竹内街道、ちょっとだけ

2018年2月4日

2月3日節分です。最近はクルマに乗る回数が少なく、寒い時期は自然放電によるバッテリー消耗が気になるので、近場のドライブで竹内街道(たけのうちかいどう)を眺めてくることにしました。

前回は奈良町と平城宮跡を訪ねましたが、それより古い飛鳥時代です。竹内街道は堺から飛鳥をむすぶ、もっとも古い官道(大道)とほぼ同じところだそうです。春になったら、河内の歴史に詳しい友人の案内で二上山を歩く予定なので、ちょっとだけ、予習のつもりです。

いつものように、昼食後の出発で、予報とは違って雨が降りそうな曇り空です。一般道をゆっくり走り、柏原市を通って、山道を太子町に向かいます。途中、柏原市役所が大和川に面しているあたりで撮った写真です。

左端が柏原市役所で、大和川の流路変更地点あたりです。昔の大和川はこのあたりから北(左)に流れ、淀川と一緒に河内湖(草香江)を作ったそうですね。水害が多かったようで、1704年に付け替え工事があって、ここから堺に向かい、大阪湾に直行することになりました。大和川の歴史も興味深いものがあります。二上山が近くに見えています。

古くて小さな道の駅「近つ飛鳥の里・太子」が今日のゴールです。1時間半ほどで到着しました。入口に二上山のモニュメントがありました。ポツポツと雨が降り出しています。

「近つ飛鳥」は古事記に記載があるそうですね。難波津からの位置づけで、現在の羽曳野市飛鳥あたり、「遠つ飛鳥」は奈良の明日香村飛鳥あたりを指すそうで、竹内街道のルートです。

道の駅で買い物をして、クルマにお土産を入れて、裏に向かいました。モダンな橋の先に、竹内街道歴史資料館があります。

舗装は現代的ですが、昔からの竹内街道です。雨が降り出したので、滑らなくて快適です。

太子町では下水のマンホールに十七条憲法の初めが入っています。

竹内街道歴史資料館に到着しました。

入場料は大人200円でした。小さな2つの展示室があって、古墳時代以前からの資料が展示されていました。年表です。

このあたりは硬いサヌカイト(讃岐岩)の産地で、太古から石器のために採集されていたようです。

この地域周辺の立体地理模型(ジオラマ)があり、地名などのボタンを押すとランプが点灯して、とてもわかりやすいものでした。古墳のボタンを押すと、この模型全体にランプが散らばりました。この写真は竹内街道のランプが点いているところです。

この近辺の観光図ですが、雨が降っていたので、資料として眺めるだけになりました。

太子町にある九流谷古墳(五世紀)から出土した鶏の埴輪(複製)です。造形がなかなかのものです。

聖徳太子の墳墓構造が展示されていました。

かなり前に知人から教えてもらった「〈聖徳太子〉の誕生」(大山誠一 吉川弘文館 1999)を読んで、「聖徳太子は実在したか?」という疑問が提起されていました。厩戸皇子は実在としても、聖徳太子は虚構であろうという話題です。でも、歴史資料の軽重を何も知らないからでしょうが、その本で展開されていた論証のスタイルにはあまり納得できませんでした。聖徳太子については昔からいろいろと議論されているそうですね。

帰りは高速を乗り継いだら、45分で帰宅できました。奈良と同じくらいでした。
今日のお土産です。

右2本は飛鳥ワイン(羽曳野市飛鳥)のメルローとデラウェアです。100%自社農園産となっているので買ってみました。でも、ここのワインには収穫年が入っていないのですね。さっそく、「早摘みデラウェア」を飲んでみました。デラウェアのワインは初めてでしたが、アルコール度数は低く(9%)、爽やかな香りと、早摘みなのにねっとりとした糖度の高さが特徴です。果汁で糖度を調整(ジュース・リザーブ)しているのでしょうか。デザートワインとしてはいいように思えました。その後にメルローを飲みましたが、こちらはちょっと・・・。

クルマのバッテリーは帰宅までアイドリング・ストップ機能が働かず、充電は少し不足気味です。また近いうちにドライブが必要です。

大仙陵古墳と堺市博物館

2017年8月30日

8月26日、百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群として世界遺産を目指している堺市の大仙陵古墳を久しぶりに眺めてきました。

朝は涼しくて、パスカルと河川敷まで歩いて行きました。もう蝉の鳴き声は聞こえません。土手に雑草がすごく伸びています。

パスカルも久しぶりのロー・ジャンプでした。

昼前から蒸し暑くなってきましたが、墓参の後、堺の大仙陵古墳(大山古墳)に寄りました。昔、2年ほど堺市民だったことがありますが、その頃に訪ねることはなく、御陵を見たのはそれよりもっと昔の高校生時代でした。でも、いつも飛行機で伊丹・関空に離着陸するときは上空からのランドマークとして眺めていました。

暑いので、クルマで周回道路をゆっくり回ってみました。昔のイメージと変わらず、木々の向こうには空があるだけの茫洋さですが、道路はきれいになっています。半分くらい進むと民家があって、自動車は迂回しなければなりません。歩道はだいたい続いているようです。大回りして戻って駐車場に入りました。土曜日の午後で、駐車場は半分くらいの入りでした。

駐車場から正面の拝所まで外濠に沿って歩きます。一周すると2.7kmあるそうです。濠の水は緑色に澱んで、対岸にある樹木が繁茂して、沼地の森のようです。時々、魚が跳ねていましたが、淀川同様で、ここにもブルーギルやブラックバスが多く生息しているそうです。

拝所前で説明なさっている方に話をうかがいました。単刀直入に、「すべての案内に宮内庁指定の仁徳天皇陵と書いてありますが、大仙陵古墳とは書かないのでしょうか?」と質問したら、「そこなんですねえ、世界遺産の申請にも仁徳天皇陵としていますので、そのように説明していますが、見学に来た小学生が仁徳天皇陵は知らないけど、大仙陵古墳は知ってるって言うんですねえ。正直なところ、困るときはあります」と正直な説明でした。

仁徳天皇の陵墓と確定できないという話は以前から聞いていました。10年くらい前から、教科書の記述でも仁徳天皇陵が大仙陵古墳と変わったようです。

いろいろな事情が絡んでいる、ややこしい話題はさておいて、話をうかがっていると、大仙陵古墳は巨大で、クフ王のピラミッドよりも面積は広いものの、高さがないので、平地からは森を見ているだけの眺望になり、しかも中には入ることが許されていないので、視覚的アピールがむずかしいようです。まあ、拝所から中に入ったとしても、また濠があって、舟で渡っても、小高い森の散策だけでしょうけど。

南側の大仙公園にある平和塔(一般戦災死没者の追悼施設)は展望施設ではありませんが、平和塔の高さ60mくらいでは御陵の全貌を見ることができない、飛行機からの眺めが一番で、博物館で有料ですが、VR(仮想現実)のゴーグルがあるので、それを体験してみてください、とのことでした。

それでも、すぐ横に置いている石造りの模型はとてもわかりやすいものでした。

周囲を歩きながら見るAR(拡張現実)アプリにする手もありそうですね。

というような話の後、大仙公園にある博物館へ向かいます。平和塔が見えています。

そこを曲がると堺市博物館です。

入ってすぐに、10分ほどの百舌鳥古墳群の紹介映画を観ることができました。まだ、古市古墳群とのセットで世界遺産の候補申請する前の製作のようでした。わかりやすいCG中心で、VRを映画で眺めるという雰囲気でした。この映画を観たら、有料のVRを眺める気持ちはなくなるのではないかと心配しました。心配通り、VRは素通りしてしまいました。

数年前に改装されたという博物館には、堺市内の出土品、環濠都市時代の生産品など、ほぼ編年体の順番で、いろいろと展示されていました。

工夫していると感じたのは、出土品の甲冑を再現して、着用できるというサービスでした。着用してみることができる複製模型です。

大人用と子供用がありました。けっこう重くて着用はたいへんだとわかります。

堺の手織り段通が置かれていました。戦前のもので、もめん糸で織られているそうですが、手触りは柔らかく、シルクと変わらない質感でした。

ただ、堺からは手織り段通の職人がいなくなり、現在は伝承のための養成講習を続けているだけのようです。商品としては京丹後市に移った住江織物が細々と作っていると聞きました。館内に織機が置かれていて、火曜日に実演があると書かれていました。

堺市博物館所蔵の住吉祭礼図屏風(江戸初期)が置かれていました。複製品の展示でしたが、素人には違いはわかりません。

住吉祭礼図屏風の左隻には住吉大社、右隻には堺の町が描かれています。住吉大社と堺の環濠までは大和川を挟んで紀州街道で3キロはありますが、住吉大社と堺との結びつきが強かったのだろうなと想像できます。

現在は大和川が住吉大社のある大阪市(住吉区)と堺市の市境になっていますが、それは明治になってからです。堺という地名の由来は摂津・河内・和泉の境(三国山=三国ヶ丘)ですが、江戸時代までの摂津と和泉の国境は堺の環濠の真ん中を横切る大小路(おおしょうじ)筋でした。摂津一宮の住吉大社は堺も地元、と言うか、元々は堺の一部は住吉大社の社領だったそうですね。

屏風が描かれたのは大和川の流路変更(1704年)の前ですが、後に大和川の流路となる小さな川(狭間川)があったようです。橋があって、甲冑姿の人たちが紀州街道に沿った安立町(あんりゅうまち)から堺へと渡っています。大和川を渡る神輿渡御は近年になって復活したそうです。

住吉大社の反橋(そりばし)を渡ろうとしている神輿も描かれています。あの反橋を神輿を担いで渡ることができるんですね。

その他、堺鉄砲も大小ありましたが、お気に入りは犬の埴輪でした。

豚鼻で、一見、イノシシかと思いますが、立ち耳に巻尾という日本犬らしい姿です。

出土したときの写真もありました。

帰る前にもう一度、映写室に寄りました。もう一本の映画が始まるところでした。これは古市古墳群だけを紹介していて、CGを多用した内容は百舌鳥古墳群とほぼ同じでした。2つの映画をペアにして、百舌鳥・古市古墳群の紹介としているようです。

堺市は歴史的景観が随所に保存されているというわけではなく、石器時代・縄文弥生時代・古墳時代から環濠都市までの名残が点在している商工業・住宅の町です。西側には環濠跡の水路が一部残っていますが、東側は阪神高速道路の下になっています。

明治42年(1909年)測図の地図があります。上が住吉大社、下が堺の町です。南海線と高野(登山)線が走っています。

このころは堺も空母のような形の江戸期の環濠都市のままで、大仙陵を含めて、周りはすべて農地です。100年前に歴史的景観保存を含めた都市計画をしていたら、という仮定の話になってしまうのは、いずこも同じですね。

大阪府は近畿で唯一、世界遺産がありません。古市古墳群については羽曳野市に住んでいる友人から、世界遺産申請についての市民の温度差が大きく、どうかなあ、という話を聞いていました。百舌鳥(堺市)も古市(藤井寺市・羽曳野市)も、残っている古墳はすべて周りが民家に迫られていて、人口密度が近畿でダントツとなっている大阪府の混雑ぶりが一番気になるところです。そうではあっても、堺がいろいろと魅力的な土地柄であるのは間違いありません。

だんじりが帰る

5月8日、京阪守口市駅前で「第10回守口市だんじり祭」が開催されているということで、午後3時頃に、ちょっと手仕事の合間を縫って、散歩がてら見に行きました。暑いくらいのいい天気です。

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守口市内には11台の地車(じぐるま=だんじり)があるそうで、今日は8台が参加していたようです。普段はタクシー乗り場になっているところに地車が並んでいました。
昔、泉州で眺めていた地車と比べると、守口(北河内)の地車はコンパクトなサイズのように見受けましたが、次の写真の左手前は「南十番」地区の地車で、立派なものです。守口で一番大きいそうです。

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会場に着いたときは催し物が終了したところのようで、地車に動きがありました。

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並んでいた地車が南十番にお辞儀の挨拶をして、帰って行きます。
動画です。今回はすべて音が出ます。

南十番の方が現・守口市地車連絡協議会の会長だそうです。
他の地車が出て行って、南十番が最後に退場します。

この先、いくつかの障害があります。
先ずは、京阪電車の高架下をくぐらないといけません。

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ギリギリですが、何とかクリアです。もちろん、来るときにも通っているわけですから、クリアできるのは当然ですけど。

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見ているほうは、次の「文禄堤」の陸橋のほうが大変そうでした。

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通過中の動画です。

さて、最後は国道1号線の横断です。

ごくろうさま、と思うと同時に、今夜の酒宴は楽しそうですね、という感想でした。

 

 

大阪市営地下鉄100形

堂島の歯医者に行って、帰りは淀屋橋駅から地下鉄に乗ろうと歩いていたら、大阪市役所前に地下鉄100形105が展示されていて、びっくりしました。1970年の大阪万博の前くらいまで走っていたので、とてもなつかしい車両です。

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「大阪市営地下鉄開業80周年」と書かれた横断幕が前にあります。そういう記念事業の一環のようです。普段はどこかに静態保存しているようですね。カメラを持っていなかったので、携帯電話のカメラで写しました。

上の写真は南側から撮っているので、行き先表示板が心斎橋となっていますが、北側の行き先はちゃんと梅田になっています。梅田-心斎橋は大阪市営地下鉄開業時の区間です。

両面に折りたたみ式の転落防止柵が付いていて、連結部分では両側の車両から延ばしていました。昔のエレベータのドアみたいで、この雰囲気はとても気に入っていました。

次のようなサボ(車両横の行先標)があったのは記憶にありませんが、サボ受けがちゃんと付いていますね。

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初めて乗った頃の御堂筋線営業区間は梅田-西田辺か我孫子(あびこ)だったように記憶しています。その後は毎年のように延長されていました。

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御堂筋線では、梅田、淀屋橋、心斎橋駅の高いドームが開放的でした。特に淀屋橋駅の北側(京阪淀屋橋駅に向かう)階段部分は、今は中二階ができて、面影は隠されましたが、「ゴジラ」の第二弾「ゴジラの逆襲」でゴジラとアンギラスが付近で暴れまわって、土佐堀川の水が流れ込んできた映像を覚えています。子供心には実物のように思えました。

映画では電車は出てこず、たった3人が誰もいない淀屋橋駅に逃げ込んで、水に呑まれてしまいます。今時のパニック映画なら、電車とともに大勢の人が逃げ込んでいる場面になるでしょうが、そういう光景にせずとも、十分に核心をついた迫力がありました。