを判断できるのでしょうね。

それにしても、没後1100年になっても、道真人気は大したものです。日本各地に天満宮があります。全国天満宮梅風会という天満宮の団体があり、そのHPには全国に12,000社ほどあると書かれています。北野天神縁起や菅丞相物語などの絵巻物を眺めていると、平安後期か鎌倉時代には学問の神様にもなったようですが、昌泰の変(901年)の後、左遷された地で亡くなった後の天変地異が怨霊の仕業として怖がられて、天神(雷神)としてまつられ、正一位・太政大臣まで贈られたという経緯を考えると、なかなかの怪奇伝説と言えます。天皇への祟りをもたらしたというのが大きいのでしょうね。祟りなどという思考経路は現代では廃れて、普段は大阪の天神祭を楽しく拝見するくらいですけど。

文楽研修修了発表会

1月28日、文楽劇場の文楽研修生の修了発表会(入場無料)を観に行きました。第27期だそうです。

先日の染模様妹背門松が始まる前に、ロビーに置かれたパンフレットに気づきました。研修生募集の案内はよく見かけましたが、実態は知らなかったので、いい機会でした。昨年の発表会はウィークデイで小ホール(150席ほど)だったそうですが、今年は土曜日で本舞台の文楽劇場(730席)です。

演目は、「万才」、素浄瑠璃「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」、「本朝廿四孝(十種香の段)」となっています。パンフレットを読むと、修了する研修生は3人のみで、他の演者は若手の太夫と三味線、人形ですが、ベテランも入っています。これが無料というのが不思議なくらい、なかなか豪華です。

開演1時間前には長い行列ができていました。場内は染模様妹背門松の時より多いくらいの観客でした。無料で配られた冊子も立派なものです。

冊子には、床本、出演者の紹介、修了研修生の紹介、研修内容、過去の研修生一覧などが丁寧に説明されています。

今年の修了生は、一人が語り、二人が人形となっています。
「万才」では、語りの修了生が床上の末席で、裃は着けていません。人形の二人とも足の担当ですが、黒衣衣装でも黒頭巾なしです。でも、とても力が入った動きでした。修了生の素浄瑠璃「一谷嫩軍記」は、よくがんばった!という感じでした。最後の「本朝廿四孝」では、竹本津駒太夫の語り、鶴澤清志郞の三味線という贅沢な組み合わせで、最後にほんのちょっぴりですが、修了生がそれぞれ人形の主遣いを担当させてもらっていました。

冊子によると、伝統芸能の研修制度は昭和45年に歌舞伎で始まり、文楽は昭和47年から、その後は寄席囃子などもできているようですね。

幕間の休憩時間に案内係の人に話を聞きました。
10人近くの研修生が入った年もあったそうですが、今回は5人が入って3人が研修期間2年を終えて修了まで進んだそうです。文楽劇場の研修は一種の職業訓練校ですが、文楽の世界で生きる気持ちが相当に強くないと大変でしょうね。

研修に入る段階で希望の道(語り、三味線、人形)を選ぶそうですが、途中で道を変更することもあるようです。今日も出演していた三味線の鶴澤清志郞は人形遣いを目指していたらしいです。別の才能の開花というわけですね。研修が終わると、技芸員になり、師匠の元で修業を重ねていくわけです。

一番面白かったのは、後ろの席に座っていた若い女性二人の会話でした。休憩時間になると、ひっきりなしに内部情報に関する会話が聞こえてきます。どういう人たちかはわかりませんが、とても「通」で、今回の研修修了生のこともよく知っているようです。その会話の中で、「師匠を選ぶのも芸のうちよね」というセリフが出てきて、思わず「なるほど」と、うなづいてしまいました。

毎年、観に来たい催しでした。

 

染模様妹背門松

2017年2月4日

1月23日、文楽劇場新春公演の「染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)」を観てきました。お染久松の心中話は昔から知っていましたが、人形浄瑠璃として三作もあるとは知りませんでした。

お染久松と言えば「野崎村」という短絡連想で、切符を予約した11月下旬に初めて野崎観音(慈眼寺)を訪ねました。

ウィークデイの夕方という時間帯で誰もいませんでした。
お染久松の墓があります。

誰もいない茶店風の床几の上に猫が数匹ゆっくり休んでいました。

この2匹が親子かどうかはわかりません。この子猫は他の猫にも受け入れられているようで、すべて同系統の雰囲気がありました。門の前にもいます。左側の灯籠の下です。

後で調べたら、お染久松を題材にした浄瑠璃は、最初が紀海音による「お染久松袂の白しぼり(おそめひさまつたもとのしらしぼり)」で1710年、二作目が今回観た菅専助による「染模様妹背門松」で1767年、三作目が近松半二による「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」で1780年となっています。1710年には歌舞伎でも上演されているそうです。

事件の真相はよくわかりませんでした。1710年の正月に大坂の油問屋・質店の娘・染と野崎村出身の奉公人・久松との道ならぬ恋の情死があったのは事実のようですが、詳しいことは分からず、文化デジタルライブラリーには、当時の尾張藩士の日記に「主人の娘そめと主の油細工所にて心中刃死」とある、とのことが同時代記録として最も信憑性が高い、という程度でした。

染模様妹背門松には野崎が出てきません。すべて大坂の油店・質店での場面です。ちょっと残念でした。それに、空席が目立ちました。後ろのほうはあまり座っていない状態でした。たぶん、もう新春公演も終わる時期だし、午前から始まる第一部が楽しそうで、そちらが中心になったのでしょうね。

「油店の段」は序章らしい構成でした。この段はチャリ場と呼ばれているそうで、太夫が即興?で最近の話題を取り入れながら、おもしろおかしく語ります。まあ、PPAPとか、広島-阪神とか、あまり旬とは言えないな、という話題もありましたけど。

それより、善六という悪玉の人形を操る桐竹勘十郎のなかなかの役者振りの顔を見ているのが楽しいものでした。吉田簑助、吉田玉男、桐竹勘十郎らのベテランが登場するとかなりの拍手が湧きます。でも、太夫がくるりと回って出て来た時や、担当が終わった時の拍手はいい感じですが、悪役の人形が登場してきて拍手というのは合わない気はします。

最後の「蔵前の段」は原作では心中に進む舞台です。しかし、今回の公演では、昭和35年に三味線の野澤松之輔(多才な人だったそうです)が改変した結末すなわち、蔵の内外で縊死するのではなく、蔵の鍵が開けられて、二人が逃げていくという話になっています。これは新春公演で心中物を上演することによる選択なのでしょうが、どんなものでしょうね。

お染久松は16歳くらいとされています。今なら高校2年生です。浄瑠璃を聴きながら、宮本輝の「夢見通りの人々」を思い出していました。夢見通りの人々では、同じ年頃の哲太郎と理恵による「道ならぬ?」恋の道行がありますが、さすがに現代の結末は心中などにはならず、理恵のなかなか見事な処世の姿が描かれています。

逃避行に改変されたお染久松の行く末はどうなるのでしょうか。

妹背山婦女庭訓

とても見応えのある、楽しい演目でした。でも、ちょっぴり文句も・・・。

文楽劇場4月公演は「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の通し狂言で、第一部(午前11時開始)と第二部(午後4時開始)に分かれています。もちろん、観たことはありませんが、数年前に自炊本、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談集「日本人と日本文化(中公新書 1972)」を読み返していて、キーンがシーボルトの妹背山婦女庭訓の観劇後日談について語っている部分で、キーンの博識に感心したこと、シーボルトが帰国後にオペラにしたいと思った演目はどんな内容なのかが気になったこと、などは覚えていました。

ということで、がんばって通しで観ることにしましたが、体力と日常生活に差し障りがあるので、4月19日に第一部を、20日に第二部を観ました。文楽劇場へは地下鉄乗り継ぎで行きます。谷町線から堺筋線に乗り換え、文楽劇場のある日本橋に間もなく到着というとき、相互乗り入れ阪急電車の車内表示がとても見やすいことに気がついて、つい写真を撮りました。配色とフォントの選び方が上手ですねえ、

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今回の公演のチラシは2枚ありました。

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予習としては、岩波の人形浄瑠璃集を読みましたが、「山の段」しか載っていなかったので、舞台の上に出る字幕表示を読むことにしました。いつも通り、ミニ床本付きの解説書も買いましたが、間に合いません。

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座席はいつも床(ゆか:太夫と三味線の座るところ)に近い上手ブロックの中央寄りの席を選ぶようにしています。太夫の声と三味線が迫力を持って聞こえますし、人形がよく見えます。今回は予約が遅くなって、19日の第一部は11列目になりました。11列目は人形が小さくなって、少し遠い気分でした。20日の第二部は6列目で、これはちょうどいい、あるいはもうちょっと近くでもいい、という好みです。

妹背山婦女庭訓は近松半二らの合作で、1771年に竹本座で初演だそうですが、蘇我入鹿が出生からの怪物で悪役になっていて、天智天皇を排斥して玉座に着き、悪政を働くのを打倒する物語になっていますので、頃は飛鳥時代です。なかなか大胆な設定です。

第一部(小松原、蝦夷子館、猿沢池、太宰館、妹山背山)は、蘇我入鹿の台頭と、天智帝を擁護する人たちの苦難の始まりを描いていますが、やはり山の段(妹山背山)がハイライトですね。その前の太宰館が終わって休憩していたら、これまでの観劇では気がつかなかった下手にも床があり、そこに見台と三味線が並べられました。もちろん、上手の床にも並べられています。おお、これはステレオだ、と気がつきました。知らなかったけれど、とても面白い趣向です。この段は中央の座席が最高なのですね。山の段の舞台の模型が展示室に置いてありました。

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山の段は吉野川(紀ノ川)をはさんで、相思相愛の久我之助(こがのすけ)が上手・背山で切腹、雛鳥(ひなとり)が下手・妹山で首を切られるわけですが、左右の床の掛け合い、桐竹勘十郎の久我之助、吉田玉男の大判事清澄(久我之助の父)、吉田簑助の雛鳥、吉田和生の定高(雛鳥の母)という豪華な組み合わせで、三味線と語りに合わせた人形の動きがすばらしいものでした。

紀ノ川に行ったとき、上流から妹山(左側)と背山(右側)を写しました。川幅はけっこうあります。

飛鳥時代に切腹はあり得ない、なんてこととは別に、背山で久我之助が刃を腹に突き刺してから、妹山で雛鳥の切望で母親に首を切られ、その首が川を越えて目の前に置かれて父親に介錯されるまで、文楽の決まり事とは言え、とても長かったので、久我之助はさぞや苦しかろうと考えていました。

山の段ではウグイスの鳴き声が時々聞こえてきます。それで驚いたのは、囃子方のウグイス笛の吹き方が「ホー・ホケキョ」ではなく、「ケ」が一つ多い、幼鳥風の「ホー・ホケケキョ」だったことです。淀川でよく聴いている鳴き方です。

2日目に観た第二部(鹿殺し、掛乞、万歳、芝六忠義、杉酒屋、道行恋苧環、鱶七上使、姫戻り、金殿)では、猟師芝六を吉田玉男、お三輪を桐竹勘十郎が担当です。同じ公演の中で、人形の男と女の所作を遣い分けるというのは、当たり前なのかもしれませんが、熟達とはすごいものですね。玉男さんが女(玉女)から男になったのは最近でした。

芝六忠義の段では、三味線で驚きました。竹澤宗助が弾く低音弦のスローな調子がまるでブルースでした。

道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)が彩りを添えています。杉酒屋の娘・お三輪と入鹿の妹・橘姫が苧環を使って男(求馬)に恋の糸をつなげます。なかなか情感のある楽しい場面ですが、どうも世話物(心中物)の道行のような悲痛さ・理不尽さの奥行きがないのが趣味としてはちょっと物足りない気分でした。

姫戻りの段あたりからクライマックスが始まります。宮殿に戻った橘姫が愛しの求馬から、兄の入鹿が盗んだ剣を取り戻したら夫婦になると言われて、喜んで、取り戻しに行きます。最後、金殿の段では、お三輪が宮殿で求馬を探しているうちに、女官たちに弄ばれ、嫉妬と辱めを受けて逆上した状態で鱶七に刺されます。鱶七から、求馬が鎌足の息子・淡海であることを知らされ、入鹿を征伐するためには、爪黒の鹿の血と、疑着(=疑って、それに固執、執着すること<日本国語大辞典>)の相ある女の生き血を使う必要があることを聞いて、喜悦の最後となります。なかなか複雑な気持ちの変化をもたらす場面でした。

これで終幕になるのですが、えー!、これで終わるの?と、びっくりしました。蘇我入鹿を討ってしまう場面がなければ、多くの人たちが犠牲になりながら続いてきた話のエンディングが、鱶七によるお三輪への説明だけとなり、終幕の解放感が得られません。

後で調べてみたら、オリジナルの五段の内容から、かなり省略されていたようです。購入した解説書付属のミニ床本も省略したバージョンでした。図書館で借りた「新編 日本古典文学全集77 浄瑠璃集」によると、四段目の「金殿」には、蘇我入鹿を討つ場面が続いていて、五段目では都を志賀に移し、忠臣たちへの恩賞、久我之助と雛鳥の供養などがあります。

解説書の「鑑賞ガイド」には、「通し狂言としては、初段から順を追って上演する形もありますが、今回は第一部を初段と三段目、・・・略・・・、第二部では蘇我入鹿打倒に動く人々を描いた二段目、四段目を取り上げ、本作の中の二つの大きな流れをそれぞれお楽しみいただく趣向としました。」とあります。

見せ場的に取捨選択しているようですが、大きな流れの劇の結末を省略されてしまうと、完全通し狂言を観たことがある人はともかく、初めて鑑賞する立場としては中途半端な気持ちのまま劇場を去らなくてはなりません。以前に、玉藻前でも省略があって、話の流れについていくのが大変なところがありました。もちろん、完全通し狂言となると10時間以上かかるのかもしれませんが、それでも今回は延べ8時間近くある二部仕立てなので、もう少し構成の工夫をしてほしかった気がします。

今回の演目は確かに、シーボルトがオペラにしたいと思ったのがわかるくらい、語り、三味線、人形、囃子、大道具すべてで楽しませてくれました。でも、帰宅するときの気持ちは落ち着きませんでした。

PS その後、DVDを借りて、「入鹿誅伐の段」を観ました。20分足らずですが、やはり、この段があるのとないのとは大違いです。文楽劇場で観てから1カ月以上経ちましたが、やっと気持ちがすっきりしました。

 

国性爺合戦

1月18日、昨日の京都観世会に続いて、大阪文楽劇場で「国性爺合戦」を観てきました。

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連日の観劇はしんどいのですが、昨年末、観世会例会の日程を確認せずに、文楽劇場のネット予約で席選びをしていて、いい席を見つけて決めたら、それが18日だったという始末です。
午後4時開演なので、淀川散歩はお昼になりました。雨上がりです。

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今回は自炊してあった岩波の日本古典文学大系「近松浄瑠璃集 下」を読んでから出かけました。一夜漬けならぬ、「朝」漬けです。
一応、解説書も買いました。

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浄瑠璃本を読んでから観ると、どこが省略されているかがわかって、ちょっと落ち着かない気持ちになるものだとわかりました。玉藻前でもそうでしたが、全般的な知識がないので、個別の演目についてのみに注意が集中してしまいます。
予習したことによる、もう一つの効果は、舞台の上にあるスクリーンに出る本文を時々読みながら観劇していると、当たり前のことでしょうが、300年前の原典通りに床本が書かれていて、それを太夫が語っていて、それを観客の我々が理解して楽しんでいる、という世界にあらためて驚きを感じたことです。
これは、さらに古い歴史のある能でも同じですが、伝統芸能の伝承世界に感心するだけではなく、現在の観客が数百年前と同じような舞台の前にいて、同じように楽しんでいることへの素直な驚きです。

さて、「国性爺合戦」は、ちょうど300年前(1715年)、竹本義太夫亡きあと、近松と竹田出雲のコンビでロングラン公演を果たして有名です。日本に亡命した中国人を父に、日本 人を母に持ち、日本生まれ・育ちの和唐内(わとうない:和でも唐でもナイ)が中国に渡って大活躍するストーリーで、かなり脚色しているとは言え、「国姓爺」の史実に基づいているので、 当時の庶民にとってワクワクするものになったのでしょう。日本に関係した人が国際的に活躍すると現代でも話題になりますし、和唐内はハーフですし、でもまあ、現代人から見れば、ナショナリズムの昂揚と言うほどではありません。

結論を言えば、観ていて楽しいものではありましたが、観劇後に感情の余韻はありませんでした。これはストーリーと和唐内のスーパーマンぶりの問題でしょうね。観劇後、ドナルド・キーン著作集(第6巻 能・文楽・歌舞伎)の序文を読んでいたら、彼の博士学位論文のテーマが国性爺合戦だったそうで、彼も感情移入ができなかったと書いていて、やっぱりね、と思いました。

一番興味を持ったのは、和唐内の人形です。歌舞伎の見得(みえ)をきる、という寄り眼をします。これは珍しいものではありませんが、はたして、こういう仕掛けがいつ頃からできたのかに興味を覚えました。

人形の頭には胴串という棒が付いていて、その後ろに「小ザル」と呼ぶ、指で動かすレバーがあります。こういう仕掛けの中には、玉藻前が狐に変わるようなものもあります。子供の頃に観ていた「ひょっこりひょうたん島」という人形劇で、パトラ・ペラ・ルナという3人の魔女が出てきますが、突然に怖い顔に変わるのを見て、驚き感心していました。

調べてみると、正保(1645~1648)・慶安(1648~1651)ころに、人形の首が動くようになったようです。それまでは頭と胴は一体で、くるくると回す程度だったそうです。今でも脇役は一人使いで、同様の構造のようです。享保(1716~1735)ころには胴串に小ザルが付いた絵がありますが、目玉を動かすような仕掛けはなさそうです。

ということは、近松が国性爺合戦を書いて大人気となった当初は、見得をきる仕草などは無理だったのでしょうね。こういう仕掛けを開発しつつ、歌舞伎と文楽で相互に所作・仕掛を取り入れてきた歴史も含めて、伝統芸能というわけでしょうか。

玉藻前曦袂

2015年11月28日

11月18日、文楽劇場で玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)を観てきました。文楽を観に行ったのは正月の冥途の飛脚以来です。
人形浄瑠璃は学生時代に朝日座で数回観ただけでしたが、世話物(近松の心中物)が好きで、大阪に戻ってから、曽根崎心中、心中天網島、冥途の飛脚と続けて観ることができて喜んでいます。時代物はあまり食指が動かず、ほとんど観ていませんでしたが、今回の玉藻前曦袂はぜひとも観たかった演目でした。曦袂(旭袂)というのは詳しくは知りませんが、竹田出雲作の大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)をもじっているのでしょうか。

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玉藻前伝説は妖怪好きにとって定番の物語です。ただ、狐好きにとっては、齢を重ねて、双尾や九尾になった狐は悪の世界を象徴していて、残念な気持ちでもあります。ごん狐くらいのイタズラであればともかく、百年とか千年を生きた狐は尾裂(おさき)になり、美女に変身して男(帝)をたぶらかすわけです。

でも、さすがに葛の葉(くずのは)あるいは信太妻(しのだづま)伝説の狐は安倍晴明を産んだとされるだけあって、若い雌狐だった説が多いようですね。異類婚姻譚にもさまざまあるようです。

学生時代から安倍晴明がらみの陰陽道は好みの話題でした。下の写真は高校時代によく訪れた信太森葛葉稲荷(しのだのもりくずのはいなり)神社(大阪府和泉市)です。10年ほど前に、札幌からの出張の帰りに、関空に向かう途中で久しぶりに訪ねてみました。今は住宅地の中になっていますが、私の記憶にある神社は田圃に囲まれていて、横に小さな集落があっただけでした。

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JR北信太駅の近くです。この近所では和泉五社の一つである式内社・聖(ひじり)神社(信太大明神)が葛の葉伝説の本地?として知られていると思います。まあ、昔はこのあたり全体が信太の森の地域だったのでしょう。

JR北信太駅も昔は葛葉稲荷停留場と呼ばれていたそうです。また、住吉大社のそばで生まれ育った私の母は、南海電鉄の高石町(現・高石)駅が葛葉駅だったと聞いたことがあると言っていました。

神木の大きな楠の前にいる狐です。葛の葉と名乗った狐はこの楠から生まれたという説もあります。昔は楠に葛が巻き付いていたのでしょうか。葛の葉が我が子(安倍晴明)に書き残したとされる有名な歌「こひしくばたずねきてみよ和泉なる・・・」については、折口信夫が「信太妻の話」で「なんだかテニヲハのあはぬ、よく世間にある狐の筆跡とひとつで、如何にも狐らしい歌である」と書いていますね。

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本題に戻ります。
京都大学電子図書館がネットで公開していた玉藻前の絵巻のディジタル画像は閲覧したことがありますが、文楽劇場での公演中、展示室にその実物がお披露目されていました。ネット上のディジタル画像よりも鮮やかで、とてもきれいな状態に見えました。江戸期の写本のようです。

この絵巻では、狐は九尾ではなく、双尾です。中国では昔から九尾だったようですが、日本で九尾になったのは江戸期以降だそうですね。中国からの伝わり方も興味深いところがあります。

玉藻前の狐では、「玉藻前草子(常在院本:室町期)」(妖怪絵巻:毎日新聞社 1978所収)の絵が一番好みで、ディスプレイのデスクトップ背景画像(兼スクリーンセーバー)コレクションの一枚です。双尾の先にあるカラー・リングがとてもオシャレです。この場面は討ち取られる寸前で、矢と槍が迫っています。

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さて、観劇後の感想は、こういう文楽もあるんだ、という、とても楽しいものでした。それは最後の化粧殺生石(けわいせっしょうせき)での七変化で、宝塚のレビュー(数度しか観たことはありませんが)のフィナーレのような華やかさがありました。音曲に合わせた桐竹勘十郎による人形遣いのメリハリの良さと言うべきでしょうか。

実は開演するまで、この演目自体の事前の知識はありませんでした。歌舞伎も知りません。開演前に買った解説書には筋書きが書かれていたし、ミニ床本も付いていて、カミさんは読んでから観ていました。

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いつもはそれなりに予習するのですが、今回は時間がなくて、浄瑠璃の筋書きを知らずに、でも玉藻前伝説は知っているという、生半可な知識のままで舞台が始まりました。これが推理小説を読んでいるような観劇経験になりました。以下はあらすじに沿った感想メモです。

いつもの抑えの利いた口上の東西声と拍子木で気分が高まります。清水寺の段が始まりました。最初から玉藻前伝説にはない、鳥羽天皇の兄・薄雲の皇子が謀反の企てを持っている話が出てきて、どういう絡みになっていくのか予想がつきません。次いで、皇子からの誘いを断っている藤原道春の娘・桂姫があらわれます。桂姫は陰陽師・安倍泰成(晴明の子孫でしょう)の弟・采女之助に恋慕していますが、采女之助はつれないようです。桂姫が玉藻になるのであれば、地位の低い若い男に恋しているというのは少し違うような気がします。

次の道春館(みちはるやかた)の段では、桂姫の妹・初花姫がいます。そこに、皇子の命を受けた鷲塚金藤次がやってきて、獅子王の剣か桂姫の首を渡せと問い詰めます。その中で、亡き道春の奥方・萩の方から、実は桂姫は捨て子であったことが明かされます。捨て子の話は玉藻前伝説にあるわけで、やはり、桂姫が玉藻になるのだと考えるしかありません。

剣はすでに皇子の手に渡っていて、二人の姫が双六遊びの勝負で討ち取られる役を決めてよいことになります。初花姫が桂姫のために負けることができた途端に、金藤次は桂姫の首を切ってしまいました。ありゃりゃ、です。頭が混乱してきました。

隠れていた采女之助に金藤次は討たれ、息を引き取る前に、首を切った桂姫が自分の娘であることを明かします。まあこれは、浄瑠璃でよくある、忠義で話をややこしくさせる手管だと思うのですが、それじゃ、道春の実子の初花姫が玉藻になるしかないではありませんか。桂姫は恋が成就せず、父親に首を切られるだけの出番となってしまいました。しかも、父親・金藤次を討ったのが恋慕する采女之助です。究極の悲劇のヒロインと言えそうです。

桂姫が首を切られた直後に、初花姫が歌合わせで詠んだ歌を帝が褒めたことから、玉藻前として入内することになりました。これは玉藻前伝説の一つですが、突然の展開でした。次は、初花姫が九尾の狐とどのように結びつくのかです。ただ、この段で妙に気になったのは、右大臣・道春の家中のみなさんが町人のような言葉遣いだったことです。世話物を観ている気持ちになりましたが、平安期の公卿の家中での会話がどのような言葉遣いだったのか知りませんので、よくわかりません。まあ、これが文楽らしさ、というものでしょう。

神泉苑の段で、九尾の狐はいずこからか宮中に入ってきて、初花姫あらため玉藻前を襲い、玉藻前になりすましました。ちょっと唐突ですが、そうならざるを得ないでしょうね。玉藻前は薄雲の皇子と魔界を作る密約をむすびます。続く、廊下の段では、玉藻前のモデルと言われる皇后・美福門院も出てきて、玉藻前の暗殺を首謀しますが、玉藻前の得意技、光り輝く姿にあっさり負けてしまいます。

玉藻前によって帝は病が重くなりますが、訴訟の段では、なぜか皇子の愛人で、江口の遊女・亀菊が出てきて、皇子の命令によって訴訟を取り仕切ります。こんなんでいいんですかねえ、という組み合わせです。続く祈りの段はややこしく、亀菊が陰陽師・安倍泰成の願いで玉藻前を裁き、玉藻前の弁解を受け入れるものの、泰成の希望で祈祷の幣取りは許します。亀菊は皇子の旧臣の娘だそうで、皇子の謀反を諫めますが、皇子に殺されます。このあたり、別の物語が絡んでいるのだろうな、と感じましたが、話についていくのが精一杯でした。

その後は、安倍泰成の仕事(祈祷や幣取りではなく、獅子王の剣を使うのがポイントでした)で九尾の狐は退散し、那須野に逃げて殺生石になるという、普通の筋書きになりました。那須野へは桐竹勘十郎と狐が宙を飛んでいきました。外連(けれん)の面白さです。

最後に置かれた化粧殺生石は景事(けいごと)と呼ぶそうですが、これも外連で、狐が殺生石の周辺で七変化していく舞台は、語り・三味線・人形・囃子が楽しく、九尾の狐が人をたぶらかすのではなく、無邪気にさまざまな男女に化けながら、一人遊びを楽しんでいるように見えました。観客も拍手の連続で、「守らせ給ふぞめでたけれ」で終わり、玉藻前のストーリーが大団円で終幕した印象になりました。こういう趣向はとても好みです。能会で最後にある附祝言のような感じです。

推理小説を楽しむ気分で観つつ、腑に落ちない箇所はありましたが、最後に気持ちは晴れやかになりました。このような解放感は心中物の観劇後の気分とは違うものでした。

後で調べると、やはり二つの話を結びつけて脚色している作品だそうですね。ただ、最初の数段(中国と天竺での話)と「十作住家(じっさくすみか)の段」などが省略されていたそうで、省略がなかったら、違った印象になったのかもしれません。次回は省略なしの全段ぶっとおしを期待しています。

玉藻前伝説を知らず、観劇前に解説書を読んでいたカミさんは、最初から終わりまですべてが楽しかった文楽は初めてだと喜んでおりました。次は新春の国性爺合戦です。これも観るのは初めてですが、近松は自炊本があるので予習します。

長くなったついでの話ですが、下の狐の面は、文楽劇場の売店に置いてあって、じゃりン子チエでテツがかぶっていたのとそっくりな気がして、安いのでつい買いました。後で比べたら、ちょっと絵が違いました。型押し加工した紙に和紙を一枚貼って絵付けしただけの簡易な造りです。鍛金練習のモデルにするかどうかは未定ですが、作るなら、アルミでしょうか。でも、白面金毛九尾の狐だったら、銅に錫張りか真鍮かも。

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