京街道2:守口-枚方

2022年4月12日

2回目の京街道歩きは3月19日(土)になりました。守口から枚方(ひらかた)までです。

10:30に前回の到着地点である守口市八島町の交差点を右に(竜田通へと)曲がります。
竜田通に入ってすぐ右の駐輪場に本陣跡の案内表示があります。

その先の右角に蓮如が創立したとされる浄土真宗の難宗寺(守口西御坊)があります。

その角に石標が4つ集まっています。

守口宿には本陣が一つありましたが、大坂京橋から2里2時間なので、参勤交代で宿泊した大名の話を聞いたことがありません。でも、明治天皇が明治改元直前の大阪行幸で京街道を進み、初日は石清水八幡宮に宿泊、2日目は枚方で休憩し、守口の難宗寺に一泊、3日目以降は大阪の北御堂に滞在となっています。大阪遷都の可能性があった行幸だったようです。大阪からの帰路は八軒家から船だったそうです。

京街道は難宗寺の角を左に曲がって浜町に入ります。すぐ右手に盛泉寺(じょうせんじ)があります。ここも浄土真宗(守口東御坊)で、大阪行幸では賢所となった場所です。すべて浄土真宗の寺院ですね。明治天皇は蓮如に慧燈大師の諡号を贈っています。

国道1号線を渡ると一里塚があります。今日は郷土史勉強会の見学のようで、多くの人がいました。

しばらく歩くと淀川の横にある 守口市の浄水場に出てきます。

このあたりから上流の淀川左岸の堤防は文禄堤=京街道なので、浄水場を迂回して、淀川の堤防に上がってきました。

ここから枚方の手前までひたすら堤防の上を歩くことになります。

現在の淀川堤防は周囲より8~10mくらいの高さですが、文禄堤は半分くらいの高さだったようです。でも、江戸時代の版画などではほとんど堤の高さのない描き方をしています。。たとえば、淀川両岸一覧に出ている佐太天神宮(守口市)の紹介です。

対岸からの構図でしょうが、佐太天神宮の鳥居と参道が低水路の向こうにそのまま見えています。浪花百景にも同じような構図の絵があります。現在の堤防の上から写真を撮ると、鳥居と参道は中央の下奥になっていて、舟や対岸からは見えなくなっています。これは堤の高さが半分くらいでも見えないでしょう。なお、佐太天神宮の石の大鳥居は2018年の地震で笠木などが落ちたままで、柱だけになっています。

佐太天神宮の境内には与謝蕪村の句碑(「窓の灯の佐太はまだ寝ぬ時雨哉」)があります。下5が「ちどり哉」もあるようで、こちらのほうが好みです。蕪村が京から毛馬に戻る夜舟から眺めた深夜の佐太宿の賑わいだそうですが、この句でも舟から宿の窓の灯が見えていたようですね。当時の淀川の低水路の高さ、堤防(文禄堤)の高さ、家屋の位置などがわかると面白いのですが、そういう資料は知りません。

堤防の上を歩き続けるのに少し飽きてきたので、堤防から高水敷に降りて、川の流れを見ながら歩いてみました。

このあたり(淀川河口から20キロあたり)は毎日歩いている大阪市旭区・守口市あたりの高水敷よりも寂しい、でも悪くない雰囲気になっています。

堤防に戻ると、茨田堤(まんだのつつみ)の碑が置かれていました。

ここは寝屋川市で、仁徳天皇が整備させたと言われている茨田堤があったそうです。北河内が水浸しの時代ですね。

1キロほど先で、堤防から降ります。枚方市に入っています。堤防歩きは約7キロ続きました。

降りていく道の高さが堤防の途中で水平になって住宅が並んでいます。資料によると、この一列の住宅地が文禄堤の高さだったそうです。これくらいの位置に建っている住宅はところどころで見かけました。

京街道はこの先、蓮如が建てた光善寺(出口御坊)に向かっていきます。このあたりの街道はこんな落ち着いた雰囲気になりました。

光善寺です。

枚方市に入ると京街道の案内を多く見かけます。観光案内に力を入れているようです。

枚方宿に到着し、何度か来ている鍵屋の前を通ります。すぐ裏が淀川の堤防です。

京阪枚方市駅近くの石標を今日の終点としました。

今日の歩数は1万8千歩ほど、およそ12キロ、3時間半でした。遅めの昼食は枚方市駅でカレーうどんとなりました。